毒蛇の醜姫とハイエナから生まれた犬皇子3
目を閉じていると、陽だまりの穏やかな時間。ティダは久方の誠狼の温もりに幸福を感じた。昨晩から朝方までの至福よりは少ないが、それでも喜びは一入。
足音は全くしない。響き渡る会談に聞き惚れているというよりは、茫然となっているのだろう。
神からの声のような状況。反乱の腰を折るには十分だ。加えて内容。従わないと「報復するなら高らかに宣言し、ドメキア王国領土は焼け野原」となる。
アシタカは本当に一皮剥けたらしい。脅迫など最悪だと言わんばかりだった、血染めの記者会見後の姿。まだそんなに日が過ぎていないというのに、よく変わったものだ。良いか悪いかは別だが、アシタカは大きく成長している。油断していると追い抜かれる。
従わせる内容は全てドメキア王国、特に反乱軍へ有利。ここで反乱を推し進めるのは愚策。誰もが一旦考えるだろう。
『命令の為にもう一度使わせてもらいました。王国軍へ告ぐ!十日間は武器を捨てよ!王族への護衛不要!国民よ、この十日間は私に対して何をしても構わん!疑え、罵れ、軽蔑して嘲り笑え!石を投げるも許す!死なない程度なら全て不問とする!何をされようが構わない!毎日必ず城下街最外層へ出る!父に、我等王族に虐げられた鬱憤晴らせ!私は今更そんなことに頓着しない!死ぬ覚悟で帰国した!死なぬ程度など生温いが、全てを許すという生き様を多少は見せる!』
シュナの凛然とした美しい声が、紅の宝石の矜持をドメキア王国へ放った。よくもまあこんな発言を思いついたものだ。そもそも反乱自体がティダの陰謀なのに、それさえ掌に乗せて口巧者な女だ。一体幾つの手を考えてきた。会談中もどんな顔をして喋っていたのやら。
ティダは目を開けて、立ち上がった。やはり境界を越えたものはいない。紅の旗も下りて、ただ人の群れが立ち尽くしている
「反乱軍に告ぐ。いや、反乱しようとしていた軍に告ぐ。王家により反乱軍の首謀者、及びメルダエルダ家ルイ殿を次期王候補として指名した。これより盟友ティダは王候補の護衛になる。速やかに境界線まで現れよ。迎えに参る」
通信機をゼロースへと渡した。シュナの台詞には正直痺れた。選んだ女を間違えたかと一瞬脳裏によぎったが、ティダの為に真っ先に発言したアンリの顔が浮かんだ。別れ際の信じているから行ってこいという眼差し。
ーー誰も幸福にしたことが無い何て二度と言わないで。私がいるわ
「ウールヴ、お前はこの国の民ではない。俺が殺されれば眼前の人間を皆殺しにしても構わん。しかし盟友が何もかも許せと言う。好きに選べ。世は因果因縁であり矜持と誇りを忘れるな。この世は生き様が全て也。俺が先陣、次はゼロースだ。俺を尊敬してくれるのならば妻アンリエッタを生涯守って欲しい。まだ一晩だが心底愛したから生きていて欲しい。俺の部下は命令に従え」
ーー死ななそうだけど、死なないで
もうすぐこの地へ迎えにくる。圧倒的な支援者を連れて。大人しく護られるのではなく、最善を尽くしてティダの元へと現れる。アンリなら真っ先に反乱軍へ声を上げ、ティダを背に庇うだろう。シュナもラステルも同じように前へと出てくる。厄介な女達に慕われてしまった。来る前に敵の戦意を完膚なきまでにへし折るしかない。
ーー大狼なんでしょう?それを忘れないで。生きて
愛する女に庇われて死ぬなどという屈辱、二度も許せば万死に値する。三人もやって来る。ティダは誠狼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。それから服を脱いだ。靴を放り投げ、武器も後方へと投げ捨てる。ノアグレス平野でさらしのみの全裸となったが、今回は下着は脱がない。勝算の方が高いのならば、マシな姿の方が良い。
「ティダ、待っているべきだ!」
両手を広げたパズーが、震えながらも地に足を強く踏ん張って立ちはだかった。
「一つ、俺は愛する女に庇われ、万が一死なれたら自死する。来る前に反乱軍の戦意を確実に削ぐ。一つ、アシタカの総取りは帝狼そしてシュナ姫盟友の名折れ。死よりも許せん。一つ、俺が死んだら何が起こる?勝算あるから行く。よく吠えた。お前ならば俺を止めるだろうと期待を込めて連れ歩いた。ヴァナルガンドの目付として、怯まず臆さず常に声を上げて欲しい。俺の生き様、ここにいる群れの生き様からも学んで守って欲しい。俺の手はもう手一杯だ」
手を下ろさないパズーの隣をティダは通り過ぎた。心よりの嘘偽りのない表情で。両手で敬愛すべき紅色の外套を天高く掲げて、一歩、一歩と進む。
さあ燃え上がれ。
この背に何かしらを感じて、燃え続けて星となり暗闇を照らす星となれ。一つでは人も大狼も闇夜を歩けない。数が必要だ。圧倒的な数となればこの世の全てを照らせるだろう。
全ての命は愛に燃える。
燃え尽きることなく、次へと続く命の灯火。
渡すのならばこの世で最も矜持ある紅蓮の炎。
境界線まで進み出て足を止めた。
「ドメキア王国王族シャルル王子とシュナ姫の盟友ティダ・エリニュス・ベルセルグ!この国が覇王ペジテ大工房と協定結べば祖国ベルセルグ皇国の蛮行止めると信じている!国境線にてドメキア人を殺したのは俺がベルセルグ皇国皇子で民を背負ったからだ!今背負うのはベルセルグ皇国の民と愛娘シュナ姫が守ろうとしているドメキア王国の民である!国とは民である。機会を与えられたのならば立ち上がれ!」
己の最大限の声で届ける。多くの命を背に乗せて奮い立った者ならば、前線にいる。そこへならばこの声が辿りつく。
ドメキア王国にはシャルル王子とシュナ、そして後ろ盾に至宝。
ベルセルグ皇国には何とか育てただろう義兄第二皇子テュール、シッダルタ、そして後ろ盾にヴァナルガンドと誠狼。
日が高くなった。随分減った軍勢。殺気はあまり感じられない。銃の暴発一回でもあれば、時代は逆流する。それどころか激動となって大嵐を招く。何て頼りない方法か。
「俺が信じるのは自分だけだ。だから自分が選んだものは決して裏切らん!故郷の奴隷達に疑われ、罵れ、石を投げられ、弓を引かれ、火を飛ばされ、憎まれている!しかし伝わる者には伝わった!俺が欲しいのは見返りではない!生きてこそ!俺は幸福は与えられない男だ!生きて自らの手で掴み取れ!生きて手を取り合って作りあげろ!俺が好きな者にしか与えん!俺は好き嫌いが激しい!これが俺の矜持也!」
自然と口角が上がった。王狼により背を押され、ヴァナルガンドに破壊された人間関係への拒絶心。ここまで明け透けなく語る日が来るとは、夢にも思ってなかった。
「今、俺と同じようにして前へ出ようとした俺の部下!服は着ておけ!俺の肉体美には勝てん!選び抜き、共に死のうと頼んだ部下達よ!死ぬのならば一人ずつだ!時代の礎となる若輩を最後に残せ!無抵抗で平和を訴える者を一人ずつ、57名と大狼一頭殺すのならばそのような国滅びる!俺達の願いのために至宝と王族は許すだろう!しかし天は許さん!国の未来に幸あれと、天から海の恵みと流星が落ちた!蛮行には天災が訪れるだろう!」
身の内に入れた蟲の血により、閉ざしていても感じた支援と祝福。神から与えられた奇跡などではない。ヴァナルガンドがこの国を信じ、守りたいと切に願ったから蟲は親愛寄せる蟲の民に惜しみない手助けをした。
裏切りには反目。
牙には牙なら地を揺らせ。アシタバの中蟲ども。ヌーフが行なった一世一代の詐欺行為に加担せよ。この左腕の不自由さへの代償は、中蟲一匹の左脚一本では足りん!
俺の背に乗る命の数の多さを考え、俺が死ねば従え!蟲の民であるセリム・レストニアを支援し祭り上げろ。
それが蟲の幸福にも繋がるだろう!
この世は因縁因果。
善因善果、そして悪因悪果也。
***
無言で王狼の背中の毛をしかと握りしめて、通り過ぎる猛風に目を細めた。涙が飛ばされていく。シュナを後ろから抱えて、しかと守ろうとするアンリ。自分にしがみついて絶対に離すなとラステルに告げたアンリは可憐に笑うだけだった。
「大丈夫ですよ。こんなに愛する娘を残して死ぬなどしません。アシタカやシュナ姫の真心がきっとティダを守っています。貴方の平和への切望の為ならば、武器も捨てて反乱軍の前で声を上げているでしょう。それか陽動として逃げ回って邪魔をしている。きっとそうです」
シュナは目を丸めた。振り返るとアンリは目に一杯の涙を溜めて微笑んでいた。大粒となった雫が柔らかな風に吹かれて、真珠のような輝きを放って飛ばされていった。
「死なないでと頼みました。だからきっと最後の最後の瞬間には自らを守るでしょう。ティダは失うことの、引き裂かれるような苦痛を知っている。ここまでして守り抜かれたシュナ姫に、ティダの死を贈るなど彼の矜持が許さない。誰も幸福にしたことがないと訳が分からない事を言っていました。貴方に絶望を残して死んだりしません」
誰も幸福にしたことがない?シュナは茫然として、アンリの腹立たしそうな表情を見つめた。心底悔しいという隠しもしない嫉妬。
「全く、彼の思考回路は理解出来ません。ペジテ大工房を救い、シュナ姫を守り、ラステルの命も救った。今なら私がいるのに誰も幸福にしたことがないとは。この屈辱、一生かけて返す。死んでいたら可能な限りティダの意志を継いで、全部彼の手柄だと押し付ける。死ねば善人は天の国へ行くと言います。死んだら、星になるまで燃えるように生きてあの世で横っ面引っ叩く!」
シュナはさらに目を丸めた。アンリの思考回路こそどうなっているのだ。セリムだ。セリムに似ている。だから負けた。
憎しみで殺すよりも許して刺されろ。
迷いなく許しと激痛の道を選ぶ。それこそが愛するものの美しい命に相応しいと、信じる強い生き様。先に信頼寄せて心を開く、懐の深さ。だからティダはシュナの矜持から逃げても、アンリの矜持からは逃げられなかった。セリムを大狼として受け入れたティダは、同じ人種のアンリを拒むことが出来なかった。
「シュナ姫?ああ、貴方も私と共に怒ってくれるのですね。ティダには沢山言った方が良いです。自信満々で太々しいのに、自尊心だけ低い」
悪戯を考える子供のように、泣き笑いするアンリ。
「そうよ!巡り巡るの!ティダ師匠が死んでたら私も戦うわ!一人でも多くの人が生きれるようにするのよ!私は何も出来ないかもしれないけど、セリムがいるわ!私は千人力のセリムから離れないで支える!何があっても絶対に諦めない」
アンリよりも背が高いので、ラステルの強情そうな瞳の輝かんばかりの眼差しと視線がぶつかった。二人とも何て可憐に笑うのだろう。シュナは眩しくてならないと前方に顔を戻した。
「アンリ、私は仄かにティダが好きだった。誰だってここまでされればうっかり好きになる。例え生理的に嫌悪を感じる猛獣のような男でも。しかしこれは本物の恋ではなかった。次に誰かが私の心を照らした時に、本物か偽物なのか気づくことが出来るだろう。淡く小さいこの初恋。全然悲しくない失恋。ふふっ、私の人生にこのようなことがあるとは思わなかった」
砕けてバラバラと足元に散った恋が、頭上を照らす星となった。ハイエナに殺されるなら、全軍与えて地下室に引きこもり続けるというのも考えた。毎日死に怯え、限界寸前だった。愛する書籍と寄り添い続けてくれたカールと二人、太陽を捨てて静かに生きる。そういう道を選ぶか悩みに悩んだ。
ーー美しい声だ。会話も成り立つ。努力するには十分だ。いくつもの女を抱えるのも権力に群がる女も虫唾が走る。誓いを立てたからには従う
ーーならば誰か妾を選ばせてやろう。形だけの夫婦だ。好きに本物の嫁を取るがいい。代わりに四軍で励んでもらおうか
ーー今日の騎馬隊で一際大きな旗を掲げたのはそのカールだろう。あのように慕われる者なら人生を共に歩む価値がある
ーー私と同じ道化。目的の為なら手段を選ばない。それなら遊んでやろうではないか
ーー皆年老いれば醜くなる。見た目に価値などない
初対面から祝言の式典の間も、その後も、抱く時さえずっと優しかった。本能は騙せないと確信があった。それを疑心で捨ててしまったのは自分。
「そうですか。シュナ、私はアシタカが好きだった。欲しくて欲しくて常に隣で励み、声をかけ、世話を焼いた。そして何年も経ってやっと手に入れた」
アンリの声は楽しそうだと感じられた。なにが楽しいのだろう。
「互いを尊重して、とても親しげなのにどうして別れとなってしまったのかと私には不思議です」
立場の違いで引き離された、そういう悲壮感はない。清々しいくらいに凪いだ二人の信頼関係。
「捨てても追いかけてくれない程にしか好かれていなかった。いつも私をすり抜けて別の物しか見ていない。私も捨ててしまえる恋だった。シュナ、貴方と同じよ。次への糧でしかなかった。そして見つけたわ。見つけてもらった。ラステルが羨ましいわね。たった一度で運命の人と恋に落ちた」
次がある。それからティダを奪うなという警告にも感じられた。声に何処と無く棘がある。ティダこそが自分の運命の相手だとシュナへの牽制。そしてシュナにもまた愛し愛される男が現れると信じていると疑わない態度。シュナは自分の腹を抱えるアンリの腕に右手を添えた。
「シュナ!手を離すな!しかと両手でヴィトニルさんの背を掴んでいろ!」
突如ドスのきいた声を出したアンリにシュナは慌ててアンリから手を離して、ヴィトニルの毛を掴んだ。怖い。怖過ぎる。このような親愛こもった怒りはカールからしか無かった。
「私、アンリを見習うわ!崖の国の義姉様達に似ているもの!あとアンリ、シュナ。村に少しだけ仲が良かった仕事仲間がいるの。私とでも嫌そうにしないで話してくれた。その人ね、単に姉様が好きだったの。化物娘と話すかって耳にしてしまったことがあるのよ。これ、セリムには内緒ね」
話の流れからして恋をしていたのだろう。しかし微塵も思い残すことはないというような、愉快そうな笑い声だった。
「セリムさんに惚れ込まれるラステルの良さに気づかず化物娘なんて、とことん見る目が無い男ね。どうせ貴方のお姉さんにも振られたんでしょうけど」
「そうよ。姉様はイブン様というとても優しくて勇敢な方の婚約者だもの!それにセリムに比べたら海岸の砂の粒より小さい恋だったわ!それでもヤキモチ妬きそうだから内緒よ。セリムって変なの。私がセリムを大好きだって全然伝わらないのよ」
アンリがくすくすと笑った。シュナも同時に笑っていた。不安も心配も随分減った。なんて心強いのだろう。カールが失踪して、心の支えを失って苦しくて寂しくてならなかった。支えられて、次はカールを支える番だ。生きていればシュナの前に現れる。今のシュナを見せて何百回も礼を言いたい。
こんな人生、想像もしていなかった。誰が与えてくれたのか?母がこの世に産み落とし、カールと共に愛情深く育てくれた。だからこそ今のシュナがある。カールがずっと尊敬と敬愛を寄せて、自尊心を育ててくれた。だから励めた。奮い立てる。
醜さの中にあった、シュナの良い所をきちんと見つけてもらった。紅の宝石を作りあげたのは間違いなく母とカールだ。シュナもいつか作る側に回りたい。
「礼を言っていなかったヴィトニルさん。ティダと共に私に今の溢れんばかりの幸せを与えてくれた。大狼への礼に相応しいのは矜持。子々孫々まで貴方の名前を伝えましょう。書に残し、絵にし、歌を作ってもらい、劇にする。私が作る鮮やかな未来へ、最も美しいものはこれだと残したい」
頭を撫でたかったが、アンリに激怒されそうなので止めた。大砲のように王狼が三回吠えてくれた。
風よりも速いとはこのことだろうか。国を疾走する王狼の悠然とした力強さ。矜持こそ最も大切だという気高い一族。高らかな三回の吠えは尊敬や親愛の証だという。身震いする程に嬉しくてならない。
紅旗翻す、小さな飛行船の横を通り過ぎた。ベルセルグ皇国兵が並んでいた。最前列に立つ者が紅の旗と純白の旗を天高く掲げてくれている。王狼が速度を落としたので、王国軍の国紋付きの旗を持つベルセルグ皇国兵に小さく会釈した。
上空に三機の小型紅旗飛行船がゆっくりと旋回している。掲げているのはドメキア王国紅白の国旗、ペジテ大工房の白国旗、そして三頭ハイエナの黒国旗。小さいが知っていれば色で分かる。
「見えた」
日はもう頭上真上という程に高い。その光を一身に受けるように整列する騎士団が見えた。馬を横に並べ、中央に騎士達。ザッと見横十人に縦六列。少し足りない。両手を挙げてナスリムの丘に紅の外套を風に揺らしている。
歩き出した王狼の足元にティダの短旋棍が落ちていた。王狼が後ろに蹴り飛ばした。次は剣。次は靴と短剣。その次に現れた棒のようなもの数本を王狼が踏み潰した。騎士達は誰一人振り返らない。
丘を登り、整列する騎士達の真横に王狼が並んで静止した。最前列にゼロースとビアーの両名が横並び、若干ビアーが後ろに下がって立っていた。隊の中央に真っ青で震えているパズーと、青白くも精悍な顔立ちのシッダルタの姿があった。残りは全員涙を流し、拭うこともせず、鼻高々と言うように微笑んでいる。気配で分かるだろうに、一度もシュナを見ずに前方を見据えている。
声をかけるよりも、眼前の光景に目を奪われ絶句した。
「綺麗ね」
ラステルとアンリが同時に呟いた。シュナは言葉を失ったままだった。
ナムリスの丘はアシタバ半島の丘陵の中でも最も緩やかな平地に近い丘。そこに一文字に伸びている紅のキラキラと輝きを放つ線。その奥に並ぶ軍勢の予想よりも多い人数。
しかし誰も動いていない。
見知らぬ九つ尾の大狼一頭が騎士団の最前列のかなり前で伏せている。
その体の向こう、真正面にいた。そこが自分の場所だと言わんばかりに仁王立ちしている堂々たる立ち姿。
下着の腰巻のみしか身につけず、鍛え抜いた鋼の体を見せつけるように昂然と立っている。
両腕をこれでもかと高く挙げて、紅の外套を翻すティダの姿。
「シュナ姫様、囮陽動役として先陣駆けようと我等57名と大狼一頭、名をウールヴ、盟友ティダの部下は、ティダ皇子に命散るまで戦って欲しいと頼まれました」
ゼロースが前方をみつめたまま声を出した。初めて聞く震え声。
「下ろして欲……」
頼む前にラステルが飛び降り、アンリがシュナを抱えて飛び降りた。アンリは即座にシュナを地に立たせ、ラステルとほぼ同時に走り出した。アンリが上着を脱ぎ捨てて全速力で駆けていく。分厚い服とまさかの肌着まで脱ぎ捨てた。ラステルも負けじと脱ごうとして、振り返ったアンリに首を横に振られた。アンリはまた走り出した。呆気に取られていたら、ゼロースに横抱きで持ち上げられた。
「シュナ姫様は優雅に参りましょう」
足の速いアンリがみるみる大狼に近寄り、脇を通り過ぎて前に立った。唸られたが素知らぬ振りというように上半身下着姿で仁王立ち。ラステルが大狼の尾に捕まり背に乗せられた。
遅れて到着した月狼の背からセリムが勢い良く飛び降りて、無言で走り出した。背中に子蟲が張り付いている。しかしセリムはすぐに止まって戻ってきた。王狼と見つめ合っているので何か語り合っているのだろう。
「シュナ姫様、ヴィトニル様、セリム様、ティダ皇子と反乱軍の前に立つとこう言われました。平和への祈りを捧げよ。堂々と逃げも隠れもせずに訴えることこそが、相手の心へ届く。全員俺の矜持を背負って死んでくれ。反乱止まれば平和の神話、全滅すれば大狼が学ぶ矜持の神話。共に永遠を生きようではないか。ティダ皇子は前方に進む時、心底すまなそうに、辛そうに歯を食いしばっていました」
予想もしていなかった作戦だった。
セリムへの敬意。アシタカとシュナへの信頼。王国軍での鎮圧で多少の血が流れるよりも、一滴も流れないようにという勝算なしの単なる祈り。
そんな作戦を勝利しかし求めないティダが行うなどとは、予想していなかった。辛そうだったのはゼロース達部下への巻き添え行為への苦悶か。可能な限りしか守りたくないというのに、頼りない平和への祈りで全てを守ることにした。誰よりも守りたい部下よりもドメキア王国民全ての命を選び先陣切った。頼りない作戦を託すことへの謝罪が「共に永遠を生きよう」の言葉。
ゼロース達が誇らしく泣いてる理由はこれか。
驚きのあまり涙も出てこない。鳥肌だけが止まらない。
アシタカとシャルルがいつの間にか、ゼロースの左右に立っていた。セリムと王狼がゆっくりと歩いていく。ゼロースのかなり前、しかし九つ尾の大狼の後ろでセリムと王狼と静かに腰を下ろした。王狼に合わせたのか、セリムは両手を天にではなく地につけた。
ふと見ると、アシタカは激情というような眼差しに、悔しそうな表情を浮かべていた。唇を噛み、闘志を燃やす姿にシュナは面食らった。
「ゼロース、一人で歩ける。兄とあそこに並ぶ。この国は今はまだ私達の国だ。信じろというのならば私達が生き様見せねばならない。こう他人の生き様ばかり見せられては困る」
ゼロースはシュナを下ろさず、アシタカにシュナの身体を渡した。穏やかに微笑むアシタカが軽々とシュナを横抱きにした。
「参りましょう。大丈夫ですよシュナ姫。僕がついています。フォン、会話を拾わせろ」
骨太いが騎士達に比べれば線が細いのに、アシタカの腕は逞しい。アシタカが歩き出すとシャルルも横に並んで歩き出した。フォンが機械の入った鞄を持ってついてくる。二十五年の人生で一番頼もしい横顔のシャルルに、本気で人は変わるのだなと溜飲下がった。ヴァナルガンドは古い言葉で破壊だった筈だ。やはりセリムに託したのは間違いではなかった。信じてよかった。
なんて気分が良いのだろう。
「他には居ないのか!男なら大国の頂点目指さないのか!俺なら絶対にこの好機を見逃さない!しかしこの世は因縁因果、生き様こそが全て也!ふははははははは!好機を掴めないこれまでの己を省みろ!前に出て相応しくない器だと判断したら投げ返す!民を背負ったメルダエルダ家ルイとオザワルド家ヴラド両名。主の目的が伝わりきらずにシュナ姫を王へと望んだ第一軍師団長カイン!王家を見限った英断、第一軍師団長にして元第三軍師団長リチャード!そろそろ待つのが飽きてきた!」
気配や匂いで分かりそうなのに、ティダは振り返らない。筋肉隆々とした背が、さあ早く横に並べと訴えている。待っていたと言わんばかりに。単なる願望だがシュナはそう思った。
アシタカの腕から離れて、駆け寄りたいと身をよじったが降りれなかった。力強く押さえつけられた。
「悪いですけどティダ一人に渡しません。今後貴方の後ろ盾は僕だと見せつけなければなりません。そして、僕がそうしたい」
穏やかで静かな男の意外な激しさに、シュナはまた面食らった。しかし弛緩していく腕のあまりの優しさが、さあ行けと訴えている。切なそうな穏やかな笑顔。貴方の為ならばと訴えている。シュナは首を縦に振った。
「お願いします。ここが一番安心します」
袂を分かつ息苦しい男ではなく、深く息が出来る家族と生きていく。自然と首が動いていた。
「ドメキア王国諸君、ペジテ大工房大技師名代アシタカ・サングリアルです。シュナ姫様はまだ病で辛い身。お連れしました。それからシャルル王子と共に会議する方の確認をしに来ました。名乗りあげるのは本日だけでなくて構いません。会議は十日間。途中参加に途中離脱はきっと自由だろう」
アシタカはティダの横に並ぶと大きいが親しみのある声を出した。ティダの前に四名。全員がシュナを見て茫然とした。
「遅かったな至宝アシタカ。シュナをよく……なんだシュナか?至宝の腕の中はシュナしかいないがまるで替え玉だな。ああ、ラステルが騒いでた元気一杯、完治したはこれか。人は見た目にすぐ騙される。何があったか知らんが良かったな」
ティダはあっさり受け入れた。良かったなと真心こもった微笑みを浮かべてくれた。
ティダの腹から血が流れて、滴り落ちていた。血のついたナイフが地面に落ちている。アシタカがシュナを下ろして、スーツの袖を破った。それから丸めてティダの腹の傷口に当てて、反対の手でティダから外套を奪った。ティダが涼しい顔で当て布されて傷口を押さた。記者会見と正反対の構図。
「ティダ、信じられないなら刺してみろとかか?この中の誰を脅したのか知らないが全く最悪の悪行だ」
アシタカが血染めのナイフを拾いあげて後方に放り投げた。四名がギョっとした様子でアシタカとティダを見比べる。アシタカが嫌悪に滲んだ目つきで眼前四名を眺めた。穏やかに笑っているのに、激しい不信を投げつけている。
「無抵抗の者に手を挙げるのは恥です」
静かな声にカインの顔が真っ青になった。
「頭を下げるな!どうせ無理やり脅迫されたのだろう!後ろの者達が信じない。やれ。そんなところだろう。ティダ皇子は恐ろし過ぎる。よって不問とする」
膝をつこうとしたカインの腕を掴んだアシタカが凛然と告げた。残りの三名を見渡した。
「貴様等!目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めてるんじゃねえ!恥を知れ!無抵抗の者にナイフを刺すしか無かった男を無視するのは卑怯者!このクソ野郎共が!」
低く唸るような声にシュナはまた驚いた。クソ野郎共⁈アシタカの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。アシタカが大きく深呼吸して、穏やかになっていった。それから困ったように苦笑した。
「取り乱してすみません。僕は怒るとこうなる。まだまだ未熟で日々励んでいるところです。今の言葉もつい最近友人から叱責された時の言葉です。ティダ皇子は己を省みろと言っていましたが、人は変わる。やる気と前向きさに努力。もし貴方以外にも誰か勇気と気概に満ちた素晴らしい者がいたら名乗りでるように告げたり、推薦すると良い」
目一杯の優しさをこめたというような、笑顔はまるでセリムのようだった。わざとだ。アシタカはわざと怒鳴った。目的の為ならば、暴力以外なら何でもするというような態度。四名はアシタカの親しみやすさと潔さに感心した様子だが計算尽くだ。ティダとも気心知れているというのも示した。
「反乱軍に告げます」
ティダがシュナを睨んだ。それから足を小さく三回踏み鳴らした。足元に引かれている紅の線。エリニース塩湿原から運ばせた赤い塩だろう。シュナは言い直した。
「反乱軍しそうになった軍に告ぐ。守りたい者達の為に勇猛果敢に己を奮い立たせたことに敬意を示し、シュナ・エリニュス・ベルセルグは王位継承権を放棄することをここに誓います。これより兄上の宰相となります」
純白ドレスを両手でつまみ、首を差し出すようにしゃがんだ。これで首を刎ねられるのならば本望だ。
さあ殺せ。
殺してみろ。
殺せるものなら殺してみろ。
この世は因縁因果、生き様こそがすべて也。さあ殺してみろ。
悪蛇の毒牙で貫けぬ我が名は不死大鷲姫。
盟友はハイエナから生まれた大狼皇子。
偽りの誓いではない。毒蛇の醜姫もハイエナから生まれた犬皇子も、最初から存在しなかった。誓いなど初めから存在しなかった。
***
「運命ではなく己で選びました。これこそ真の誓いです。愛を誓います。私は永遠の愛をここに誓う。紅の宝石から大狼皇子への愛は、遠くから可能な限りの支援。近くからの支援は大親友二名の深い真心。三人揃って貴方から受けた至福や恩を返し続け、増やしていきます」
***




