蟲の民と毒蛇の巣1
晴天に翻るのは反目する双頭竜の紅旗、三頭ハイエナの銀刺繍が施された黒旗。
そして白地に男女が手を握り合う影絵のような黒い絵が中央にある簡素な旗。
「見たことなかったな、ペジテの国旗。アシタカも国民もこれがテルムとアモレの姿だと知らないのだろう」
セリムは舵を握りながら翻る三色の旗を見上げた。
「テルムとアモレ?」
手摺に立ってセリムに背中を向けているティダが振り返った。目が覚めたら子供の駄々のように暴れていて、アンリと何やら話した後は一転いつも以上の太々しい態度になった。酒を交わした時の静かで物腰柔らかな姿が本来の姿かと思ったのに、さっぱり訳が分からない。
ラステル、シュナ、アンリの三人を恭しく紅旗飛行船へ乗せた後の、船員全員に向けられた凶暴な視線。それからゼロース、シッダルダ、ヤン長官の必要以上に怯えた表情。
「何があったのか教えてくれれば教えよう。仲間外れのようで悲しい」
「ならもう一人仲間に入れてやるか。テルムとアモレの話をするのかはお前の好きにしろ」
手摺の上に立っていたティダがポケットから出した何かをセリムに放り投げた。右手で受け取ると手の大きさほどの丸く白い金属だった。
「よおアシタカ!聞こえるか?昨夜はどーも」
ティダが他人行儀な言い方で告げた。昨夜とは何があったのだろうか。
『壊したのかと思ったが、万が一と捨てないで良かった。済まなかったティダ。己を省みてみたが僕が悪い』
手の中のものはアシタカと繋がる機械なのか。セリムはしげしげと手元の機械を眺めた。どういう仕組みなのだろう?
「素晴らしい発明だ。離れていても会話出来るなんて。アシタカ、根を詰めずに元気にしているようで安心した。声に精気がある」
トンッと手摺から降りてセリムの隣に飛んできたティダが機械を引ったくった。
「これより毒蛇の巣へ潜入する。あの王なら手ぐすね引いて招き入れるだろう。シュナに任せるつもりだったが、俺にも理由が出来た。一捻りにして焼け野原にしてくれる。大鷲の巣作りはシュナと至宝に任せるからな」
アシタカには常に挑発するような態度だったティダの豹変振りにセリムは面食らった。
『僕は至宝なんかではない』
淡々とした返事だった。
「まだ、な」
ティダも落ち着いた声を出した。しかし低く威嚇するような声。二人が向かい合っていたら火花が散っているかもしれない。そういう張り詰めた空気感。
『ありがとう。その信頼を受け止めて励むことにした。そこで二つ聞いておきたい』
「気が合うな。俺も二つある」
穏やかなアシタカに比べて敵対心剥き出しのティダ。何やら立場が逆転している気がする。
『体は平気なのか?腕を切り落とされたと言っていただろう』
ティダが面食らったように目を丸めた。それから眉根を寄せて口をへの字にした。
「蟲に情けをかけられ治った。元通りだ。蟲の世界には謎が多すぎるが触れんのが身の為だ」
ティダの左手は思うように動かないように見えるが、セリムは黙っておいた。
『そうか、良かった。我が国は決して過去と同じ犯罪をしない。それが大陸一の歴史を誇る覇王たる由縁だ。もう一つは、次回の酒の席は崖の国と我がペジテどちらが良いかということだ。セリムが許してくれるなら、僕はあの雄大なる大自然で酒を飲み交わしたい』
ティダが鳩が豆鉄砲を食らったように益々目を丸めた。
「それなら崖の国だ。王たる大狼とその偉大なる妻グレイプニルと子を招くと約束している。親としての背中を学ぶんだ。帰国祝いで馬鹿騒ぎの酒まみれよりも、僕は意義のある酒を酌み交わすのが好きだと知った」
セリムは言いながら、茫然としているティダの顔を覗き込んだ。
「ふはははははは!この俺を丸ごと飲み込もうという訳か!己の器の小ささに気を失うところだった。育てるつもりが、勝手に育ったなアシタカ。それにヴァナルガンド、そこまでヴィトニルの懐に入ったか!俺が追い詰められる訳だ!」
ティダが腹を抱えて笑い出した。それから何故かセリムの頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
『違う。不本意ながら信頼の示し方を突きつけられた。五年も経ってから、かつての恋人に捨てられた真の理由を知るとは思わなかった。昨晩部屋を見渡したら誰もいないので虚しかったよ。しかし僕には酒を飲む友、そして優雅にお茶をしながら未来を語り合える友もいたのでよく眠れた』
ティダが鼻を鳴らし、靴で床を二回踏んで音を立てた。
「聞くのは止めだ。報告にする。毒蛇から生まれし大鷲が大空を飛び、偽りの誓い消滅した後、俺は真の祝言を挙げる。そこまで言うなら場所は崖の国にする。立会人は蟲の民と至宝。俺が誓いを破った際に心臓を貫く権利をやろう。我が唯一無二の親友ヴィトニルの願い通り、太陽に焼き尽くされようと人里で生きようではないか!」
セリムは突然の"祝言"発言にギョッとして機械を落としそうになった。ティダはいつかまた失ったものを取り戻せる、任せて欲しいと顔も知らぬ今は亡き気高い女性に祈った。
もう?友の為にセリムは何も知らず、何もしていない。酔ってぐっすり眠っていた間にアンリと何やらあったようだが、祝言?
『念の為に聞くが相手は?』
「言わずもがな。大陸覇王の至宝を袖にし、この世の全てを掌に乗せる男を選んだ北十字星。永遠の二番手、この世で最も不幸になる女だ。地獄の深淵に連れて行くと言えば、俺の周りに花が咲くから地獄など無いと言い放った。彼女に捨てられるなど末代までの恥だ」
勝ち誇ったように笑みを浮かべたティダの一途そうな目は、あまりにも蠱惑的だった。ティダがラステルを女として気に入らなくて良かったとセリムは思わず胸を撫で下ろしていた。この男は欲しいものは絶対に手に入れる強欲中の強欲に違いない。
愛を失った悲しみに浸り、残された願いに応える男。ソアレという女性に矜持の大輪を押し付けて、"俺の女"として後世に残すつもりのティダ。惚れていた女に逃げられていたと言っていたから、本来は俺の女じゃないっぽい。永遠の二番手ということは止めないつもりなのだろう。なんという自分勝手。
それにしても北十字星とは何の例えだ?
「あー、ティダ。僕は病める時も困難に襲われても隣から離れずに添い遂げてもらう代わりに、真心と永久の愛を捧げると誓った。そのような……」
『セリムの言う通りだ!アンリを泣かせたら望み通り心臓に刃突き立ててくれる!我らの誇り高き護衛人長官をこの世で最も幸福にしなければ、末代までその名を恥さらしとして伝承するからな!』
セリムの台詞を遮るアシタカの怒声。ティダがセリムから機械を引ったくった。
「泣かせるに決まってるだろうが。女を泣かせねえ男なんぞいるか。焦がれ、欲し、組み敷かれ、突かれ、女は必ず泣く。女心も分からぬ青二才め。ふはははははは!」
つい小一時間前まで死ぬと大騒ぎしていたのに、えらく機嫌が良い。まるで子供じゃないか。頭が痛くなってきた。
『貴様!そのような言い方は許さん!己に相応しい態度や言動をしろ!』
「逃げたら地の果てまで追いかけて地獄に連れ戻す。道が分かれたら引きずって隣に立たせる。死ぬまで泣かせてやる。暗闇を煌々と輝かせる翼を持つ純白の女。勝手に光りを放ち俺を照らす。恐れ多くて幸福にするなど誓えんわ!」
北十字星は白鳥座の別称だ。そういうことか。セリムはティダの肩を叩いた。
「何があったか知らんが浮かれすぎだ。僕は今、己がどのようだったか知って穴があったら入りたい」
セリムのラステルへの態度はこのように思われていたと突きつけられて落ち込んだ。パズーに何度も咎められる訳だ。ティダが思いっきり顔をしかめ、額に手を当てた。それから"まだ酒が残ってるか?"と青白い顔になった。確かにほのかに酒臭いが、酒に酔ってるようには見えない。別のものに酔っているのは一目瞭然。
『そんなに妬くな。二人とも僕の大切な友だ。心から祝福を述べる。とうの昔に終わった仲だ。アンリも僕も、互いの後にも選び別れた相手もいるし……。いや何でもない。今のは口が滑った。あー、僕は忙しい。また連絡をして欲しい。崖の国での祝言についても楽し……』
バキッと大きな音がしたと思ったらティダの右手が手摺を折っていた。
「切るなアシタカ。切ったら嬲り殺す」
ティダの目が据わっている。
『それは困るが大事な会議がある。続きは……』
今度は踵落とし。手摺がまた破壊された。
「アシタカ!僕の為に待ってくれ!」
セリムは機械をティダから奪おうとしたが、怖くて近づけない。
『あー、ティダ。君程の男が惚れた女だ。そこらの男だって、まあなあ?彼女が出来るだけ女っ気を消して仕事をしているのもまあそういうことだ。本人は気づいてないが、高嶺の花とか真珠と呼ばれていたり……。つまり、何だ?僕のように捨てられないように励むんだな!会議だから切る!後は頼むセリム!』
逃げるな卑怯者!セリムは叫びたかったが、俯いてわなわなと震えるティダの姿に声が喉に突っかかった。
「通りでひらひらと蝶のように避け、余裕たっぷりな訳だ……。まあお互い様だ。すぐ余裕なんて無くしてやる。アシタカは変わってきたようだし使えそうな材料も得た。何もかも楽しみだ」
風で乱れる黒髪を掻き上げ、舌舐めずりしたティダの横顔にセリムは目を奪われた。自信と余裕に満ちた男の顔にピンときた。
「ティダ、僕は君を見習う。僕はラステルの尻に敷かれたくない」
ティダがセリムのコートのポケットに機械を突っ込んだ。また髪をぐしゃぐしゃにされた。
「より惚れさせなければ無理だ。よってお前には無理。蟲の民になってまで手に入れた女なんだろう?一生無理だな。さて、ドメキア王から使者がきたようだな。あの白旗は襲撃の罠か、懐に入れてから毒殺するつもりか、俺たちを掌で転がせると思い上がってるからか。お手並み拝見といこうじゃねえか」
見上げると偵察用と思われる小型飛行機が白旗掲げて近づいてくる。広がる青空に一機のみ。
「信号弾をあげよう」
「いや、お前の機体で接近しろ。俺が旗信号で伝える。機体の準備をしておけ。俺は錨を下ろしてくる。この船はヤン長官に拾わせる手筈にしてある」
また聞いていない話だ。セリムが非難する前に、ティダは操舵場から飛び降りて駆け出していた。
「機体の準備って、大鷲凧はいつでも飛べるようにしてあるのに。それに錨を下ろすまで舵から手を離せる訳ないだろ」
ぼやきが聞こえていたようで"煩え!そのぐらい分かってるんだよ!"という怒鳴り声が返ってきた。今まではティダを諌めるには、本人かヴィトニルしかいなかったのでこれからはアンリにも相談しようと心に決めた。アシタカが告げたように、ティダは己に相応しい言動や態度をするべきだ。
ティダが巨大な錨をまるで果物を拾うように軽々海へ放り投げた。セリムは甲板の端にある、布を被せた大鷲凧の元へゆっくり移動した。
「何のんびりしてるんだ!」
先に大鷲凧の所まで到着しているティダが、苛々したように右足で床を叩いている。
「多少急いだところで何も変わらないだろう?それとも1秒でも早くアンリさんと結婚したくて気が早っているのか?」
ティダが愉快そうに笑い、大鷲凧を囲う布を引き剥がした。
「俺を揶揄うとは良い度胸だ。弟子に何されるか覚悟しておけよ。ちなみに俺はお前とは違って、泣いて懇願するまで焦らす。今頃悶えてるだろうな」
「弟子にって、ラステルに何するつもりだ!それにアンリさんに何をしたんだ!あとそんな重い靴は困る」
ティダが勝手に大鷲凧に乗りそうになったので、セリムはティダの靴を指差した。
「嫌なら二度と俺を玩具にしようとか考えるなよ?靴はどうにかしろ。左腕がいまいちだから流石に困る。よし、この靴のままで飛んでくれるなら俺が女のあしらいを一つ教えてやろう。ラステルが益々お前に惚れる」
やはり腕は接合しても、本調子ではないのか。しかし話を流されてたまるか。
「アンリさんに何をした?大切なら、あしらうとかしないで素直に宝物のように扱うべきだ。君はそういう行いが出来る男だ」
ティダがいきなりぶすくれた。
「その目を止めろ。ったくアンリといい俺はその目に弱い。先に俺を焦らしてきたのはアンリだ。思い出さないようにしているんだから止めろ。アンリの話をするな。名前を出すな」
ティダが不機嫌そうなまま大鷲凧に乗った。何だ、ティダも尻に敷かれそうなんじゃないか。ほくそ笑んだら睨まれた。
「靴は機体に下げる。何とか飛んでみせる。君は体が大きいから腹ばい。旗信号は出来ないから僕が発煙筒を焚いて、手信号をする。言葉は君が言った通りにする。バランスが大切だから勝手な真似はしないこと。以上」
靴を脱いでもらい機体下柄、左右それぞれに靴紐を結んだ。
「意外に面倒な機体なんだな」
「君の腕でも飛べないだろう。崖の国の模造風凧で腕試ししてみて欲しい。これだけは君に勝る自信がある」
「他にもあるだろう?それも多くだ。俺は大した男ではない。だから女も必要になった。良いか?どんなに愛でたくても耐え忍び、飴と鞭で惑わす。女心と秋の空って言ってな、足りな過ぎても満たし過ぎても女は逃げる。とんでもねえ生物だ。遊びたいなら、なお選別する目、余裕、手練手管が必要だ」
セリムは耳を傾けた。急に語り出したのは何か思うところがあるのだろうか。ティダが素直に指示に従った。
「困ったな。僕は我慢が苦手だ。それにラステルが素晴らし過ぎて注ぎ過ぎる。ラステルにいつか逃げられたらどうしよう」
セリムはティダの両脇腹の外に足を乗せ、柄舵を握った。
「いや、ラステルならこの世の果てまで追いかけてくる。しかし余裕を持ては楽しくてならんぞ。俺は早くも遊ぶのを禁じられた。ということにしてある。一つ譲って残り九つは俺の好きにする」
遊ぶのを禁じられた、は嘘の匂いがする。アンリに逃げられたくなくて、自ら提案したのではないだろうか?アンリはこのような自分が世界の中心だと言わんばかりの男を、それも亡くなった女性への想いが強いのに、どのように陥落させたのだろう。男に学ぶより、女心は女性から学ぶべきか。
「僕はアンリさんから学ぶことにする!飛ぶぞティダ!エンジン全開!」
ティダが大きいので子翼ペダルも使えなさそう。ここまで制限があるとワクワクする。エンジンペダルを強く踏み込んだ。
「だからアンリの名前を口にするんじゃねえ!」
「話をするなと言って自ら話を振ったのは君だろう?」
「その口、腹が立つな。ラステルに……」
「ラステルに何かしたらアンリさんに告げ口するからな」
ティダが黙った。すっかり骨抜きらしい。人生とは分からないものだ。ラステルは何年もセリムを見ていたらしいが、セリムの世界にラステルは急に現れた。ティダとアンリも互いにそうだろう。人の縁というのは不思議なものだ。
「壮観だな」
急上昇してエンジンを切った。丘陵続く大地に小さな森と街や村が点在する。圧巻なのは遠くに見える紅の宝石だというエリニース塩湿原とシュナの森。
上空は予想以上に乱流激しい。機体がガタガタ揺れる。知らない風の道に胸が踊る。
「紅の宝石エリニースに武人シュナ姫。本当にシュナに相応しい名前だ。ヴァナルガンド、ラステルがシュナを歴史の偉人にする。低い自尊心を持ち上げ、足りぬものを与え、目も眩むような女にする。老いれば見かけなど何の役にも立たん。俺は後悔するだろう。友の妻と至宝に託すしか無かったってな。俺は出だしを誤り、何もしてやれなかった」
とても寂しそうな声にセリムは喉が詰まった。シュナの事をそんな風に考えていたなど、微塵も感じなかった。
「偽りなど要らないと、突っぱねられた。まあ、互いの道も遠ざかって行くからな。本気で迫ってこられたら俺なんぞすぐ落ちるのに求められなかった。ホッとしたよ。まあ、シュナは本物を知っている。片目しか見えんのに見抜く目を持つ力が誰より強い。逆に俺は間違いだらけで目も悪い。だから反発しあって溝しか残らなかった」
珍しく弱気で自己を卑下する言葉が出てきて驚いた。横柄な態度はこれの裏返しなのかもしれない。自信があるのか、ないのか、不可解な男だ。口を挟むと語るのを止めそうなので、セリムは黙って耳を傾けた。偵察機までもまだ遠い。
「そしたら即座にアンリだ。シュナ同様、使うために踏み込んだらとんだ見込み違い。俺は女を見る目が無さすぎる。シュナは見抜いてた。利用してはいけない女だってな。痛い目見ると。気にしてなかったらアンリって女は人の嫌なところばかり突いてきた。痛い目どころか誓いを破らされるところだった。心、という点では破ったな。死に値すると思った。アンリの目はヴァナルガンドの目に似ている。ソアレが死んだ時の目にもそっくりだ」
柔らかな風が吹き抜けた。ティダの髪を撫でるように揺らす。
「僕はどんな目をしている?」
「俺を信じているという目だ。お前はそんな奴ではないと訴えてくる真心こもった目。ヴィトニルの黄金太陽と同じ……唯一無二だと思ってたのによ……。ヴァナルガンド、お前が現れた。お前がいなかったらアンリの目には気づかなかったのにな……」
スンッ……とティダが鼻を鳴らした。表情は見えないが、泣いているのかもしれない。
「短時間なのに掻っ攫われた。一撃目、信じる相手なら勝手に見返りは見つかる。俺はヴィトニルを思い出した。二撃目、一人では生きれない。俺はヴィトニルを思い出した。弱ったところにまた追撃。ヴァナルガンドやラステル、シュナと俺を横並びにして護るべき相手だと。軍人だから俺の隣に立ち、庇う。それで自分が死んでも相手は前を向いて幸福になると宣言した。自分が護りたい相手ならば幸せが勝手に訪れるだとよ……。まるでソアレの代弁だ。ボコボコに殴られた」
ーーヴィトニル!だから人里なんて嫌だと言ったんだ!俺は進みたい訳じゃねえ!一人に気を許したらこの様だ!畜生、お前を無下にすれば良かったがそんなの出来ねえ
ティダの悲痛が蘇る。
観念したくないから、自暴自棄に死のうとしたのか。王狼がティダを"再び失うことも恐れている。だから憎まれ役しか買いたくないし、極力人に深入りもしない"状態から変えたいと支え続けてきて、やっと芽吹いた。幾年月かかったのだろう。
「何を言っても目が変わらん。アンリの性根がヴァナルガンドと同じなんだろう。よくもまあアシタカはあの女を諦めたな。他の男もだ。信じられん。逆か、アンリに捨てられたのか。俺も捨てられるかもしれん。人の生き方を変えておいてやはり猛毒、最悪の女だな。しかも俺の周りに花が咲くから地獄など無いとは物好き通り越して妙な女だ……」
後半は独り言のような呟きだった。最高の女を見つけたではなく、最悪の女に猛毒とは惚れた相手に失礼ではないのか。ティダの性格だと本人にも言っていそうで、セリムは身震いした。怒らないのならば、アンリはそうとう懐が広い女性だ。
「君以外の男はアンリさんの深いところを知らないのだろう。君だから知れた、が正しいのかもな。ドーラ義姉上が恋とは運と縁だと言っていた。そういえばソアレさんは君の恋人ではなかったんだろう?」
「また揶揄うのか。そうだ。女に目がない俺は逃げられてた。一途に想ってくれていたと知った時は死際。だから丸ごと手に入れた女はアンリが初だ。少々浮かれたのはそのせいだな。しかし俺には圧倒的な経験値がある。掌で転がして、何処にも逃すか」
少々浮かれた?アンリの話をするな、名前を出すなと言いながらずっと語っているのはどの口だ。シュナの話だったはずが気がつけばアンリ。そしてアンリ、アンリ、アンリ……。さらに嫉妬深そうなところ。セリムはまた穴があったら入りたいと自己嫌悪に胸が押し潰された。
今のティダはラステルに夢中なセリムとまんま同じだ。人の振り見て我が振り直せとはこのことだ。まあお互いになら許されるか?
「僕の方こそ信じられない。君がラステルに惚れないなんて」
嘲笑ってくると思っていたのにティダはしばらく無言だった。
「ラステルの目はヴァナルガンドしか映っていない。そんな女に惚れる程俺は阿呆じゃない。見た瞬間、白旗だ。ふむ、俺はお前を見習うべきなのか?しかしラステルもこの妙ちくりんの何処にあそこまで溺れているのか。本人に聞いてみるか」
また後半の方は独り言のようだった。余程セリムに心許してくれたらしい。
「ヴァナルガンド、くだらん話はここまでにしてそろそろ偵察機だ」
「君が話をはじめたんだろう?ティダこそへんてこりんだ。そうだ、アピに君はヘトムと呼ばれている。因みにセリムの友達でトム。その中でへんてこりんのトムでヘトム」
セリムは発煙筒を焚いた。真っ青な煙を雲のように流す。
「ヘトムねえ。偽名が必要な時は使うか。締まりのねえ名前だな。手信号でこう伝えろ。先に王と会談したい。ティダと蟲の民の二人のみ」
近づく偵察機に手信号で伝達する。何度か同じ手信号を繰り返して、偵察機の周りを旋回した。ついてこいと返事が来た。
「四重砦で蜂の巣になりそうになったら逃げろよ。この命、全面的に任せてるんだからよ」
偵察機と距離を空けて並走する。互いに撃たれるかもしれないから背中を向けられない。しかしセリムの股下にはティダの無防備な背中。身が引き締まる。
「銃や殺戮は忌み嫌うが、友の命を背負ったから準備してある。右の引き金は煙幕、左の手前は連射。奥は閃光弾だ。靴の重さと二人乗りで操縦に集中したいから君の判断に任せる」
徐々に近づく迫り上がる台地に聳える天空城と名高いドメキア城。
「レストニア一族と民が、ドメキア王国から東に流れたというのは本当だな。シュナの森の名称もそうだが、崖の国の城塔はこのドメキア城の簡素版だ」
四つの堅牢な砦内に作られた街並、田畑に水路。そして並ぶ風車。砦からは出ない程の高さの絢爛とは言えない質素な城。台地の内部は地下迷宮があるかもしれない。
「分裂統合繰り返して、今のドメキア王国となってから約五百年。ドメキア一族の歴史としては千年程だっけかな。大陸覇王の大技師一族に次ぐ古い血筋。あの城、中身は吐き気がする程派手だ」
偵察機は台地手前の広々とした平地へと向かって行く。いくつもの飛行船や飛行機が停泊している。
「飛行場の手前に案内されるらしいな。歓迎か殺しにくるか」
「大鷲凧を奪われたくないし破壊されたくない。着地したら空に放つ。北西から強く吹く道に乗せれば紅旗飛行船へと飛ぶだろう。アシタバ蟲森の家族にも頼んでおく」
この地でついに人の命を奪うことになるかもしれない。セリムの手足は自然と震えた。
「アシタカと違ってお前は人の命を背負う王族として教育された筈だ。それでも圧倒的な力があれば余計な殺しはしなくて済むと励んだのだろう。その生き様、努力した時間に胸を張れ」
下降しながらどんどん体が冷えていく。それなのに汗が吹き出てくる。愛する女性を争いで失ったティダが、自ら他者に手を掛けることにどう折り合いをつけたのか教えようとしてくれている。
「生存競争は自然の摂理。生きるのは恥ではない。小さく感情がなさそうな虫も巨大な高知能の蟲でさえ、降りかかってきた火の粉は振り払う。先に手を出されたら躊躇うな。いいか、死ねば背負うもの全て巻き込む。この世は不条理で命の価値は平等ではない。お前は殺されてはならん高い価値を持つ命だ」
動揺で大鷲凧が大きく左右に揺れた。初飛行より酷い揺れ方だ。
「嫌だ!」
「嫌だ!」
セリムの叫びにティダが声を合わせてきた。
「生きている尊さを愛し、人を愛し、生き物を愛でる。心臓に剣を突きつけられても真心を忘れず、憎しみで殺すよりも許して刺される。憎悪では人は従わない。それがお前なんだろう?曲げるな。毒蛇の巣では生き様こそ全て。好きに生きろ」
冷たくなっていた手に血が巡るのを感じた。
「ティダ、君に会う前に聞いていた噂はこうだ。大狼を操り見事な剣技とトンファーという棒術で先陣を切る敗北知らずの皇子。先陣駆けるのは部下の命を守るため。そんな風に考えていた」
偵察機は陸ギリギリを飛行してから上昇し、飛行場の方へと去っていった。待機せよと手信号を残して。大鷲凧を着地させて機体から降りた。それからティダに手を差し出した。ティダがセリムの手を掴んで体を起こす。ティダが靴を履きながら口を開いた。
「誰も聞かねえから特に話したことはないのだが。先陣駆けて頭を抑えればそれで国境線戦は終わり。敵も味方も最低限の損害だ。剣は盾代わり。短旋棍は気絶に使いやすい。まあ、性悪な人間は多いから嬲り殺すことも多いがな。なるべく感触残る武器か素手や足にする。どんな命も忘れちゃなんねえからな。それが俺の妥協点だ。真似る必要はねえ」
立ち上がったティダに真剣な眼差しで見据えられた。ティダが右手を差し出したのでセリムは応じた。ティダが握っている手に力を込めた。
「命の価値が平等ではないのは優劣があるからだ。本来命は等しく死も平等。生きるもの全てが優劣をつける。俺は大狼とその矜持、そしてソアレに託された祖国と故郷を上に置いて生きてきた。この世の全てを掌に乗せれば、何もしないよりは多くを守れると思っている」
セリムは黙って続きを待った。
「しかしより上が現れた。宝石のごとき三人の女、そしてヴァナルガンドとアシタカ。これは手元に置かなきゃ守れない。しかも自分も守らなければ守れない。俺が捨てて二度と手に取らないと思っていたものだ。俺はこれより先、今まで以上に優劣をつける。俺は力があり過ぎて時に踏み外す。人を惑わし不本意な騒動も起こす。必要があれば俺を壊せ。矜持に目的、命。何を壊されてもお前ならば文句を言わん。俺は俺にそう誓って人里に降りた」
セリムは力強くティダの右手を握りしめた。
「人は変わる。君が癒えない傷を負ったまま、苦痛と共に前へ進んだように変われる。僕は己の恥や罪に飲まれるだろう。欲深くて背負いたものが多すぎるが故に潰れる。その時はティダ、君の背を思い出して立ち上がり変わろう。しかし何もかも生きてこそだ。僕はレストニア王族とアモレの祈り歌に従う。殺すなら逃げる。無理なら説得する。それでも駄目な時には拳を振り上げる。僕だって死にたくない。だから人生の先輩として、友としてこれより先の罪や罰を共に背負ってくれ。必要があれば君の価値観で止めて欲しい」
ティダが三回足で大地を踏み鳴らした。セリムは大鷲凧を空高く、南に続風の道に向かって力一杯投げ飛ばした。
オルゴーは古き言葉で誇り
風の神に見放されない限り再び乗れる時が来る。セリムは愛機が小さくなるまで見つめ続けた。




