Lui manger sa tartine ―彼のジャムパンを失敬して食べてしまう―
「今年はちょっと奮発したんだぞぉ~」
という小雨の言葉通り、今年の義理チョコは有名ブランドの名前が並ぶ、豪華な品揃えだった。甘党の俺としては心躍るラインナップである。テーブルの上に広げられた高級チョコレートと、それに不釣り合いなほど安っぽい缶チューハイ。
「おお……マジだ……」
「言っとくけど、今あたし多分瞬より稼いでるからね」
「はい……恐縮です、ありがとうございます」
「うむ、わかればよろしい」
アルコールの影響か、今日の彼女は、いつもより随分押しが強いように感じる。経験上、こういう場合はなるべく相手を刺激しないほうがいい。
「開けてもよろしいでしょうか?」
「苦しゅうない」
微妙に用法がおかしいような気もするが、もちろんそれはスルーだ。
「うっま。やっぱ高いだけの事はあるわあ」
「これ、全部でいくらしたの?」
「あのさぁ、そういうこと聞くか? 普通……」
仰る通り、これは失言だった。反省。
全部で五箱あった高級チョコレートは、あっという間に一つ、二つと空き箱になり、今しも、三つ目の空き箱が生産されようとしている。せっかくだからじっくり味わいながら食べたいと思うのだが、小雨の消費ペースがいつにも増して早く、そんな悠長なことを言っていられない状況であった。ハイペースなのはアルコールに関しても同じで、缶チューハイの空き缶も既に三本並んでいる。うち一本は俺のもので、つまり彼女はもう二本開けていることになる。肝臓と膵臓の悲鳴が聞こえるようだ。
約半年間の飲みサー経験で鍛えられた俺にとっては缶チューハイなんてジュースみたいなものだったが、飲酒の習慣がなさそうな小雨には相当効いているらしく、空き缶の数に比例して、少しずつ顔の赤みが増していた。潰れたらやっぱり俺が家まで背負って行かなきゃいけないんだろうな……。
そんな俺の心配をよそに、小雨は三本目の缶チューハイに口をつけ、ごくり、ごくりと二口飲み干した。ぷはぁ、と息を吐いて、彼女は突然、胡坐をかいている俺の太ももをバシバシと叩いた。
「瞬、瞬、ゲームしよ、ゲーム」
「いててて、わかった、わかったよ」
酔っているせいで、力加減までおかしくなっている。この調子ではコントローラーを破壊される恐れもあるが、逆らうのは得策ではない。俺はテレビ台からコントローラーを取り出し、テレビとゲーム機本体のスイッチを入れた。
思えば、こうして腰を据えてゲームをするのは随分久しぶりだ。去年のバレンタインに小雨と遊んで以来になるかもしれない。高校に入ってからは、もうお互い昔のようにゲームに熱中する事もなくなっていたので、ソフトも二、三年前に買ったものしかなかった。それでも、テレビに向かって右側が俺、左側に小雨という並びは、子供の頃から今日までずっと変わっていない。
ソフトは、誰しも一度はプレイした経験がある対戦型のレースゲーム。相手に物をぶつけたり、障害物を置いて滑らせたりする、と言えばわかりやすいだろう。小雨が得意なゲームだ。
四箱目のチョコレートの封を切り、プレイの合間につまみながら数回レースをこなした。結果はというと、全て俺の圧勝だった。やはり酔っているせいか、小雨のカートの動きはいつになく鈍くて、周回遅れになる事さえ一度や二度ではなかった。
「あ~ん、もう、なんか、別のゲームしようよ」
負けが込んだ小雨は、ふてくされてコントローラーを手元に放り出した。女の子座りの姿勢で、猫背になってがっくりと項垂れている。胡乱な目つきで、少し眠そうに見える。
「別の? 別のか……何がいいかな」
集めていたソフトの大半は高校卒業前にまとめて処分してしまっていたので、手元に残っているものはあまり多くない。その中でも、対戦プレイができるソフトとなると更に数が限られてくる。
「格ゲーでもいい?」
「やだ」
「他に対戦できるものがないんだけどな……協力プレイでもいい? ガンシューティングがあるけど」
返事はなかったが、ワンテンポ遅れて、彼女はこくりと頷いた。
それは、海外のメーカーが開発した所謂洋ゲーで、全世界で一千万本以上を売り上げ、大ヒットしたソフトだった。この類のゲームは概して操作が複雑で、このジャンルをある程度やり込んでいないと満足にキャラクターを動かす事さえできない。オンラインプレイなどしようものなら、外人に口汚く罵られるのがオチである。そもそもこのソフトを動かすのも久しぶりなので、キーの割り当てなんて殆ど覚えていない。確か、トリガーがRボタンだったか……。
と、まあそんな状況であるから、協力プレイがうまくいくはずもない。難易度の低いステージで敵COMの数も少なかったのだが、小雨は遮蔽物に身を隠すだけでも四苦八苦して、相手の格好の的になっていた。
「あ~、もういい。やめたやめた」
小雨は再びコントローラーを放り出し、横になった。その直後である。
ガンッ、と硬い音がして、
「いっ痛……」
小雨の短い悲鳴の後、テレビの画面がぐらりと小さく揺れた。驚いて彼女の様子を見ると、どうやら、伸ばした右足の小指をテレビ台にぶつけたらしい。上体を起こし、右膝を抱えるような格好で右足を押さえている。
「おい、大丈夫か?」
「あ~、もう、本当ついてない……本当、何もかも」
そう呟いて、小雨は右膝を立てた状態のまま、仰向けに寝転がった。きっとそのまま寝てしまうだろう……いや、そんな事より。
俺の目は彼女の姿態に釘づけになっていた。
さっき膝を抱えた時に捲れたのか、ニットワンピのスカートが少しずり上がって、立てられた右膝から臀部にかけてのなだらかな曲線が露わになっている。健康的で艶のある肌が、蛍光灯の明かりを弾いて……。そこでふと我に返った俺は、慌ててテレビ画面へと視線を戻した。
しかし、最早どうにもゲームに集中する事ができない。見るまいと思うと余計に気になってしまう悲しき男の性。かといって、こればかりは、スカートを直してやるわけにもいかない。
悶々とした意識が、セピア色になりかけていた記憶を呼び起こす。それは俺達がまだ中学生の頃、夏休みのある夜のことだった。
当時はまだお互いにゲーマーだった時期で、今よりずっと多くの時間をゲームに費やしていた。
とは言うものの、彼女の部屋にはゲーム機がなかった。そのため、彼女はゲームをしたくなるといつも、俺の部屋に遊びに来ていたのである。
勿論、俺にもメリットはあった。常に一緒に遊べる相手がいた事は有り難かったし、一本のソフトを二人で共有することによって、購入にかかる費用を浮かせられた点も大きい。新作の発売日には二人で小遣いを出し合ってソフトを買い、一緒に部屋に篭もって熱中していた。休みの前日ともなるとそれが深夜まで及ぶこともあって、そうした場合、そのまま俺の部屋に泊まっていくことも珍しくなかった。お互いの親同士の仲が良いから許されたのだろうが、性に目覚め始める年頃の男女に同じ部屋で夜を過ごさせるなど正気の沙汰ではない。親達は一体何を考えていたのだろうと、今になって思う。
夏休みや冬休みになるとその頻度は上がり、二、三日続けてうちに泊まる事も稀にあった。休みの終盤になると、溜まりに溜まった宿題を二人で協力して片付けたり。口裏を合わせて絵日記をでっち上げたりしたのも、今ではいい思い出だ。
そんな夏休みのある日。とても蒸し暑い夜だった。
新しく発売された大作ゲームの続編にのめり込み、午後からずっと、二人で部屋に篭もっていた。夕飯を食べても意欲は衰える事なく、気付けば時計の短針は既に十一時に近付いている。さすがの俺も疲れを感じ、適当なところでセーブして、ゲーム機とテレビの電源を切った。テーブルにうつ伏した小雨は、一足先に眠りに落ちている。腰まで伸びた長い黒髪、Tシャツにショーパンという軽装。昼間はそれほど気にならないのだが、夜になると、どうも妙に胸が騒ぐ。
小雨は元々、子供の頃から発育のいい女の子だった。身長も大きい方で、俺が彼女に追いついたのは高校に上がってからの事だ。だが、成長の早さは身長だけに留まらなかった。第二次性徴の分野でも、彼女は同年の女子たちから一歩抜きんでていたのだ。いつも一緒にいた俺は、度々同じクラスの男子にからかわれていた。密かに『おっぱい野郎』などという不名誉な渾名をつけられた事もある。
それにも関わらず、彼女はそういう視線に全く無頓着で、夏には目のやり場に困るほど薄着だった……いや、真夏に薄着になるのはごく自然な事で、おかしいのは、それを必要以上に意識してしまう俺の方だ。その自覚はあった。
さて、テーブルを片付けて布団を敷かなければならないのだが、そのためにはまず小雨を起こす必要がある。しかし、寝起きの悪い彼女を起こすのは一苦労で、声をかけただけで目を覚ますことはまずない。よって、体を揺り動かしたり頬をつねったり、あらゆる手段を使わなければならないのだが、夜になると、彼女との身体的な接触を変に意識してしまうのだ。たとえそれが、些細なボディタッチであったとしても。
「ねえ、小雨、布団敷くからさ、ちょっと起きてよ」
耳元でそれなりに大きな声を出してみたのだが、案の定、起きる気配は全くない。仕方がないので、体を揺すって起こす事にした。
「お~い、小雨、起きてってば」
「う、う~ん……」
彼女が頭を少し上げると、Tシャツの襟からチラリと下着が覗く。前チラというやつだ。俺は慌てて彼女から手を離す。万事こんな調子なので、起こすのにとても苦労した。色々と試行錯誤した結果、最終的には、彼女の髪で鼻をくすぐって起こした記憶がある。
布団に入っても、なかなか寝付く事ができなかった。いつでもどこでもすぐに眠れる点が数少ない長所なのだが、この日はやけに目が冴えていた。ねっとりと肌に貼り付くような蒸し暑さ。連日の猛暑で熱帯夜にも慣れていたはずなのに、この夜はそれが気に障った。それでも、布団の中で二時間ほど輾転反側した後で、ようやく浅い眠りに就いた。
しかし、それも安眠とはいかなかった。小雨が夢に出てきたのだ。夢の中で、俺と小雨は、生まれたままの姿で、何故か同じ布団に入っていた。仰向けになった俺に覆い被さる彼女。長い髪が、風もないのにゆらゆらと揺れて、密着する肌が灼けるように熱い。彼女の細い指が全身を這い回る。優しく髪を撫でると、彼女は艶やかに微笑んだ。しっとりと濡れた唇が、胸から下腹部へと……俺は、股間のぬるぬるとした感触と共に目を覚ました。
夢精はこれが初めてというわけではなかったが、俺は激しく狼狽した。何しろ、隣の布団には小雨が寝ているのだ。たった今、夢で見たばかりの彼女の肢体。寝相の悪い小雨は、タオルケットをぐしゃぐしゃにして、あられもない寝姿を晒していた。裾がめくれ上がったTシャツ、その下からは臍がひょっこりと顔を出している。
俺は慌ててトランクスを脱ぎ、そのままゴミ箱に突っ込んだ。だが、それだけでは不安だったので、ゴミ箱の中身をひっくり返し、その一番下に汚れたトランクスを押し込んだ。小雨は、そんな俺の苦悩など知る由もなく、すやすやと寝息を立てている。
俺は自分が怖くなった。いつか、コントロールが効かなくなって、彼女を汚してしまうのではないか……このトランクスと同じように。それがどうしようもなく怖かったのだ。そして、その日から俺は、なるべく小雨を女性として意識しないように心がけた。彼女を部屋に泊めたのもそれが最後だった。
撃つ、隠れる、避ける、撃つ、進む、エイム、撃つ、ヘッドショット、――ミッションクリア。
徐々に操作のコツを思い出し、攻略がスムーズに進み始めた。単調な作業の繰り返しは、目の前の悩み事を忘れさせてくれる作用があるが、その一方で、意識の底に寝かせておいた考え事を誘発してしまう場合もある。今の俺には、果たしてどちらに作用しているだろうか。
ゲームの効果音とコントローラーのカチャカチャという音だけが、夜中の静寂の中で虚しく響いている。小雨は横たわったまま微動だにせず、とても静かだ。きっともう眠ってしまったのだろう。このステージをクリアしたら、彼女を家まで送ろう。そう考えていた、まさにその時だった。
胡坐をかいた膝に突然重みを感じ、ふと見ると、そこには小雨の脹脛が乗っていた。絹のように滑らかな肌、彼女の柔らかい脚は、俺の膝の上で、少し扁平に形を変えていた。
「ゲームなんかしてないであたしに構ってよ……」
まだ起きてたのか。
「あたしは普段我慢してるんだぞ……わかってんの……」
語尾がぼそぼそとして、よく聞き取れなかった。脚が重い、とは口が裂けても言えない。
「もう少ししたら家まで連れてってやるから、それまで大人しく寝てなよ。その様子だと、一人じゃ歩けないだろ?」
「そんな事ないもん」
膝が彼女の脚の重みから解放される。小雨は体を起こし、立ち上がろうとしているようだ……が、やはり力が入らないのか、すぐにその場でぺたりと座り込んだ。
「ほら、言わんこっちゃない。危ないから、そのままそこに座って待ってろよ」
雑魚を一掃して、次はこのステージのボスだ。俺は気合を入れ直した。
背後からカサカサという音がする。チョコレートの最後の一箱に手をつけたのだろう。チョコレートなら構わないが、それ以上アルコールを呷ってくれるなよ、と心の中で密かに念じた。
「へぇ~、本格的じゃんこれ。やるなあ真紀」
小雨が呟く。なんだろう、途轍もなく嫌な予感がした。いや、まさか……俺は、恐る恐る彼女の方を振り返る。
破り捨てられた小さな包み紙が、最初に目に入った。テーブルの上の小箱は封が切られていて、小雨の手が、球形の小さな……真紀の手作りチョコレートを摘み上げている。その動作がスローモーションのように、いやにゆっくりと感じられた。
明るいブラウンのココアパウダーを纏ったそのチョコレートは、転ぶように、小雨の口へと吸い込まれていった。