Nocturne No.2 Op.33-2 ―夜想曲―
レストランを出た私達は、再び公園に戻ってきた。
昼間うっすらと積もっていた雪は既に午後の晴れ間でほとんど溶けていたが、今しがた降り始めた細雪が、また新たに地面を濡らしている。
もうすっかり夜だというのに、枯れ木を彩るイルミネーションの光によって、公園内は妙に明るい。時刻は九時をとうに過ぎていて、歩く人も疎ら、この時間まで残っているのはカップルだけだ。だったら、こんなに明るくしなくてもいいのに、と思う。
私と瞬は、どちらからともなく無口になっていた。どうしてだろう。もうすぐ楽しい時間が終わってしまうのに。もしかしたら、お互い、迂闊な事を言って深読みされるのが怖いのかもしれない。
明るすぎるイルミネーションの中、周りのカップル達は概ね、私達と同じ方向に歩いていた。おそらく、駐車場と同じ方向に繁華街があるためだろう。イルミネーションよりさらに明るい、サイケデリックなネオン街。その光に引き寄せられる蛾の群れのように、彼らも、私達も……。
このまま一緒に流されていったら、もっと傍にいられるだろうか。もう少し今日を続けられる? ……そんな考えがふと脳裏をよぎる。
いや、だめだ。それだけは。この体は、私のものではないのだから。彼女にとっても初めてなのだ。そんな大切なものを私が消費する事は許されない。
瞬は、私と目を合わせようとしなかった。何もかもが意味深に思えてしまう。彼は私をどうしたいんだろう。
そのまま、お互い一言も発する事なく、私達は駐車場に着いた。彼の黒いコンパクトカーが、闇に溶けてひっそりと主を待っている。駐車場の向こうからは、幻惑的に煌めく色とりどりのネオンが誘いの手を引く。
「さ、着いた。なんか、結構色々歩き回ったはずなのに、一日あっという間だったな」
彼の足は車の方に向いた。あの箱に入ってしまったら、そのまま今日が終わってしまう……。
私は衝動的に、彼のコートの袖を掴んで立ち止まった。
「うおっとっと」
不意を突かれた彼は、バランスを崩し、よろめきながらも、どうにか立ち止まった。
「……ん? どうした、真紀」
私は、無言のまま俯いて、この間買ったばかりの真新しいキャメル色のブーツを見つめる。乗馬用のブーツのような、シンプルで洗練されたデザイン。縫い目がひとつ、ふたつ……違う。そんな事はどうでもいい。
自分で自分がわからない。どうしたんだろう、どうしたいんだろう、私は……私は、もしかして、
泣こうとしているのか?
私は、自分の狡さに嫌気が差した。こんなに面倒臭い女じゃなかったはずだ。こんな時に、こんな状況で、最後の切り札を切って、私は何をしようと……違う。違う。何でもない。私はただ、もっと彼と一緒にいたいだけなんだ。たったそれだけの事が、どうしてこんなに難しいの……?
目頭がじわりと熱くなって、彼のコートを掴んだ指に、一層強く力をこめる。いいんだ、もう、止められない。どうなってもいい。泣いてしまえ。
このまま、部屋に帰って、広すぎる部屋で、一人ぽつんと蹲る自分の姿を思い浮かべる。最上階の窓からは空しか見られなくて、街並はずっと下方、時折強く吹き付ける風の音しか聞こえない。
淋しい。
淋しい。
淋しい。
ほら、もう、涙が……。
その時突然、瞬の手が私の顎を掴んだ。そのまま、私の顔はぐいっと持ち上げられる。
「だめだよ、お嬢さん」
瞬の顔が目の前にある。イルミネーションも、彼も、その向こうのネオン街も、目に映る全てが涙で滲んで、万華鏡のように複雑に乱反射していた。
「さあ、帰ろう」
彼は優しく微笑んでいる。まるで子供をあやすみたいに。
目頭の熱さが急速に失われていく。
偉そうに、『だめだよ、お嬢さん』なんて。
年下のくせに……。
もう涙は出なかった。
公園から私の住むマンションまでは、車を使えば数分の距離だ。
閑静な住宅街、何棟ものマンションが林立する中で、ひときわ高く聳え立つ巨塔。その重厚な門構えの前に、瞬の運転するコンパクトカーが滑り込む。
夢のような時間は終わりを告げ、私は日常に引き戻される……でも、その前に、彼に伝えなければいけない事がある。
「ほら、着いたよ、お姫様」
ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引く。私は、彼のその左手に自分の手のひらを重ねた。
瞬は、驚いたように体をびくりと震わせて、こちらを見た。彼の手を裏返して、その掌にそっと、チョコレートの入った小箱を乗せる。
「瞬、今日はありがとう。ううん、今日だけじゃない、いつも私に構ってくれて、ありがとう。……今日が何の日か、もちろん知ってるよね?」
彼は、嬉しそうに顔を綻ばせた。喜びと安堵感が混じったような表情に見える。
「そりゃ、もちろん……もしかして、今日は貰えないのかなって思い始めていたところだったよ」
「チョコレート、初めて手作りしたんだよ。大事に食べてね」
「それはそれは……恐れ入ります」
彼の手を、両手で優しく包み込むように握った。その姿勢のまま、ぴたりと時が止まる。低く唸る車のエンジン音。
「私……私ね、瞬のことが好き。あなたにもっと独占されたい」
彼の瞼が、僅かに大きく見開かれる。
「最初はね、ただの小雨の幼馴染としか思ってなかった……でも、いつの間にか、ずっとあなたを目で追うようになって、思考を読むのが癖になって……瞬のちょっぴりミステリアスなところも、たまに見せる素直でいじらしい表情も、決して他人の事を悪く言わないところも、優しすぎて優柔不断なところも、全部全部愛おしい。あなたに甘えている間は、寂しさも、悲しい思い出も、何もかも忘れて、幸せだって思えるの……。私、もっと、あなたが欲しい……」
自分でも驚いてしまうほど、堰を切ったように口から言葉が溢れ出した。本当はもっと気の利いた表現をしたかったけれど、何より大切なのは、ありのままの気持ちを伝えることだ、と思った。言葉は、飾れば飾るほど嘘になってしまうから。そして、きっと彼はその事を、私よりもずっとよく理解しているはず。
私の目をじっと見つめながら、彼は柔らかく微笑んだ。
「俺も、真紀のことが好きだ」
彼の返事を聞いた瞬間、心臓がドクンと大きく高鳴って、このまま止まってしまうんじゃないかと思った。彼の声が、言葉が、頭の中でエコーのように反響して、何度も何度も繰り返し再生される。顔が一瞬でかぁっと熱くなった。
「初めて君と話した時から、その吸い込まれるような瞳の前では、嘘も誤魔化しも、全てが無力に……そうなっていくんじゃないかって、予感していた。君の前では、ありのままの自分でいられる。真紀だけなんだ、こんな風に思えるのは……」
私は、感動と恥ずかしさから、思わず両手で顔を覆い隠した。これって、両想いってこと……なんだよね?
「ああ……もう、私、なんか、嬉しくて、恥ずかしくて……」
「ほら、可愛い顔をもっとよく見せて……」
彼は私の手首を掴んだ。顔を覆った両手が、ゆっくりと下ろされてゆく。
「私……瞬の彼女になるの?」
「俺は真紀の彼氏になる」
「ずっと一緒にいてくれる?」
「ああ……これまでよりはずっと」
あたたかい。あたたかい感情が、胸の奥から湧き上がってきて、心の底の渇いた泉を満たしていく。
彼の腕が背中に回され、私はそっと抱き寄せられる。瞬の顔が、今までにないほど近くにあった。
そっと瞳を閉じる。映画やドラマを見ながら、どうしてキスの時に目を瞑るのだろうと、ずっと疑問に思っていたのだけれど、その理由を、私はこの時理解した。
体中の全神経を、唇に集中させるため。
彼の柔らかい唇の感触。
あたたかい涙が頬を伝う。悲しくも淋しくもないのに涙が流れるのは、これが初めてだ。きっとこれは涙じゃない。満たされた泉から溢れだした聖水なのだ。
もう、時間の感覚はすっかり麻痺している。このまま時が止まってしまえばいいのに。
長い口づけの後、その余韻を残して、彼は去って行った。
瞬のコンパクトカーが、低く唸りながら遠ざかっていく。交差点に差し掛かる。右にウインカーを出して、そのまま右折。塀の陰になって、車は見えなくなった。
彼の唇の感触が、まだはっきりと思い出せる。
私の体は、神の祝福を受けた聖女のように、幸福のオーラで包まれている。このままふわふわと天まで昇っていけるような気がした。
私は、胸に手を当て、もう一人の私に問いかけた。
真紀ちゃん、私、普通の恋ができてるかな……?
※まだ終わりません。