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Poissons d'or ―金色の魚―

 結局、告白もできず、チョコレートも渡せないまま、ゴンドラは地上に戻ってきてしまった。

 順番待ちの行列の長さを見ると、流石にもう一回乗りたいとも言い出せず……私達はそのままショッピングモールを後にしたのだった。


 瞬の運転する車は、再び市内へ向かって走行中。時刻は既に午後七時を過ぎて、渋滞も緩和されつつあった。助手席に座った私は、何気ない素振りで窓外の街並みを眺めていたけれど、頭の中はミートソースのようにぐちゃぐちゃだった。

 どうしてさっき伝えられなかったんだろう。本当にバカみたい。チョコレートの準備で手一杯になって、告白の台詞を全く考えていなかったなんて。恋愛経験の浅さ、というより無さが招いた結果とも言える。ラブレターを認めて、チョコレートと一緒に渡すという手もあったはず。

 しかし、落ち込んでばかりもいられない。まだデートは続いているのだ。そして、残された時間はもうあまり多くない。早く気持ちを立て直して、告白文を考えないと……。私は、頭の中のクリップボードにじゃらじゃらと単語を展開して、テトリスのように言葉のパズルを始める。


「真紀、お腹空いてる?」

 突然瞬に話し掛けられて、私は大慌てで脳内クリップボードを片付けた。うっかりこれを口にしてしまったら一大事である。

「うん、空いてるよ……なんで?」

「いや、さっきパンケーキ食べてたからさ」

「ああね……でも、スイーツは別腹だもん」

「なるほど。女の子の胃は便利な構造をしてるんだな」


 実は、瞬の前ではなるべく控えるようにしているのだが、私は自他共に認める健啖家である。普段は部屋にあまり食べ物を置かないので、だらだらと食べ続けたりはしないのだけれど、おいしいものを前にするとスイッチが入って、食欲が収まらなくなってしまうのだ。

 だから、小雨と一緒に食べ放題の店に行ったりすると、

『そんなに食べるのにどうして太らないの? 胃の中に牛でも飼ってるんじゃないの?』

などと言われる始末。だってしょうがないじゃない。その時ふと、マリー・アントワネットとパンケーキの大食い対決をしてみたいな、というアイディアが浮かんだ。パンもケーキも食べればいいじゃない。とても楽しそうだ。きっと、勝つのは私だろうけど、コルセットの着用が義務づけられたりしたら、五分五分かもしれない。


 鮮やかに街を彩るイルミネーション、眠りについたビル群、足早に家路を急ぐ人波……車は見慣れた街の風景を抜けて、昼間と同じ公園の駐車場へと戻ってきた。

 車を降りた私達は、大通りから狭い路地に入り、閑散とした裏通りへと進む。華やかな表通りとは対照的に車も人通りも少なく、街灯はまばら、建物もどこか古めかしくて、まるで別世界のようだった。……などと、しれっと描写してみたものの、私にとってこの辺りは馴染みのある風景で……。


「ここだよ。実はもう、予約してあるんだ」

 薄暗い裏通りで一際明るく輝いている柔らかい白熱灯の明かりと、その光を反射する白い外壁。西洋風のモダンで瀟洒な佇まいが薄闇の中に浮かび上がる。中心市街地から外れた裏通りの一角に、そのフレンチレストランはあった。壁に掲げられた木製の看板には、フランス語で『Poissons d'or』と記されている。日本語に訳すと、『金色の魚』という意味だ。

 料理は市内でも五本の指に入る店なのだが、立地の悪さと、この地域の相場からはやや高めの価格設定である事から、いつも客足は少なく、週末でも予約なしで入れる事の多い穴場スポットとなっている。

 シェフは地元出身の男性で、本場フランスで修業した後、しばらくは都内の二つ星レストランで腕を振るっていた。夫人と一緒にこちらへ戻ってきて店を開いたのは一昨年の事で、夫人の美和子さんと二人、二人三脚で経営している小さなレストランである――何故、私がこの店の事情にここまで精通しているかというと、実は、何度か一人で訪れているから……。

 子供の頃、両親に連れられて彼の料理を何度か食べた事があって、味はもちろんのこと、盛り付けも繊細で、子供心に強く印象に残っていた。その時のシェフが、今はこちらで店を開いていると母から聞かされて、是非また食べてみたいと思い、足を運ぶようになったのだ。


 瞬は絶対サプライズのつもりでここに連れてきたはず。来たことがある、なんて言ったら、きっと気が萎えてしまうだろう。でも、伏せたままにしておくと、もし何かの拍子に口を滑らせてバレてしまった場合、とても気まずい空気になってしまうかもしれない。

 ああ、どうしよう、言うべきか言わざるべきか……。数秒間頭をフル回転させて、私が出した結論は、『言わない』だった。


「うわ~、お洒落なラーメン屋さん!」

 どう見てもラーメン屋じゃないだろ、と心の中でセルフツッコミ。流石にわざとらしすぎる……?

「ここはラーメン屋じゃないって……レストランだよ、フレンチの」

「えっ、そうなの? 大体いつもラーメンだから……瞬がフレンチのお店なんて、どういう風の吹きまわし?」

「まあ、こういうのもたまにはいいかと思ってさ」

「わ~い、楽しみ♡ どうしてこんなお店知ってるの?」

「ん~、まあ、裏ルートの情報だよ」

 食べ○グだな、うん。


 瞬が入り口のドアを開けて、私を先に促す。

 店に入ると、シェフの夫人の美和子さんが進み出て、いつものように明るく出迎えてくれた。私はもうすっかり顔馴染みになっているので、彼女の口からバレないように、対策を講じておく必要がある。

「いらっしゃいませ」

ショートカットのきりりとした美人で、30代後半と伺った事があるのだが、実年齢よりはずっと若く見える素敵な女性だ。


 店内は明るく落ち着いた雰囲気で、テーブルは8つ。天井には現代風のシャンデリアが下がり、小さな額縁に納められた風景画が数点、壁にかけられている。私は、美和子さんにも瞬にも聞こえるように、わざと大きな声を出した。

「わぁ、素敵……市内にこんなお店があったなんて……」

 美和子さんは一瞬、おや、と訝しむような表情を見せたが、私の後から入ってきた瞬の姿を見て事情を察してくれたらしく、含みのある微笑と視線をこちらに送ってきた。私は、肯定の意味を込めて、彼女にウインクを返す。今度来た時に、きちんと事情を説明しよう。

「実は、俺もここは初めてなんだよ。こんな洒落た店、なかなか来られないしな」

「わざわざ、私のために?」

「うん、まあ、ね」

 美和子さんは、そんな私達の会話を興味深そうに見守っていたが、話が一区切りついたところで、瞬に声を掛けた。

「いらっしゃいませ」

「あの、予約していた瀬名ですが……」

「瀬名様でございますね、かしこまりました。こちらの席へどうぞ」


 私達が通されたのは、奥の方にある二人用テーブルだった。テーブルクロスの白さが目に眩しく映えている。店内に流れるドビュッシーのピアノ曲が、耳に柔らかく、そして心地よかった。シェフは、店名にもドビュッシーの曲名をそのまま引用するほどの愛好家で、BGMにはいつも決まってドビュッシーの曲がかけられている。

 音楽は室外の芸術であり、風と空と海、諸元素に拍子を合わせる芸術である、と語ったドビュッシー。自然との調和を図った彼の音楽は、素材の味を大切にするシェフの料理に対する姿勢とも重なるものがあると、常々思っている。


 席に着いた私達は、二人でメニューを見ながら話し合った……というよりは、主に私が、メニューに書いてある言葉の意味を瞬に説明した。正統派のフレンチレストランであるこの店には、とんこつラーメンも餃子もないし、ナポリタンもオムライスもない。やはり、と言っては彼に失礼だけれど、何がどういう料理なのか、ほとんど理解できていなかった。相手が私でよかったね。

 色々と迷ったものの、最終的には、無難にディナーのコースを注文した。無難、というのは満足度を指して用いた表現であって、値段についてのものではない(それでも、決して割高なわけではないが)。今日ここまでの支払いは全て瞬が出してくれているので、彼の懐具合が少し心配になった。そういえば、メニューを開いた瞬間、彼の表情が少し曇ったような気がする。あれは、何が書いてあるかわからないからだと思っていたけれど、もしかしたら値段が想定の予算を上回っていたせいかもしれない。まあ、幸い私はカードを持ってきているので、万が一の事態が起こっても対処はできる。何よりも、私のためにちょっぴり背伸びしている彼の事が無性に可愛らしく思えて、そんな些細な事は気にならなかった。


「観覧車、楽しかったぁ~」

「そんなに喜んでくれるとは思わなかったよ」

 料理を待つ間、瞬と話しながら、私は時折さりげなく他の客を観察していた。私達の他には三組の客がいる。顔がそっくりで、どうやら姉妹らしい中年の女性二人と、私達より少し年上に見えるカップル、そして、恰幅のいい壮年男性と若い女性のペア。どう見ても、親子ではなさそうだ。


 離れて暮らしていた父親が死んで、ずっと父親を介護していた長男と遺産の分配で揉めている。長男は稼ぎが少ないから、しっかりした家に嫁いだ私達を妬んでるのよ、父親が入院した時は、私達もだいぶお金を出したのに……と、中年の姉妹が話していた内容を大胆に要約するとこんな内容になる。別に聞き耳を立てたわけではないのだが、彼女たちの声が大きいため、興味がなくても聞こえてしまうのだ。他人に家庭の事情が筒抜けになってしまって、気にならないのだろうか、とも思ったが、案外あれでも本人は声を抑えているつもりなのかもしれない。


 年の離れた男女へと視線を移す。壮年男性は、一目でブランド物とわかるスーツに身を包み、手首にはこれみよがしに高級腕時計が光っている。頭髪は半ば禿げ上がっていて、見るからに好色家という感じ。若い女性の方は、冬だというのに露出の多いスリットの入ったドレス、一見すると水商売の女性のようで、入る店を間違えたんじゃないかとさえ思う。一口料理を頬張るたびに、大袈裟に声を上げてコケティッシュに振る舞っていて、私の耳にはとても耳障りだった。

 あんな服装はしないけれど、もしかして、私もこんな風に見えているのかしら? と、その姿を自分と重ねてしまう。小雨以外に女友達の出来ない私である。気を付けよう。


 しばらくして、前菜が運ばれてきた。ホタテのグリルにウニのソースが添えられたもので、ホタテの甘みと、食感を活かす絶妙の焼き加減、そして何よりも、クリーミーなウニのソースがたまらない。

 前菜とサラダを平らげて、次に運ばれてきたのはオーソドックスなオニオンスープ。瞬はいつもラーメンをずるずる音を立てて啜るので、スープの飲み方が多少心配だったのだが、予想に反して、彼は静かにスープを飲んでいた。スプーンの音も全く気にならず、私の不安は全くの杞憂に終わる。少し、彼を見直した瞬間だった。


 次に運ばれてきたのは魚料理で、クリーミーなキャビアソースを纏った舌平目のムニエルだった。

「うわ……これ、もしかしてキャビア?」

 ソースの中に点々と浮かぶキャビアを見て、瞬は目を丸くした。

「そうだよ。小さいタピオカじゃないよ」

「キャビアなんて、俺、食べた事ないよ……」

彼は、フォークの先に二、三粒のキャビアを乗せて、恐る恐る口に運んだ。

「どう? 初キャビアのお味は?」

初めて口にするキャビアの風味。舌に意識を集中して、念入りにその味を確かめていたようだったが、数秒の後、首を捻りながら呟いた。

「なんか……しょっぱい。けど、よくわからん」

 そんな私達の様子を、美和子さんは笑いを堪えながら――好意的に受け取れば、微笑ましく、眺めていた。

 さて料理はというと、淡泊な舌平目と、白ワインベースのクリーミーなソースが絡み合う中に、キャビアの塩気が絶妙なアクセントを加えていて、期待を裏切らない美味しさだった。


 肉料理は、牛ヒレ肉のステーキにフォアグラのソテー、そしてトリュフソースを合わせたロッシーニ風。瞬は再び瞠目した。普段のニヒルさとのギャップが面白くて、こんなに表情豊かな人だったのか、という新たな発見があった。

「これがフォアグラか……」

「そうだよ。ロッシーニ風といったら、フォアグラとトリュフだもの。瞬はフォアグラも初めて?」

彼はおもむろに頷く。

「ああ……ついでに言うと、トリュフも初めてだよ」

 柔らかく口の中でほどける牛フィレ肉と、まろやかなフォアグラのマリアージュ。トリュフのソースがキューピットとなって、その風味を存分に引き立てている。

「おお……これがフォアグラ……」

キャビアの味がわからなかった瞬も、蕩けるように柔らかいフォアグラの濃厚な旨味にはすっかり魅了されたようだった。うっとりと目を細め、頬が自然にほころんでいる――要するに、こってりしたものが好きなのね。


 デザートは、ガトーショコラとりんごのシャーベット。表情には出さなかったけれど、これには甘党の瞬も大喜びだったはずだ。しっとりとしたガトーショコラの、ほろ苦さの後に広がる芳醇なカカオの香り。これを食べた後では、私のチョコレートが見劣りしてしまうのではないかと、少し不安になった。それから、爽やかな酸味のりんごのシャーベットで最後を締め括り、楽しかったディナータイムも終わりが近付いてきた。


 食後のコーヒーを飲みながら、料理の感想を語り合った。私がここの常連である事を悟られないために、ここでも言葉選びには細心の注意を払わなければならない。

「ああ~おいしかった。市内にも、こんなおいしい店があるんだね」

「俺、フレンチのコースメニューなんて食べた事なかったから、真紀に色々教えてもらえて助かったよ」

「ううん、でも私が何も教えなくても、テーブルマナーはちゃんとできていたじゃない? ちょっと見直したよ」

「いや、昨日、慌ててググって調べたんだよ……そう言って貰えると嬉しい」

 普段は嘘つきだけれど、こういう時は案外素直な彼である。小雨の『根は素直な奴なんだよ』という言葉の意味が、最近になって私にもわかるようになってきた。それに、こんな風に細かいギャップを見せられると胸がキュン、とする自分にも気付いた。案外チョロいな、私。


 結局ここでも、お会計は全て瞬が払った。ラーメンとは桁が一つ違うものだから、結構痛い出費だったはず。

 帰り際、美和子さんが私にそっと耳打ちしてきた。

「彼、西野園さんのボーイフレンドさんでいらっしゃいます?」

私は即座に返答する。

「はい、その予定です」

高級フレンチには明るくないので、まあどこかおかしいところがあるやもしれません。高級食材ばかりになってしまったので、書きながら疑問に思っていたのですが、結局瞬はいくら払う羽目になったんでしょうね……。

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