Je te veux ―あなたが欲しい―
観覧車の周辺には、子供向けのちょっとした乗り物やアトラクションがあり、多くの家族連れで賑わっていた。
長い行列が一筋出来ている。言うまでもなく、それは観覧車の順番待ちの列だった。瞬は、白い息を吐きながら言う。
「さすがに混んでるなあ……寒くない? 大丈夫?」
「うん、これぐらい全然平気」
すっかり夜の帳が降りて、一層冷たくなった夜気が頬を刺す。
行列は、家族連れとカップルが半々という感じだった。家族連れはどこも、行列に飽きた子供を宥めるのが大変そうだ。カップルはというと、どのペアもぴったりと身を寄せて、互いを温め合っていた。
小さな男の子が列を離れて、ぶぅぅぅぅぅぅぅん、と唸りながら走り回っている。車かプロペラ機を乗り回しているようなイメージなのだろうか。ハエの真似ってことは……ないかな。暇つぶしにそんな事を考えながら見ていると、男の子はさっと両手を水平に広げた。どうやら、車の可能性は無くなって、プロペラ機とハエの二択。まあ、恐らくはプロペラ機だろう。
緩やかにロールしながら走り回っているその小さなパイロットは、不意にこちらの方を見た。その視線は私の顔の辺りで留まって、ぶぅぅぅん、というエンジン音が止まる。実際の飛行機であれば急降下し始める状況だが、その男の子は私の顔をまじまじと見つめながら走り続けている。これはさほど珍しい事ではなくて、どうも私は、子供や赤ちゃんに見られやすい顔をしているらしいのだ。ただの自意識過剰かもしれないけれど。
目が合っていたのは数秒間。男の子はぷいと顔を背け、再びエンジン音を轟かせながらどこかへ飛び去って行った。
行列というものには、時間を長く感じさせる性質があると思う。観覧車の動きが異様に遅く感じられ、どこか適当なゴンドラに取っ手を付けて、ガラガラポンのようにさっさと回してやりたい衝動にかられた。相対性理論が正しければ、今この行列の周辺には通常の数千倍の重力がかかっているに違いない。きっと、スクワットだけでスーパーサイヤ人になれるだろう。でも、私は髪が逆立つのが嫌だったので、瞬としりとりをして暇を潰した。
「鳥瞰図」
「ず、ず、ず……ず~~?」
『ず』で嵌められて答えに窮している間に、行列はだいぶ短くなっていた。私達の前には、カップルと家族連れが一組ずつ。先に並んでいた家族連れが、係員に導かれてゴンドラに乗り込む。家族連れを乗せたゴンドラは時計回りにゆっくりと離れていき、右からまた次のゴンドラがやってきた。
乗降口から若いカップルが降りてくる。彼氏の唇が、彼女の口紅と同じ色に染まっていた。随分お楽しみだった様子……こんなところにばかり目が行ってしまう自分が嫌になる。
私達の前に並んでいた男女が、係員に導かれて、ゴンドラの扉の中へと吸い込まれるように消えていった。彼女達は、あの中でどんな話をするのだろう。カップルの数だけ密室トリックを孕んで、観覧車は回り続ける。
ついに私達が列の先頭になった。次のゴンドラに乗っているのは親子連れ、二十代半ばぐらいの夫婦と、小さな子供が一人。お父さんが子供を抱き上げて、窓から外の風景を見せている姿が目に入った。私もあんな父親が欲しかった……。私には、父親に遊んでもらった記憶がない。今時珍しいぐらい厳格な父だ。だから、楽しそうな親子連れを見ると、私にはカップルと同じぐらい羨ましく思える。
ゴンドラの扉が開き、幸せそうな家族の話し声が漏れ聞こえてくる。三歳ぐらいの女の子が、父親に抱かれて朗らかに笑っていた。
「どうだった、楽しかったか?」
「すごい、たかいたかい」
「あんなに高いところに上がったのは初めてよね」
「高い高いよりだいぶ高かったもんなあ」
そんな事を話しながら、親子はゴンドラを降りて行った。去ってゆく夫婦の背中に、自分の両親の姿を重ねて……だめだ、重ならない。私が物心ついた頃には既に、両親の関係は冷え込んでいたのだ。
「真紀? どうした?」
怪訝そうな瞬の声。振り返ると、彼はゴンドラの方へ体を向けて私を待っていた。係員は、私と瞬の顔を交互に見ながら様子を窺っている。その間にも、ゴンドラは少しずつ移動していた。
「早く乗らないと通り過ぎちゃうぞ」
「あ、ごめん! ちょっとぼーっとしちゃって」
私は、瞬と係員のところへ小走りで駆け寄った。
「お客様、足元にご注意ください」
ゴンドラの中は、左右両側に座席が設けられていて、外観から受ける印象以上にとても狭く感じた。瞬が先に左側の席に座って、私はどうしようか、隣か対面かでほんの少し迷ったけれど、ここは無難に、対面で座ることにした。
扉が閉められると、外部の音が遮断されて、少しだけ遠くに聞こえるようになった。次第に地面が遠くなり、ガラスの外の風景が、ゆっくりと沈下してゆく。ガラス一枚、ポリカーボネート一枚を隔てた向こう側が、突然違う世界になってしまったように感じられて、私はふと、ノアの方舟の伝説を想起した。
「さっき、何を見てたの?」
瞬の声が、狭い室内で僅かに反響して聞こえてくる。
「あ、ううん、ただちょっと、両親の事を思い出しただけ」
「そういえば真紀って、あんまり家の話をしないよね。家族構成とか……」
「私は一人っ子だよ。両親はどちらも働いてて……家にはメイドがいて」
「メイド……メイドって、やっぱり実在するんだな。俺にはメイドカフェのイメージしかないよ」
「ふふ。でも、メイドカフェの方が衣装もかわいいし、女の子も若くてかわいいし……」
「いや、質素で上品なメイドにも、需要はあるんだぞ」
「本当? じゃあ、今度うちのメイド服を借りて着てみようかなぁ……」
「うん、きっと似合う」
ガラス窓の外には宝石箱をひっくり返したような夜景が広がっている。その輝き一つ一つに、人々の生活が凝縮されている。光の密度は近くなるほどに薄くなって、街灯とヘッドライト以外は闇の底に沈み、もう地面は見えない。
風によるものか、或いは観覧車の回転によるものか、時々微妙にゴンドラが揺れる。地面を離れた不安感、非日常の興奮と相まって、吊り橋効果で心拍数が上がっているのがわかる。加えて、密室に二人きりという状況。今日、いや、これまでで最高にロマンティックなシチュエーション。
今こそ、想いを伝えるチャンスだ。
私はバッグに手をかけた。しかし、指先がチョコレートの小箱に触れる寸前で思い留まる。
待って。
何て言ったらいいの……?
ただチョコレートを渡して、『これ本命だよ』なんて、中学生じゃあるまいし。
チョコレートの事ばかり考えていて、肝心の告白の事を失念していた。ええと。
『初めて会った時から好きでした』これは嘘。
『あなたの飾らない人柄が好きです』嘘嘘。最近少し真面目になった気もするけど、瞬はとても嘘つきだ。
こんなありきたりな理由ではないのだ。ちゃんとまとめてくればよかった。私は急いで記憶のピースを手繰り寄せる。
初めて彼を意識したのは、いつだったっけ……?
そう、あれは、去年の春。
小雨と再会して間もなく。友達と言ってもまだ微妙な距離感があった頃で、瞬については、小雨とよく一緒にいる幼馴染という認識しかなかった。
これといって際立った特徴があるわけでもなく、普段はどちらかといえば寡黙な方なのに、口を開けば嘘ばかりで、何を考えているのかよくわからない。言動がサイコパスみたいで、率直に言って、当時は彼の事が少し怖かった。
彼と付き合っているの? と小雨に尋ねてみても、そういう関係ではないと答える。彼の人間性については、ああ見えて根は素直な奴なんだよ、と言う。私には、二人の関係もよくわからなかった。
瞬に対する見方が変わったのは、そんな状態がひと月ほど続いたある日の事だった。
講義の後にぽっかりと時間が空いた。その日は何となく気分がくさくさしていて、誰かと少し話したい気分だった。学内に一人しか女友達のいない私に、他に行くあてがあるわけもなく、唯一の友人である小雨に会いに行くことにしたのだ。
待ち合わせ場所のロビーに向かうと、彼女は瞬と一緒に椅子に腰掛けていた。
私と小雨は、昔話とか、意地悪な先輩の話とか、くだらない世間話で盛り上がった。二人でおしゃべりをしている間、彼は黙ってそれを聞いているだけ。私はできれば小雨と二人で話がしたかったので、空気を読んで席を外してくれないかな、とさえ思ったものだ。
「あ、やべ、講義室に忘れ物したわ……ちょっと取ってくるから、ここで待っててくれる?」
突然、小雨はそう言い残して、早足で去って行った。残されたのは、私と瞬の二人。一体何を話したらいいかもわからず、気まずい空気が流れる。しかし、沈黙を破ったのは、意外にも瞬のほうだった。
「西野園さん……」
「え、は、はい? 何かしら、瀬名くん」
彼に話しかけられたのはこれが初めてだったので、少々面喰らった。
「子供の頃の小雨って、どんな子だったんですか?」
彼と小雨が知り合ったのは、小雨が小学校に上がる前の年に、家族で東北に引っ越してきてからで、元々小雨は都内生まれだ。当時、彼女の家は私の実家の近所だったため、親同士の間に交流があって、彼女とも何度か会ったことがある。同じ大学に進学したのは全くの偶然だったが、その縁があって、再会した今では友達になってもらっているのだ。つまり、彼にとって私は、彼と出会う以前の小雨の事を知っている貴重な存在なのだろう。
「そうね、う~ん……今と同じぐらい、いや、今より少し大人しかったかな……今だって小雨は、瀬名君と一緒にいる時といない時では、だいぶ印象が違うよね」
人の事を言えた立場でもないのだが、当時の小雨は地味で大人しい女の子で、あまり強く印象に残るタイプではなかった。今だって、普段の彼女は、女の子にしては物静かなほうだと言える。それでも、瞬の前では、努めて明るく振る舞っているように見えるのだ。
「え、はあ、そうなんですか……髪の長さは?」
「髪か……今より、少し長いくらいかな?」
「へえ、じゃあ当時はそんなに伸ばしていたわけでもないんですね」
今の小雨はショートカットなのだが、昔は腰のあたりまで伸ばしていたらしい。私の記憶の中にいる小雨はボブかセミロングなので、こちらに引っ越してきてから伸ばし始めたという事だろう。
「西野園さんは?」
「……えっ?」
思いがけず自分の話を振られて、私は戸惑った。
「小雨が言ってましたよ、今とは随分印象が違ったって。だから、最初に話し掛けられた時、あなたの事がすぐには思い出せなかった」
「ええ……そう、そうかもね」
「とても大人しくて、お人形さんみたいな女の子だったと……今のあなたからは、あまり想像できませんけど」
どうしてこの人は、こんな話をするのだろう。それほど親しくない相手に昔の話をされるのは不快なものだ。この話題は適当に切り上げよう、と私は判断した。
「まあ、色々あって、それだけ成長したっていう事ね」
「なるほど……」
瞬はどこか遠くを見ながら言った。
「成長って何なんでしょうね。必死に自分を誤魔化しながら、パイ生地みたいに薄い薄い皮を重ねていって、気付けば体だけは勝手に大きくなっていて……それなのに、大事にとっておいたはずの本当の自分が、いつの間にかわからなくなって、成長したという実感もなく、ただただ虚しい……」
私は、はっと息を呑んだ。人からこんな話をされたのは初めてだったし、その時彼の瞳に差した深い虚無の色が、私とよく似ているような気がしたから。
「……あれ、俺はどうしてこんな話をしてるんだろう……すみません、忘れてください」
彼は苦笑しながら、顔の前で手を小さく振った。
「どうして……」
「え?」
彼は、私がぽつりと呟いた言葉を聞き取ろうとして、身を乗り出した。そんな彼に、私は軽く微笑む。
「どうして瞬君は、同学年の私にそんなに丁寧語を使うの?」
「それは……」
彼は肩を竦める。
「まだ、それほど親しくもないですし、あなたは大富豪のお嬢様だし……それに、同学年と言っても、西野園さんは年上みたいなものじゃないですか」
確かに、三月生まれの瞬と四月生まれの私とでは、ほぼ一年の違いがある。
「そんな事、気にしなくていいのに……それに、西野園、って言いにくいでしょう? 真紀でいいよ」
「真紀……さん?」
彼は呆気にとられたような顔で、ぼそりと私の名を呼んだ。
「さんも要らないし、タメ口でいいから」
「……真紀」
彼の唇から、初めて私の名前が発せられた。この時の彼の声を、私は今でも鮮明に覚えている。
「よくできました。改めて、よろしくね、瞬」
この日から私は、彼の事をもっと知りたいと思うようになったのだ。
「……真紀? 具合でも悪い?」
「……え? はっ……ううん、大丈夫」
気が付くと、瞬が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「よかった……急に無口になったから」
彼は安堵の表情を浮かべて、窓の外へと目を転じた。一見夜景を眺めているように見えて、視線はぼんやりと宙を彷徨っている。何か考え事をしている時の目だった。一体、何を考えているのだろう。
「真紀は、観覧車も初めてなの?」
窓ガラスに、外を眺める彼の姿が映り込んでいる。
「うん、初めて……一度、乗ってみたかったんだぁ」
「どう? 乗ってみての感想は」
「なんか……すごく、ドキドキするね」
私の言葉に、瞬は少し照れたような表情を見せた。
「まあ……そうだね、相手によっては」
再び沈黙が流れる。ひゅぅ、と風の音がして、ゴンドラが僅かに揺れた。どうやって話を切り出そうか……。
「あのね、瞬、私、チョ……」
「チョ?」
瞬の瞳が私を見据える。その真っ直ぐな視線を浴びて、途端に私の頭は真っ白になった。
「チョ……超楽しい!」
「ぷっ……北島康介かよ」
「だって、本当だもん……」
「はは、わかったわかった、わかったから」
瞬は笑って、また外を見た。どうしよう、言葉が纏まらないよ……。
私は瞬のどこが好きなんだろう。まずはそれからだ。
嘘つきで、社交性がなくて、見た目は普通で、それほど成績優秀というわけでもなくて、スポーツも中途半端で、これといった趣味がなくて、ラーメンばっかり食べて……あ、あれ、おかしいな。
いつもミステリアスで、見ていて飽きがこなくて、意外とロマンチストな一面もあって、よく私のことを誉めてくれて、わがままも聞いてくれて、ショッピングに行くと荷物を持ってくれて……。
「次はどこに行く? そろそろ夕食の時間だよね」
瞬が、スマホで時間を確認しながら言った。
「え、えっ? そそ、そうだね」
「何か、希望ある? 食べたいもの」
「ううん、今日は瞬におまかせコースだから」
おそらく、またラーメンになるだろう。
「了解、もうすぐ着くよ」
「えっ?」
私は驚いて外を見た。いつの間にか地面がすぐ近くにあって、ついさっきまで私達も並んでいた長い順番待ちの列、その顔がいくつかこちらを見上げている。本当にあっという間だった。
「どうだった? 初めての観覧車は」