Tendresse ―かわいらしさ―
全く予期していなかった初めてのドライブデートに、私の胸は密かに高鳴っていた。フロントガラスがスクリーンのように窓外の風景を切り取って、まるで映画の冒頭のワンシーンみたいだな、と思う。朝からずっと曇っていた空が少しずつ明るくなり、雲の切れ間からは日が差し込み始めた。いつの間にか雪も止んで、日光に照らされた車内は、ぽかぽかと暖かみさえ感じられるようになっていた。
車は中心市街地を抜けて、山沿いの道路を走っている。周辺一帯が小高い丘になっていて、ガードレールの向こう側に市の中心部を一望することができた。引っ越してきてもうじき一年になるが、私は車も持っていないし、郊外までは足を伸ばす事もないので、こんなに遠くから街を見下ろすのも初めてだ。道を挟んで左手に見える住宅街と右手に広がる深い森の対比が、新鮮で面白かった。
そのまましばらく道なりに進んでいくと、右手に並んでいた森の並木が途切れ、動物園入り口の門が見えてきた。
それにしても、普段ほとんど動物の話をしない瞬が、デート先に動物園を選ぶなんて、考えてみればちょっと意外な気もする。
「瞬は、よく動物園に来るの?」
「うん……あ、いや、子供の頃に来て以来かな……」
うん、あ、いや、って何だよ、怪しいな……。きっと、小雨と一緒に何度か来た事があるのだろう、と私は推測した。彼女は大の動物好きである。まあ、深く追求するのはやめておこう。
駐車場に車を停めて、私達は入園口へと歩いた。
園内は、多くの親子連れやカップルで賑わっている。周りのカップル達に触発されて、私達はごく自然に手を繋ぐことができた。瞬の手は、男の割には柔らかくて、しっとりと温かかった。
「思ったより混んでるな……なにか、見たい動物ある?」
「うーん……」
私はアヒル口を作りながら園内マップを眺める。どれも見たことがない動物ばかりで目移りしてしまうけれど、ゾウは絶対に見ておきたいな、と思った。
「ライオンとか、ゾウとか……でも、できれば一通り全部見てみたいな」
「了解。じゃあ、こっちだな」
瞬に手を引かれて、最初にやってきたのは鳥類のエリアだった。コウノトリや白鳥、鶴の仲間などが、檻の中でバタバタと羽根を動かしている。普段の生活の中で目にするスズメやハト、カラスといった鳥たちと比べると、体が大きい分、羽ばたきもダイナミックで力強い。そして何より、美しかった。
私は、白鳥を眺めながら、瞬に『白鳥みたいだね』と言われた時の事を思い出していた。あれは去年の夏、瞬に水着姿を見せた時だったっけ。あの頃はまだ甘える事を知らなくて、触れる事さえ躊躇っていた。なんてウブだったんだろう。あれからまだ半年も経っていないのに、何だかもう何年も昔の事のように感じられる。
次に訪れたのは、もう少し大型の動物が集まっているエリアだった。柵の隅の一点を見つめながらぼんやりと佇んでいるラマ。ツキノワグマは退屈そうにうたた寝をしている。野生の熊は冬眠しているはずの時期だから、やっぱり眠いのかもしれない。眠っているせいか、想像していたよりも、その姿は小さく見えた。
すご~い、かわいい~、と喜んで見せるのを忘れずに、しかし内心では、動物達が少し可哀想にも思えるのだった。外敵のいない環境で、安定した食事にありつけて、飼育員にお世話をしてもらって、何不自由ない生活をしているはず。それなのに、彼らはどこか冷めていて、諦観したような表情をこちらへ投げかけてくる。これは私の気のせいだろうか? ……いや、違う。彼らとよく似た表情を、私はずっと見続けていたのだ。鏡の中から……。
ヒツジ、サイ、カンガルー……どれも初めて目にする動物ばかりで、新鮮な驚きがあった。テレビや図鑑でしか見たことがなかった動物の、飾らない素の表情が観察される。こうして見ると、普段私達が目にしている写真や映像の中の動物達が、編集によって都合よくデフォルメされたものだという事がよくわかる。きっと野生に生きる動物達は、もっとハングリーで表情豊かなのだろう。
そんな彼らの前で、表情を作り、声のトーンを若干上げて、少しでも可愛く見られようとアピールしている自分。物言わぬ彼らの目にはきっと、私も、他のカップル達も、さぞ滑稽に映っている事だろう。人間ってやつは、わざわざそんな事をしないと恋の一つもできないのか。
瞬は時々わざとらしく園内マップを確認して、さも久しぶりに来たかのように振る舞っていたが、その反面、足取りは随分しっかりしていて、歩き慣れているように見える。動物を見る彼の目もどこか醒めていて、やっぱり小雨と一緒に時々来ているんだな、という印象を受けた。私はそれを詰るつもりなんて全くないのに、下手な演技までして隠そうとしている、私の推測が当たっているとしたら、彼もまた滑稽な人間の一人。
それまで見てきたのはどれも大人しい動物ばかりだったが、ニホンザルが飼育されているサル山の前までやってくると、それまでとはうってかわって賑やかになった。
サルは秋から冬にかけてが繁殖期なのだそうだ。二月ともなれば既にそのピークは過ぎているらしいが、それでも時折奇声を上げながら、サル山の周りを活発に走り回っている。
「すご~い、みんな元気だね。楽しそう!」
「なんかようやく動く動物を見たって感じがするな」
周りにいる子供達が、サル同士の喧嘩を見て、わあ、とか、おお、とか歓声を上げた。
「ニホンザルって本当におしりが真っ赤なんだね!」
「そうだなあ。人間の尻があんなに赤かったら痔かと思っちゃうな」
「ぷっ……変なこと言わないでよ瞬……ほら、なんか、瞬のせいで、もうそんな風にしか見えなくなっちゃったじゃん……ふふふふ……」
全く以て下らない会話だったけれど、私はそれからしばらく笑いが止まらなかった。
それから、ホッキョクグマ、ライオン、チンパンジー、ペンギン、と順路通りに見て回った。中でもホッキョクグマは特にサービス精神旺盛で、おもちゃを放り投げたり、プールにざぶんと飛び込んでみたり、雪の上を転げまわったりと、ツキノワグマとは対照的に見どころ満載だった。体が大きい割には動作が素早くダイナミックで、ホッキョクグマが何か新しい行動を見せるたびに、子供の声に混じって大人の歓声も聞こえてくる。
ホッキョクグマが、自ら放り投げたおもちゃを追いかけて、プールに思い切りよく飛び込んだ。その巨体によるダイブで大きく水しぶきが上がり、瞬も、ここで初めて「おお」と声を上げた。
「わー、すごーい! やっぱり大きいと迫力あるね!」
「こいつ、夏に見た時はだるそうにしてたんだけどな。やっぱり冬が好きなんだろうね」
「夏にも来た事あるの?」
瞬の顔が僅かに固まる。
「あ、うん、だいぶ前に来た時な。あれはたしか夏だったと思うよ」
夏って、いつの夏だろう。一昨年……? まさか去年じゃないよね……。小雨に対して嫉妬するなんて、と頭ではわかっているはずなのに、私と知り合ってからも二人だけで会っていたのかと思うと、一人だけ除け者にされたようで、むかむかと胸にこみ上げてくるものがあった。
ホッキョクグマから少し進んだところに、私のお目当ての動物のひとつ、ライオンがいた。
他を圧する絶対的な存在感を放ち、豊かなたてがみを振り乱して獲物に襲い掛かる、百獣の王ライオン。そんなイメージを思い浮かべながら、期待に胸を膨らませてやってきたのだが、ホッキョクグマを見た後であるせいか、その姿は想像していたよりも小さく映った。ストレスがたまっているのか、同じところを何度も何度もグルグルと歩き回っている。もちろん、その姿も十分に可愛かったけれど、王と称されるほどの威圧感は感じられなかった。
それから私達は、ペンギンやチンパンジーを見てから、爬虫類館へと向かった。.
館内には、ヘビやトカゲの仲間、小型のワニなどが展示されている。照明が暗めに抑えられているせいか、外では騒がしくしていた子供達も、ここではひそひそ声になっていた。熱帯に生息している生き物がいるため、冬でも室温が20度以上に保たれているとのこと。入館した時は暖かく感じたが、中を見て回っているうちに、段々体が火照ってきた。
別に意識していたわけではないのだけれど、ホッキョクグマの前での会話からここに来るまで、私はほとんど喋っていなかった。瞬が時々気にして話しかけてくれたのだが、それに対して私は「うん」や「ほんとだね」といった、全く意味のない相槌ばかりを返していた。自分でも、一体どうしちゃったんだろうとは思う。小雨の存在を意識して、一人で勝手に冷や水を浴びたような気分になってしまったのだろうか。別に、瞬と小雨は幼馴染なんだから、一緒に動物園に来たことがあってもおかしくないのに、変に隠し立てされると、何か後ろめたいことでもあるのかと勘ぐってしまう。でも、今彼とデートをしているのは私なんだ。小雨の事を黙っているのも、彼なりの気遣いなのかもしれない。それなのに、私の態度は我ながら大人げなかった。しっかりしろ、真紀。
館内をしばらく歩き回って、残りはもう僅か。私達は、一風変わった柄のヘビ達が展示されているスペースを歩いていた。
全身が真っ白いヘビや、橙色のヘビ、黄色い大きなヘビ、等々。ヘビが苦手な女子は結構多いらしいが、私は割とヘビが好きで、機会があったら飼ってみたいとさえ思っている。
「わー、かわいいなあ、ヘビ……」
「へえ、ヘビ好きなんだ? 意外だね」
ようやく喋り始めた私に、瞬はすかさず合いの手を入れてきた。
「なんかさ、綺麗な柄のヘビをマフラーみたいに首に巻いて出歩けたら楽しそうだな、って思わない?」
「首に? う~ん……」
彼は右上の天井を見るような仕草をした。そんなところに答えが書いてあるのかしら、と視線を追ってみたけれど、そこには無機質な白い天井があるばかり。まあ、当たり前だけれど。
「俺はちょっと怖いなあ。急に締め付けられたりしないか、って考えてしまいそうで」
瞬は時々、妙なところで臆病になる事がある。今回も、何か琴線に触れるようなことを言ってしまったのかもしれない。
「それはさ、多分、普段のスキンシップによるよ。ちゃんと愛情をかけてお世話してあげているかどうかじゃない?」
「う~ん、うん。なるほどなあ……真紀は、何か動物を飼った事ある?」
「犬を飼ってたよ。ウエストハイランドホワイトテリア。ウエスティの女の子だった……一昨年、亡くなったんだけどね。小さい頃から、ずっと一緒だったなあ……名前はアンジュ。毛が新雪みたいに真っ白で、ふわふわで……」
話しながら、私はアンジュの事を思い出していた。モンシロチョウを追いかけて、庭の花壇を走り回っていた子犬のころのアンジュ。名前を呼ぶと、尻尾をちぎれんばかりに振り回しながら駆け寄ってきて、私の顔がべちゃべちゃになるまで舐め回した。それから、少し大人に、そして従順になったアンジュ。人間に対して心を開けなかった私の、心の支えだった。どんな時も、ずっと傍にいてくれたのはアンジュだけだったし、毎日一緒に寝ていたっけ。
アンジュの柔らかい被毛に顔をうずめて、アンジュのにおいに包まれるひとときが、私にとっては何よりもかけがえのない時間で、私の心に安らぎを与えてくれる唯一の存在だった。心臓を悪くしてあまり動けなくなってからも、私の動きをいつも目で追っていた。今でもこの手には、アンジュの体温と、綿あめみたいに白くて柔らかい毛の感触が、少しも損なわれずに残っている。でも、これらは全て、私という人格が作られる以前の、彼女の記憶だ。
「へえ。うちは全然……子供の頃、カブトムシを育てた事があるぐらいだなあ」
瞬の声が、私の意識を追憶の世界から現実へと引き戻す。
「そろそろ、外に出ようか」
爬虫類館を出て先に進むと、そこでは、本来アフリカを生息地とする動物達が飼育されていた。キリン、アフリカゾウ、カバ、シマウマ……広いスペースの中で、様々な動物が放し飼いになっている。池の近くにはフラミンゴの姿も見えた。
「あ、ゾウだ!」
数ある動物の中でも一番興味があったゾウ。その姿を目にした私は、思わず柵に駆け寄って身を乗り出した。
「うわぁ……やっぱり大きいなあ……」
長い鼻をくねくねと動かし、時々地面から何かを拾い上げて口に運ぶような動作をしている。私の声が届いたのか、大きな耳をパタパタと震わせながら、のそのそとこちらへ歩いてくるのが見えた。
「ほらほら、瞬、こっちに歩いてくるよ!」
「わかってるって」
私は瞬のコートの裾を引っ張りながら、子供のようにはしゃいで見せた。そんな私を見て彼も、やれやれ、といった表情で微笑んでいる。
子供の頃に読んだ、動物園のゾウの絵本が、私の脳裏に強く焼き付いている。戦時中に殺処分されたゾウの実話を描いた有名な絵本だ。初めてその絵本を読んだ時、私は涙が止まらなくて……だから、いつか動物園に行けたら、その時には絶対にゾウを見ようと心に決めていたのだ。
ゆっくりとこちらへ歩いてきたゾウは、そのまま私達の前を通り過ぎようとしている。私は慌ててスマホを取り出し、その姿をカメラに収めた。撮れた画像を確認しながら、私はある事を思いついた。
「あ、そーだ!」
「な、なに? どうした?」
突然大声を上げた私を、瞬は驚いたような目つきで見ている。
「せっかくだから、一緒に写真撮ってもらおうよ!」
私の提案に、彼は顎を触りながらゆっくり頷いた。
「それもそうだな……うっかりしてたよ」
私は、偶然そこを通りがかったカップルに声をかけた。ちょっと、写真をお願いしてもいいですか。私達と同年代と思しき若いカップルは、快く引き受けてくれた。
柵の前に並んで立ち、私は瞬の左腕を抱いて、肩に凭れかかった。その時ちょうど、さっき私達の前を通り過ぎて行ったゾウが、こちらへ歩いて引き返してくるのが見えた。絶好のシャッターチャンスだ。
「いいですか~? はい、チーズ」
私のスマホを持った若いカップルの女性が、こちらへ声をかけた。私は左手で歯痛ポーズを作って、カメラに向かって微笑んだ。直後に、カシャッ、とシャッター音が響く。
「ありがとうございました~」
カップルに礼を述べ、その背を見送ってから、私はカメラロールを確かめた。
写真の中の私達は、大きなゾウを背景にして、まるで恋人同士のように寄り添いながら、幸せそうに笑っていた。
変更したプロットを必死で考えて書いているうちに、現実世界でのバレンタインデーが過ぎてしまいましたね。
ちなみに、作中と同じ週末、日曜日のバレンタインデーだったわけですが、東北は風が強くてデート日和ではありませんでした。
もうすっかり旬の過ぎた話になってしまいましたので、のんびりと書き進めていこうと思っています。




