「蝶々のキス」
あたしは、呪い。呪いそのものだ。
あたしはわざわざ意識してダサくなるようにしている。あたしの顔を半分覆い隠すような不格好な黒縁の眼鏡をかけ、足の太さが一番目立つような校則通りの長さのスカートをそのまま着用し、胸元までもある黒い髪の毛は、いつも頭を洗って乾かさずてのひらでわしづかみ、念入りにぐちゃぐちゃに掻きまわして、それから眠りに就く。
朝、鏡の中に、顔も良く見えない、猫背の(もちろん、わざと猫背にしている)、醜い女がボサッと突っ立っているのを見て、やっと安堵する。文句を言いたげな視線を投げかけながら、家政婦が髪を綺麗に梳こうとするけれど、昨日の努力のたまもので、乱れて広がる髪の毛にしかならない。
あたしは、美しい男も、女も、吐き気がするほどに大っきらいだ。だから醜くあろうとする。
とても不幸なことに、あたしを作った精子と卵子の持ち主の容貌は、美しい。だからこそ憎しみが募る。いや、美しい、と一言でおさまるような容姿ではないのだ。顔立ちが整っている人間ならいくらでもいる。あれは、私の両親はどういうものなんだろうか、人を惹きつけてやまない何かを発している。ふたりの性質はずいぶんちがうものだけれど、ともかくそういうものだ。
辞書のどんな用語を使おうが、私には何を言ったって言い尽くせない。世の中には、そういう人間がいるんだ、甘い香りを放つ花のような、夏の終わりの、よろよろ滅びにひるがえる黒い蝶々の、ベルベットを思わせるその羽のような、そんな人種が。
あたしはそいつらの融合体で、醜く生まれるはずもなかった。
幼いころ、あたしの母は高校を出てすぐに男に騙され、高級ソープで働いていた、という話しをお付きの車の運転手から、何も知らないお嬢様のふりをしてそっと聞き出した。
まだ、可愛く着飾られあたし自身もお人形のように澄ましこんでいたころだ。お母様も働いていたことなんかあるのね。それで、ソープってどんなところ。それは…お嬢様、特別に教えて差し上げますけれども、わたくしが申したとは、誰にも必ず秘密にしておいてくださいませね、と媚びへつらいながら、どこか嘲りやあたしに対する性的な高揚感を含んでいた運転手、そのころは彼があたしにとっての世間のすべてだった。
さすがに幼稚園の頃は金を使えなかった、だからあたしは何も知らないふりをして少しずつ彼に体を切り分け、取り分けて、ゆっくりあたしの家の状況を理解してきた。そうする知恵があったことに感謝する。そうでなければ、あたしは世間というものを全く知らずに生きてきたろう。
さすがに公然と体を売るという場所で母が働いていたことには驚いたが、少しずつインターネットでどういう場所なのか、どういうスキルが必要なのかと調べてみると、逆に母がそんなところで働けたのが不思議なくらいに思える。
母は美しいが、知能が遅れている。子どもの目から見ても分かるくらいに。ただその知恵のなさが、透き通るようであり、やはりそういう場所に落ちてしまったこともあってか、哀しみのようなものも漂わせている。-そういうものすべて押し並べて蠱惑になるのが、苛苛しいのだが。
どんな繋がりで出会ったのか想像するのも面倒くさいけれども、その政治家としての腕と言うより、昔は芸能界で活躍し、いまも魅力的な容姿で有名な政治家二世の父が、母に出会い、いわゆる一目ぼれをして、豪華なマンションに住まわせてもう16年になる。律儀なことに引き取ってすぐに父は母を妊娠させ、女児であることを確認してから出産させた。
それがあたしだ。へその緒で首をつっておけばよかったのだと、いまいましくよく思う。
良い家から父に嫁いだ、良妻賢母の見本であるような本妻さんにはもう、立派に男児が3人もいらっしゃる。だからほんとうに、父が母を引き取ったのは酔狂だ。酔狂、その、字のまま。母の美しさに酔い、狂った。狂っている。
でも、父はあたしのことは、割とどうでもいいようだ。母には時間の許す限り会いに来ているようだが、あたしには気まぐれに時たま、家政婦からお父様がいらしてお会いになりたがってらっしゃいますよ、と声をかけられ、父と母はあちら、私はこちら、長いテーブルの向こうとこちらで、父は饒舌に、あたしはぽつりぽつりとことばを交わす。昔は危うげながらフォークとナイフを使えていた母も、父が甘やかすのでもう手づかみでしか食べなくなった。そんな母のことを父は愛しげな目で見ている。時にヨチヨチ、と父は母の頭をなぜ、ご飯が終わると母を連れて寝室に消えていく。
お弁当を食べ終わり、あたしは黙々と2時間目で出された課題に取りかかる。男子たちが屈託なく笑う声が、女子たちがそれに混ざって楽しげなのが、ウルサイナ、と思った。だけれど、この学校を選んで良かった、とも思う。
政治家二世の父は、世の中に公立の中学・高校があることなんて気付いてもいなかった。ここに来られたのは運が良かったとしか言いようがない。あたしの高校への進学を、たまたま父が話題にしたのだった。親子の会話らしい会話など、本当にそれが初めてだったのではないだろうか。…に通うことになるから、と当たり前のように父は告げた。小学校高学年のあたしでさえニュースなどで名を知っている私立の名門校の名前だった。
-冗談じゃない、あたしみたいなキチガイの二号の子どもが通っていいような学校じゃない。
通っていた私立の小学校で散々白い目で見られ、あたしはすでにいっぱいいっぱいだったのだ。そういう、良いところのお嬢さんや坊ちゃんが通う、悪意でいっぱいのネットワークから外れたくってたまらなかった。
その時父は、ざっくりと何かを切り裂かれたような顔をした。黙っていればいいじゃないか、とか、分からないようにすればいいじゃないか、とか、誠実な政治家らしい声であたしを説得にかかった。
-本妻さんの兄さんたちが通った学校に行くなんて、厭だ、厭だ、厭だ!
あたしは泣きわめく。
母が珍しく、飛んできた。いつもならソファに寝転がって動かないことも多いのに。父の趣味で着せてある、まるでフランス人形のような服のたっぷりした姫袖で、あたしの涙と鼻をふき、黙って、父を見上げる。
母にだまって見つめられると、父は何もできなくなるのを、母はよく知っていたみたいだ。
母に守られたのは、記憶の限りそれが初めてで、最後。
手洗いに立つ。私はいつもひっそりと行動しているので、そんなに目立つこともない。オタクっぽい(つまり、勉強はそこそこできる)女子グループの子たちに、声をかけられる。
「-のフィギュア、集まったぁ?」
「うーん、お金なくってさー。コンプリートしたいんだけど!あ、あまったやつまた持ってくるよ!」
歓声を上げる彼女たち。まったく、高校一年の秋にもなって。
でも。可愛いか。あの小学校の子どもたちよりは。過去を思い出して頭を振る。
あたしは一見、この子たちとグループに属してるように見せている。簡単だ。毎月欲しいだけもらえるお小遣いの中から、彼女たちがはまっている漫画を買い、適当に目を通し、そのフィギュアを買い、カブっちゃったーと言って彼女たちに貢ぐのだ。彼女たちだってくれることもある。圧倒的にこちらがやる方が多いが、その分だけいつもは会話に入らなくても体育の授業やグループ組みで困ることがない。
「おしっこ行ってくるー」
「春日、そーゆーこと大きい声でいわないのー」
あはは、とあたしは手をひらりとさせる。ひらりとさせながら、心の中で毒づいた。
何が春日射だよ。
凶悪な目になっているのが分かるからうつむく。
あたしの名前は、佐藤春日射。春日射なんて呼びにくいし、春日ならよくある名前だから、あたしは学校の子たちには春日と呼ばれている。
しかし、本当のところは、笑える話。子は両親のかすがい、そう父が念じて付けた呪いの名前。自己紹介をするときには占い師に「射」を最後につけた方が、運気が向いてくるかって、変な名前にされちゃいました、困っちゃうんだ。でも春日って呼んでくれた方が嬉しいな。そんな話しをしなきゃいけない。
かすがいだなんて。父と母をつなげるだけの呪具だ。父の、母が愛おしいという念が募りすぎてまるで呪いそのものとなった、そんな情を背負ってあたしは生まれてきた、呪いの塊。でも、あたし自身は、誰にも愛されることはない、ただの冷たい金属の道具。
馬鹿みたい。
ギリリと唇を噛んで、お手洗いに向かう-
あ、と思う間もなく、突然出された男子の足に引っ掛かった。体のバランスが崩れる。お喋りをして興奮していた声がしていたから、あたしに気付かなかったようだ。
なんて考えながら、公立の学校に通うことになって(私立のがよほど精神に来るのにね)急きょ雇われた合気道の先生に、もう受け身の仕方を習っていたから、あたしは体の力を抜いた。倒れないように力を入れたりすると、かえってどこかを痛めたりするのだ。ドン、と派手な音がしたが、どこかをひねったりして痛めたような感覚はない。倒れたまま体の痛みを確かめる。
「佐藤さん!?ごめん!」
馬鹿男子、ととりあえず名前をつける。たぶんうちのクラスのやつだ。
「ううん、大丈夫」
笑顔を作って、さて怪我はないようだと確認し立ち上がろうとしたところで、どうやら廊下でボールで遊んでいて、後ろ向きに走ってきた男子がいて-
馬鹿…だんし…が。
思いっきり髪を踏まれ、顔を床に打ちつけた。
「大丈夫!?うわっ、ごめん、ごめん!?」
「馬鹿っ!廊下走ってんじゃねーよ!」
「こういうときって、動かさない方が良いんだっけ!?」
「うるさい」
思わず、思い切り不機嫌な声を出してしまった。何か視界が変だ。眼鏡のフレームが歪んでレンズが片方外れている。度無しだから、いいけど。眼鏡をとって、ブレザーのポケットに突っ込んだところで、沈黙に気がつく。あぁ、険悪な声を出しすぎたか。-それとも、顔を見せすぎたか。そちらの方が面倒だ。あたしは立ちあがりながらいつも通り、猫背になり髪で顔を隠すようにして声を出す。
「あ、ごめん、ちょっとびっくりしちゃって!髪踏まれただけで大丈夫だから~、この眼鏡そろそろ買い換える予定だったし…」
「ごめん、ごめんね!保健室連れてく?」
びくびくしている、あたしをふんづけた生徒は知らない顔。別のクラスの人間のようだ。
「いや、俺が連れてくよ~そもそも俺が足出しちゃったんだし」
比較的落ち着いている、そもそもあたしに足を引っ掛けた馬鹿男子、は、
(ああ…面倒なやつに、捕まった)
文化祭の時に実行委員になっちゃうような、クラスの中心人物のうちのひとり。あたしの親じゃないけど、俳優出来るんじゃないかってくらいきれいな容姿で、男女のどんなグループにも如才なく声をかけてくる明るさを持っている。制服をうまく着こなしていて、きっと私服ならもっとおしゃれだと分かるような雰囲気を漂わせているやつだ。実際何かの雑誌の読者モデルをやっているという噂を聞いたことがある。華やかな渦の中の、中でも際立っているひとり。
「いやほんと、顔はどこも痛くないから、いいよ~」
私はうつむいたまま立ちあがり、ひらひら手を振る。
「いや、顔めっちゃ蹴られてたでしょ?腫れるかもしれないから、行くよ」
「蹴られてないってば」
「いいから」
馬鹿男子にぐいっと手をつかまれ、引きずられるようにして歩いた。あれ、こいつこんな強引なキャラだったっけ、と思う。
そのままあたしは一階の保健室に気遣われながら、しかし強引に連れて行かれた。「外出中」そんな札が引き戸にピタっとくっついている。
「ほら、先生いないみたいだし、いいよ」
返事は、なかった。馬鹿男子はガラリと扉をあける。保健委員が数人いたが、みんな男だった。
あ、何これやな感じ?
「ちょっとベッド貸してな」
にやにやしながら保健委員たちがうなずく。私をベッドに突き倒しておいてカーテンを閉めた。あーコイツ、頭イカれてんな。腐ってんな。かなり穏やかな高校だと思っていたけど、やっぱりこういうのあるんだな。そんなことをどこか淡々と思う。まぁ、ある意味健全なのかもな。
「馬鹿男子、お前、あたしになんかしたら殺されるよ。別にいいけどさ」
はぁ、面倒くさい。
「名前くらい覚えてもらえない?わざわざ足引っかけてあげたんだから」
「馬鹿の名前を覚えるほど脳みそ余ってねぇんだよ」
あたしはバサリと黒髪を手ぐしでかきあげ、後ろで結うような形にして微笑んだ。
あたしは、知ってる。
美しいものは、時に醜いものよりも触れがたい。
…お母さんみたいに。あたしが幼いころから、何もないところを見つめてお母さんが虚ろに笑っているとき、声もかけられず触れもしなかったように。
そして、あたしは、その遺伝子を引いている娘だから、とてもとても美しいのだ。
息をのむ音がした。
「あははははっ!」
あたしはこらえきれず笑いだした。あまりにも馬鹿男子の顔が、間抜けになったので。ぐにっと唇の端に両手の中指をひっかけ、小さいころ母によくやった悪戯をやってみる。
「アタシ、キレイ?」
そうすると母は怖がって泣き出したものだ。泣いている母の世話をするのが好きだったからよくやった。あるとき、あんまりにも怖がり過ぎて母が過呼吸の発作を起こして、家政婦にこっぴどく叱られてからやっていないけれど。
「俺、俺…ごめん。本当にごめん」
そのまま、超・馬鹿男子は号泣しだした。
「は?」
あたしの予想をすっ飛んだ反応だった。怒り狂うか、気が抜けてしまうか。そんな反応を導き出すつもりだったのだが。
「許してくれ。ごめんなさい。ごめんなさい…っ」
ひくっ、ひくっという嗚咽に切られながら、超・馬鹿男子は謝り続ける。宇宙規模の馬鹿かこいつは。
「あー、クレハがまた頭おかしくなったよ」
シャッとカーテンが開き、保健委員モドキズが顔を出す。
ああ…暮葉。タカムラクレハ。そんな名前だった、こいつは。
「なんなのコイツ」
「最後まで出来た試しが、ないんだよなぁ。なんか人格変わるの、こういうふうに。女がその気になっても。おんもしれぇだろ?今度はクラスの地味な女で試してみるとか言ってたけどさ。ってわけで被害者ゼロだから、黙ってやって」
「あっそ。じゃーね童貞くん」
あたしは立ち上がり保健室を後にする。泣き声がいっそうひどくなったようだ。なんだか妙に爽快な気分。やっぱり人を馬鹿にするって楽しいな。秋のはじまりの、涼やかな風が吹いた。
その日から、高村暮葉はあたしのストーカーになった。
休み時間になると、必ずあたしの席に来て「佐藤さんは何が好き?今度どっか行かない?」などと何のナンパかと思うようなセリフを繰り返すものだから、あたしは一時、ああ、時の人ってこういうことを言うのか、なんて思わされた。
女子たちの嫉妬や疑問に満ちたささやき声が小さな檻のような教室を羽のようにふわふわと漂い、積もっていくのが分かるようだった。オタクのグループからも距離を置かれたが、体育の時間、二人で組むものがあったら暮葉がいそいそとやってきたから特に不便はなかった。
それにすぐ、暮葉が何か言ったのか一躍あの華やかな集団に入ることになり、あたしはそのなかで目立たないよう髪を整えるようになりスカートの丈を少し短くし、しかしそれでも多少しゃれたものにはしたが、伊達眼鏡を掛けるのは忘れなかった。目立ちすぎるのは面倒なものだから。
意外なことに、私は暮葉がそばにいるのが厭じゃなかった。
私は帰り道、わざわざ数駅前で降りて川辺を歩くのが好きだった。本当なら高校まで送り迎えをするべき運転手には、言い含めて適当に時間をつぶすように言ってある。あの運転手は世間そのもののようないやらしさもあるが、厳格すぎないところが、それも世間のうちであるようにも、思う。
ローファーに小石がごつごつと当たり、野生のコスモスたちが桃色や乳白色に揺れる。川が流れていく音が聞こえ、秋の日はつるべ落とし、空があっという間に藍色に染まり、金糸銀糸で縫い取られた星たちが輝きを増す。
ザッザと勢いよく歩く私の後ろを、何も言わず暮葉はついてくる。その沈黙がいつしか二人の周りを取り囲み、優しいゼリーのような空間になる。二人で透明の甘いゼリーの中で苦しく呼吸しながら、あたしたちは儀式に向かうように歩いて行く。
「あのさ…」
もじもじしながら、暮葉が言う。
「手、つながない?」
「は?あたしと暮葉ってそんな仲だっけ?」
「…そう、だよな」
暮葉の手。
骨ばった白い手。手のモデルでもできそうな、綺麗な手。冷たそうな手。
冷たい手を持つ人は、心が温かいんだっけか。暮葉の手の温度はどれくらいなんだろうか、そう思って無性に手を触りたくなった。お母さんの手は、いつもふくふくと温かいから、だから…。
ははっ。頭の中のあたしが笑う。手のあたたかさで人の気持ちがわかってたまるか。たまるか、だけれども。
さみしいし、なんだか。
あたしは頭をぶんぶんと振ってその考えを振り払った。あたしらしくない。手がかすかにふるえているのも、さわりたいと思う気持ちも、ぜんぶぜんぶ、あたしらしくない。
あたしは暮葉の腹を蹴った。渾身の力で。悶絶して崩れ落ちる暮葉の姿に、いつものあたしが出てきて、高笑いを続けた。壊れた人形のように、いつまでも、いつまでも、笑い続けた。
暮葉はあたしをマンションまで送り届けて帰るのが常だったが、秋の風、枯葉の甘いにおいを含んだ匂いが澄んだものに変わり、冷たさに染みるようになり、昼間でも空が薄水色に、冷たく冷たく澄み渡っていく冬のころ、あたしは暮葉をマンションに上げるまでになった。
ひとつ何千万もするロココ調の家具が置いてあり、家政婦がいて、母が外国のお姫様みたいな恰好をして無表情でふわりふわりとうろつくだけで挨拶も出来ないでいるのに、特に驚くこともなくすぐに慣れたようだった。-それで、あたしは聞くことはしなかったけれど、暮葉の何かが分かった気がした。
長時間、あたしは暮葉と一緒の部屋にいた。課題をしたり、漫画を読んだり、ゲームをしたりテレビを見たり。あたしも暮葉も無表情だ、ただ、世の中に合わせるためにそういうことを勉強しているだけ。楽しいなんて思わない、笑いなんて起こらない、シンとした部屋。静謐さに包まれた、優しい沈黙。
時たまぽつねんと、暮葉が暮葉の家のことを語る。お母さんがそこそこ有名なモデルであること、良く食べるがご飯のあとには必ずトイレに長時間こもること。父は芸能プロダクションの社長であること、幼いころはよく、服で隠れるところを殴りつけてきたこと。母も笑いながらそれに加わることがあったこと、そして、自分にとっては殴られることこそが、愛なのだと「分かった」こと。
バカみたいな家族は本当にどこでも転がっているもんだ。
ある日家政婦から、くれぐれも避妊だけはしっかりとしてくださいと言われ(後継ぎが予定外に増えてこれ以上面倒になっちゃ、本妻さんはたまらんのだ)、あたしが頑丈そうなコンドームを受け取るようすも、暮葉はただぼんやりと見ているだけだった。
「暮葉。あんたもやっぱり、頭がおかしいんだねぇ」
「え、なんでそんなこと言うんだよ」
暮葉は眉をしかめる。そうしていると、単に顔の端正な、普通の男子にしか見えないのだが。
「だってうちがこんな生活してるのに、何も聞いてこないし。…セックス出来ないし」
あははっ。
くしゃくしゃと、暮葉の顔がゆがむ。
「お願いだから、言わないでよ。ねえ、春日射…僕をここまで受け入れてくれたのは、あなたが初めてなんだ。それに、その綺麗な顔…」
私は思い切り平手打ちをする。パン、と良い音が響き渡る。
「受け入れてねぇよ。勘違いすんじゃねぇよ。あとあたしの名を春日射って呼ぶんじゃねぇ」
「じゃあ、じゃあ…なんなんだよぅ…なんでここに…居させてくれるの」
ぐすっぐすっと、もう暮葉の顔はぐちゃぐちゃだ。
私はティッシュをとって、涙やら鼻水やらよだれやらを吹いてやった。
「お人形さんだからよ」
そう。
見目の良い良い、あたしのお人形さん。
「お人形さんは春日射だ」
パン。暮葉の頬が鳴る。思いっきり。
「保健室で、分かった。春日射は俺の大切な大切なお人形だ。他の女は、いつも醜すぎて、触れられなかった。うちの母親と同じだった。小学生の俺に自分から足を開いてくるような、淫売だったんだ。綺麗過ぎて触れられなかったのは、俺を拒否してくれたのは、春日射、あなただけだ」
その台詞の間に、あたしはいくつ暮葉の頬を張っただろう。あたしの手すら腫れあがった。当然、暮葉の頬は真っ赤で、燃える夕暮れの色みたい。
川辺でいろんな夕陽を、みた。暮葉と。その日々のうちの、どれか一つの夕暮れ色。
あたしは、急に、なみだが、出た。
あたしと暮葉は、こんなに似ているのに、こんなに分かち合っているのに、これからも永遠にセックスをすることはないだろう。
キスすら、しないだろう。
人形には、たましいは、ないから。
人をいとしいと思うたましいは、人の体温を求めるたましいは、ない。
ただの殻。
見目良いだけの、ただの殻。
私が転んで泣いていても、ただ座って呆けている母のように。
生まれてから一度も抱きしめられたことのない、父のように。
-呪いだ。
「呪いなんだ」
私はつぶやく。
「呪いを。呪いをとこう」
「呪い…」
暮葉は復唱して、はっとしたような顔をした。
「私たちには」
「俺たちには」
『呪いがかけられている』。
あたしたちは、人形じゃない。叩けば腫れる肌を持った人間。傷つけば、血を流す人間…。車に轢かれれば、肉片になる人間。その醜さは、人間が生きているからこそのものだ。
嗚呼。
あたしはこの年になるまで、自分が生きていないことに気付かず苛立っていたのか。ただの親の間を取り持つ金属片か、ただの見目の良い人形か。暮葉のことを馬鹿に出来ない、あたしだって何にも気付いていなかった。
『どこを壊す…?』
それは、囁き合う官能だった。あたしははじめて暮葉の体に触り、黒い艶やかな髪の毛に手を入れ、その感触を、匂いを確かめる。暮葉もあたしを抱きしめる、ぎゅうっと強く、強く抱きしめる、まるでここからあたしが消えないようにと、つなぎとめてくれているように抱きしめてくれる。しばらくかき抱いてから離れると、あたしたちは二人とも遠い距離を走りきった獣のような荒い息をしていた。
あたしは暮葉の手をとって温度を確かめた。こんなに暖房の効いた部屋の中で、あたしと変わらないくらい冷たい、凍りついたような手のひら。
嗚呼。
幼いころの初めての死の記憶。季節の終わりの黒い蝶。ベルベットのような羽はボロボロで、よろめきながら風に翻弄される姿、それが残酷にして美しい。生きている美しさ、死んでいくということの美しさ。次の日の朝、蝶はくさむらで動かなくなっていて、あたしははじめて、自分の意志で泣くことが出来た。
そこらに放り投げていた通学カバンから美術で使う彫刻刀を取り出す。
鋭い刃。いちばん深く入りやすいであろう。
あたしは暮葉にそれを渡した。
綺麗な笑顔で、暮葉がそれを振り下ろすのを、あたしも笑顔で見てた。
時間が引き延ばされて、ゆっくりと刃が舞い降りてくるのを、瞬きもせずに見つめている。
目が覚めたら、手をつなごう。そうしていびつなキスをしよう。優しい、優しい、体温のキスをしよう。
-×月×日×時頃、神奈川県××市××のマンションの6階で、同じ高校に通う男女が意識を失った状態で発見されました。ふたりとも意識不明の重体とのことです。警察は2人が心中を図った可能性が高いとみて調べています。-