姉が喪女であれと俺は全力で祈っている
「乙女ゲーム、ねぇ……」
屋上へ続く階段を下りながら、覚は姉から聞いた奇妙な話を思い返していた。
この世界がゲームだの、攻略対象が妖怪だの、ぱっと聞いただけでは、ついに頭がおかしくなったか?と耳を疑う内容だったが、いくつかの――いや、多くの姉の知りえない秘密を暴かれて、内心覚は動揺していた。
姉は冗談まじりに話していたし、腹芸ができる人ではないと知っている。だとすると…
「誰かに何か、吹き込まれたか…」
暗示か、催眠か。あるいは大きな存在による妖術ということも考えられる。
姉のちっぽけな脳味噌にあんなバカげた考えを植えつけられる人物を覚は何人か知っている。滑稽な話だが、そんな【ありえないオカルト】は存在するのだ。
覚はそれを、身をもって知っていた。
「あっれ~?シスコンヘタレ野郎がこんなところに一人でいるぞぉ?だぁいすきなおねーちゃんはどうしたんだよ。今日は一緒にごはんたべるんじゃなかったのぉ?」
「水無月……お前どうしてここに…」
階段の踊り場を横切ったすぐそこに、音もたてずに階段を上る男とはちあった。
艶やかな黒髪。黒ぶちのフレームの少々やぼったい四角い眼鏡。指定の制服をきっちりときこなした折り目正しい優等生と名高いその男は、水無月桂といった。覚とも浅くない親交があり、一応…仕方なく…名目上は…「おともだち」という関係を築いている。が、実のところ覚にとってこの男は鬼門といえた。
覚にとって最大の「秘密」とも関係があるが、それでなくてもこの男が苦手だ。
姉はクーデレといっていたが、意味が間違っている。この男は正真正銘のキ○ガイで、クールなのは見た目と外面だけである。
今も、涼やかな立ち姿はそのまま目だけがぎらぎらと妖しく光り、端正な唇からこぼれだすのは耳を覆いたくなるような罵声だ。
覚は溜息をつきたくなる衝動をこらえ、男を睨んだ。
「そんなに睨むなよぉ。ちょぉっと休憩しようと思ってあがってきただけなのにぃ」
「次の授業はどうした。お前、風紀委員だろ」
「そんなん肩書だけだしぃ~俺は俺のなわばり荒らされなきゃそれでいいつーか」
「あぁ?」
「やぁだ、怖いよわんちゃん☆そんなに俺をおねーちゃんに近づかせたくない?」
「うぜぇ、わかってんなら尾けてくんな。噛み殺すぞ糞狐」
「自意識過剰の犬は困るなぁ。俺はただほんとーにへとへとに疲れてて一休みしたかっただけだよぉ。別にわんこがおねーちゃんと屋上行ったって聞いたから邪魔してやろうとかリア充爆発しろとか思ってないよぉ」
「おもってんじゃねーか!」
やだ、こわい~とくすくす笑う男の姿に、覚は思わず脱力した。
これだから、この男と関わるのは嫌なのだ。姉を守るために必要な情報源として我慢していたが、そうでなかったらとっくに喰い殺していただろう。……そう考えると、ますます姉の言っていた戯言に真実味がでてきて、覚は胸がざわつくような、嫌な感覚を覚えた。
「おい」
「なーに?」
「さっきへとへとに疲れたとかなんとか言っていたが…」
「え、なに?心配してるのぉ?きもい~」
「ばっ、ちげぇ!お前のなわばりでなんかあったのか?」
覚たち―…「秘密」をもち人の世にまぎれるものたち…の中には、多くのものがなわばりをもって暮らしている。それは人の血肉を糧として生きるためだったり、元からの習性だったり、人によってそれぞれだが、「狐」の場合は少し違う。
狐は―否、水無月家の狐は稲荷神に仕え、死後その使いとなることが決められている稲荷狐なのだ。
正確には未だ違うやら、本家だけがどうとか色々あるらしいが、とにかく稲荷神に仕えるものとして、この辺一帯の人間の魂を管轄することが決められているらしい。
ゆえに、水無月の情報は正確で早い。
「んん~別に葉月クンが気にするようなことは何も起こってないと思うよ?あいかわらず人間はしょっちゅう死ぬし、生まれるし?葉月クンとおねーちゃんには、なぁ~んにも関係ないことだよぉ。君達にはなぁ~んにも関係ない女が変な死に方しただけ。ただそれだけぇ」
「変な、死に方……?」
「ん~と、あんまり言いたくないんだけど、予定にない死だったみたいな?しかもうちのトップがうっかりミスちゃった的な?」
「はぁ!?」
「あはははは。面倒だよねぇ、バカバカしいよねぇ。これだから嫌だよ、仕事人はつらいんだよぉ。なぐさめてくれてもいいよ?なでなでしても、いいんだよぉ?」
「きめぇ」
すりよってくる水無月を押しのけ、覚はほっと胸を撫でおろした。
聞いた限りでは、姉の話となんの関わりもなさそうだ。仮にも姉と同族である人間の魂に対してうっかりミスしたという話は不安だが、一度そんなミスが起こったのなら、二度は起こるまい。
覚は水無月の頭を撫でる代わりにひっぱ叩くと、懐から財布を出し彼の手に野口英世を二枚押しつけた。
「ん?なに、くれるの?」
「お前に貸しをつくるほうが怖い」
「ひどぉ~い。俺泣いちゃう☆」
えーんと泣き真似をする水無月と肩を並べて、階段を下りる。
どうやらもう屋上へ行く気は失せているらしく、何もいわずに水無月は覚の後をついてきた。
「じゃ、俺もう教室戻るから。休むなら屋上以外で休め」
「そうだねぇ~あ、そうだ。葉月クン」
「あ?」
声をかけられ、振り返る。
すると、思ったよりずっと近くに水無月が立っていた。ぎょっとする覚をよそに水無月はにっこりと笑い、そっと耳元に囁きかけてくる。
「君のだぁーいすきなおねーちゃんが、最近特に力のあるやつの周りをうろついてるらしい。美術部の赤鬼が『狼臭いメス』を気にしてたよぉ?……大事なモノなら、マーキングだけじゃなくて、縄につないでおかないとさぁ」
――ぬすまれちゃうよ?
「……っ!?」
渾身の力で水無月を突き飛ばす。
狼である覚の全力だったにも関わらず、水無月は少したたらを踏むと、涼しい顔で立て直した。
「はははっ!!凄い顔してるねぇ、犬っころ!」
「うぜぇ!わかってんだよ、あれは俺のだ。部外者は引っ込んでろっ」
「気にしてるのは俺じゃなくて鬼だってばぁ。まぁいいや。お代分はここまで。じゃぁねぇ~」
ひらひらと片手をあげて、水無月は立ち去った。
その軽やかな足取りを憎たらしく思いながらも、覚は彼を追いかけることはしない。
覚にとっては目の前のムカつく狐よりも、姉の方が重要だった。
「くそっ」
覚は、今まで全て姉のためを思って我慢してきた。
姉に想いを伝えることも。
秘密を明かすことも。
無理やり押し倒して、そのすべてが覚のものなんだと教えることも。
すべて、すべて我慢してきた。それというのも姉を守るためだ。
狼である覚にとって、家族という群れは絶対だった。
何があっても守らなくてはならない、外部の妖怪共からも自分からも――
けれど、いままでのやり方で守れないというならば。
「やり方をかえなくちゃならねぇよなぁ……」
狐が縄でつなげというならば、念には念をいれて鎖でつながなければ。
大丈夫だ、最初は戸惑うだろうが、姉は絶対自分を受け入れてくれる。今まで通り、幸せそうに笑ってくれる。いつものようにバカ話して、下らなくて楽しい日常を自分の隣でおくるだろう。
ただ少し、世界が小さくなるだけの話だ。
そう考える自分こそが一番姉にとって危険だと分かっていながらも、覚はもう止める気などなかった。自分の腕の中におさまる姉を想像し、愉しそうに笑った。
鋭い犬歯をみせたその笑みは、飢えた獣が今、口を開いた姿を彷彿させた。