報われない彼の話
「行くのは止めないが、私は行かないよ。行くなら1人で行っとくれ」
「そんな! 春さんも来てくれなきゃ!」
「また私に全部言わせる気だろう。少しは自分で片を付けることも覚えな」
「自分でどうにもならないから春さんに頼んでるのにぃ。後生だから着いてきてよぉ!」
「聞き飽きたよ」
袖を引っ張る千早の手を払うと、千早は頬をふくらませた。今にも小さな子どものように地団駄を踏みそうだ。
「春さんのケチ!」
千早はそう言うと大きな音を立てながら研究室から出て行ってしまった。いつ見ても嵐のような子だ。
それにしても、彼女の所属するゼミの先生に向かってケチとは。
「あの子、ここが学校だってこと忘れてるね……」
また厄介な揉め事を持ってこなきゃいいが。小さくため息をついて、春鷹は机に向かい直したのだった。
小野川千早は春鷹の勤める大学の2年生である。小さな体と可愛らしい見た目を裏切る破天荒さは誰もが知るところである。当然、春鷹も。2人の関係はゼミの学生と先生にとどまらない。千早と春鷹の家は隣同士で、千早は春鷹が高校生の時に生まれた。さすがにおしめを変えてあげたことはないが、まぁそれくらいからの知り合いである。しかし、そんなにも年が離れていたら家が隣だったとしても普通接点はない。普通は。小野川千早は普通ではなかった。17も上の春鷹を「春さん」と呼び、幼稚園生の時から隣の家に押しかけた。その当時大学生だった春鷹は時間に余裕もあって相手をすることが多かった。何が千早の気に入ったのか分からないが、その交流は今でも続いている。
「また小野川が来てたんですか。さっき拗ねてる小野川とすれ違いましたよ。先生、好かれてますねぇ」
「からかうんじゃないよ」
顔をあげないでも相手がにやにやしているのが分かる。千早と同級生の柳だ。彼も春鷹のゼミ生だった。
彼は案の定にやにやしていて、パソコンに向かう春鷹の前にパイプ椅子を引きずってくる。どうやら勉強しに来たわけではないらしい。千早も柳も、あとその他のゼミ生もだが、春鷹の研究室を談話室だと思っている節がある。
「先生ってゲイですか」
柳からなんの脈絡もなくいきなり投げかけられた質問に、飲んでいたコーヒーを吹く。液晶画面に飛んだコーヒーを慌ててハンカチで拭っていると、その様子を見た柳がははぁ、と頷いた。
「図星ですか」
「そんなわけないだろう」
いきなり何言うんだ、と柳を睨むと、彼はだって、と疑わしげに春鷹を見る。
「先生ってもう37歳でしょう。それなのに独身だし、色恋沙汰も聞かないし。見た目も性格も悪いわけじゃないのに」
「余計なお世話だよ」
柳の失礼な発言にはもう慣れた。というか、千早のせいで若者の扱いに慣れざるを得なくなった。
「結婚する気無いんですか? おれのほかにも、先生がゲイなんじゃないかって疑ってる子結構いますよ」
道理で。最近男子生徒と話していると、女子生徒が遠くで騒ぐわけだ。世には男同士の恋愛を好む女子もいると聞く。
大いに結構。ただ自分とは関係ないところでやってくれ。仕事を再開しても、柳は話すのをやめない。
「大体先生はまだ30代なのに、なんていうか、すでに隠居してますって雰囲気なんだよなぁ。仙人って感じ」
仙人って。そのイメージって普通おじいさんだろう。顔には出さないが、ショックは大きい。自分では他の30代となんら変わらない生活をしているつもりである。
その後もぺらぺらと話し続ける柳をそろそろ追い出そうかと思った時、柳が思い出したというように言った。
「そうだ、小野川は? 先生と小野川だったらぴったりですよ」
コーヒーを飲んでいなくて良かった。飲んでたら確実にまた吹いていた。
「なんでまたあの子なんだい。学生に手出せるわけないだろう」
「でも先生と小野川って幼馴染なんでしょう? 王道じゃないですか。小野川だって先生にあんなに懐いてるし。若い子に迫られて先生も悪い気しないでしょう?」
「迫られるって。大体17も年が離れてるんだ、お互いにあり得ないだろう」
「年の差なんて今時あってないようなもんですよ。小野川は先生が好きですよ、きっと」
「お前ね……」
どうあっても私を誰かとくっつけたいのか。しかもよりによって千早。
自分で言ったくせに自分で騒ぎ出す柳をどうにか研究室から追い出して、ソファになだれ込む。なんだかぐっと疲れた。そうして目を閉じていると、柳の言葉が繰り返される。
『小野川は先生が好きですよ、きっと』
あぁ、本当にそうだったらいいのに。
本当にそうだったら、こんなに苦労してない。こんなどうしようもない取り返しのつかないところまで来たりしなかったんだ、きっと。
「あの子が私を好きだったら、他の男に告白するのについて来てくれ、なんて言わないんだよ、馬鹿」




