第5話 守るべきもの
体育祭ではあまり保健の先生に世話にならなかったので、話が思いつきませんでした。ごめんなさい。
体育祭が終わり、残るは文化祭となった10月半ば。窓から見える木々は黄色や赤に染まりつつある。
「…失礼します」
覇気のない声にコーヒーを入れたコップを手に外を眺めていた小埜は振り返る。
「桐原?どうした、顔が真っ青だぞ」
俯きがちの彼女はとぼとぼと小埜のもとにやってくる。
「すいません…あの…」
「早く休養室に行け。誰も使ってないから」
小さな体を支えるように小埜が肩に手を回す。
「…ごめんなさい。今月はもう、来ちゃ駄目だったのに」
「体調が悪い奴を追い出すわけにいかないだろ。俺が校長に叱られる」
「でも約束は約束だから。ちゃんと、しないと」
横になって悔しそうな未亜を小埜は笑って見つめる。
「余計な所で義理堅いよな、お前は」
「余計って酷くないですか」
未亜は唇を尖らせて小埜の手をぴしゃりと叩く。
「何すんだよ。ぐちぐち言ってないで、今は休むことに集中しろ」
前髪をくしゃりと撫で、小埜はカーテンを閉めて休養室から出ようとする。
「小埜先生」
「何だ」
「眠るまで、側にいて」
「…餓鬼かお前は」
小埜は閉められたカーテンから再び姿を現す。じいっと見続ける未亜に根負けしたのか、小埜は丸椅子を引っ張り出してベッドの側に腰掛けた。
「ったくしょうがない奴だな。ほら、これでいいのか?」
つまらなさそうに頬杖をついて未亜の手を握る。
「小埜先生の手って、花ちゃん先生と違って冷たいですよね」
「俺の手に文句でもあるのか」
「違います。そうじゃなくて…」
ぎゅっと手を握ってくるのを小埜はそのままにしておいた。
「……小埜先生は寝る時、何を考えています?」
「別に。何も考えてなんかいない」
目を閉じたままいきなり尋ねてきた未亜に動揺することもなく、小埜は淡々と答える。
「小埜先生らしいですね」
寂しげに微笑む未亜。
「じゃあ何だ。お前は今日はどこどこの株価がどうのこうのっていちいち反芻してから寝るのか」
興味のなさそうな口調の小埜。
笑みをたたえていた未亜の口元が、真一文字に切り替わる。
「明日なんか来なければいい」
ひどく冷めた、吐き捨てるような言葉に小埜が僅かに反応した。そのことに気づいていない未亜は続ける。
「今日は楽しかった。でも明日は?明日になって学校に行っても、今日みたいに笑いかけてくれるかな、話しかけてくれるかな?そう考え出すと切りが無くなって、怖くなる」
蓮実たちがいるこの世界を味わって抜け出すことができなくて、また排除されるのではないかと怯えを感じる
「明日から逃げたいと考えてしまうの。…私は、弱い人間なんだ」
皆守ろうとしてくれているのに、私はこの世界からまだ目を背けている。一筋の雫が頬を伝うのを自覚した時、そっと目にひんやりとしたものが押し当てられた。
「お前は弱くなんかない。生きるということは絶えず何かと戦うことだ。お前は今も戦い続けているじゃないか」
嗚咽を漏らし始めた未亜の手を緩く握り返す。
「桐原、お前は強い人間だ。俺が保障する」
白衣の袖で濡れた頬を拭いてやる。
「だから今はゆっくり休め」
「ありが、と…せんせ…」
穏やかな表情で眠りについた未亜を、静かに見守る。
こんな小さな体で、多くの傷を抱えてきた。こいつは傷ついて飛べない小鳥だ。今は歩くことしかできない、か弱き生き物
誰かが守ってやらなければならない
でも、誰がこいつの体も心も守ってやれるのだろうか
手触りのいい未亜の髪を弄びながら、小埜はぼんやりと考えていた。
「本当にもう大丈夫なのか?」
制服を整えている未亜に尋ねた小埜はまだ不安そうだ。
「平気です。十分寝ましたから」
「顔色がまだ悪い。今日はもう早退した方が良いんじゃないのか?」
「文化祭の準備があるから早く行かないと」
聞く耳を持たない未亜を小埜が肩に手を置いて引き止める。
「待て。午後の準備中、俺は校内を見回る。その時にきつそうだと思ったら連れて帰るからな」
「…はい。失礼しました」
覚束ない足取りで保健室から出て行く未亜を、小埜はため息と共に見送る。
「…全く、変なところで頑張りやがって」
溜まっている仕事を終わらせて早く見回りに行こうと、作業机に向かった。
「坂本。資料室に段ボール取りに行ってくれないか?」
「何よもう。あたし今手が離せないの」
忙しそうな蓮実を見かねた未亜が立ち上がる。
「私が行くよ。ちょうど看板仕上げたところだし」
「そうか?じゃあ頼む。適当に3箱、潰したやつでいいから」
「分かった」
未亜は教室を抜け、階段を上って3階の資料室に向かう。段ボールを3箱分重ねて持ち、お盆のようにして運ぶ。1階の教室までは階段をだいぶ下りなければならず、段ボールが段差を把握できなくしていた。
気をつけて行かないと
慎重に1段ずつ降りていき、脳がその振動に慣れた頃
「あっ…!」
眩暈がして段差を踏み外した。しかも運が悪いことに、踊り場までかなりの段差がある。
落ちる。
その3文字が浮かび上がったときには既に体が宙にあった。
「桐原!」
ぎゅっと目を閉じると焦りを帯びた声が聞こえたような気がした。鈍い衝撃とともに何かに受け止められる。それでも落下は続き、その何かをカバーにして床に叩きつけられた。
そっと目を開けた未亜は息を呑む。未亜の下敷きになっているのは、真っ白な白衣――を着た小埜だった。ダテ眼鏡は割れて大分離れた所に落ちている。落ちてくる未亜を安全に受け止めるために眼鏡を投げ捨てた結果、壁に直撃して割れたのだ。
「…小埜、先生?」
ぴくりとも動かない小埜を未亜は覗き込む。未亜が持っていた段ボールは階段の上のほうで散らばっていた。
騒ぎを聞きつけた生徒や教師が集まってくる。
どうして何も言わないの
どうして起き上がって「いい加減にしろよ、この間抜け」とか言ってくれないの
目を閉じたままの小埜の体を震える手で叩く。
「…うそでしょ。ねえ、目を開けて。小埜先生!」
悲痛な叫びが、階段の踊り場に反響していた。
深刻な顔をした権田が静かにドアを開けて中に入る。
「桐原。もう帰るぞ」
ベッド脇の椅子に腰掛けている未亜は俯いたまま微動だにしない。
「ご両親も心配している」
まるで壊れた人形のように無表情で覇気の無い未亜。痺れを切らした権田は未亜の肩を掴んで引き寄せた。
「いい加減にし…」
いつもは気力のない瞳が強い意志を秘めたもので、思わず権田でさえもたじろいだ。苦いため息をついて小さな肩を軽く叩く。
「もう帰ろう。第一、お前にはどうすることもできんだろう」
「いやです。そばにいます」
権田の手を振り払った未亜は眠り続ける小埜を見守る。毛布から出ている手に触れるとひんやりとしていた。自分の体温を分けるように強く握る。
さっき、権田と担当医の先生が廊下で話していた内容を思い返す。
小埜先生には家族がいない。両親も、兄弟も、親戚も、恋人も
小埜先生は独り
誰が先生のそばにいてあげられるの?
誰が先生のことを心配して、大切に想ってあげられるの?
「小埜先生を独りにしたくない。そばにいたい」
「…勝手にしろ」
病院内で荒療治に出るわけにもいかず、権田は諦めて病室を出た。
ランプに照らされた小埜の寝顔を眺めていた未亜は、流れてきた涙を拭った。
「…小埜先生は、どんだけ馬鹿なんですか。私なんかの為に、ここまでするなんて」
お医者さんの説明によると先生は私を庇った際に真後ろに倒れこみ、床に強く頭をぶつけてしまったようだ。念のために脳に異常がないか検査してもらったが、どこにも損傷はなかった。お医者さんは「丈夫な方ですね」と感心していたけれど、意識が戻るのはいつなのかは分からないと知らされた。
暗い病室の中、そばにいる小埜が遠く感じられる。
「起きて、小埜先生。何でも言うこと聞くから、もう逆らったりしないから、私を置いてかないで」
泣きながらすがりつく未亜は小埜の瞼が僅かに動いたことに気づかなかった。
「遠くに行かないで…」
「……おい、勝手に殺すな」
地獄の底から這い上がってきたような低い声に、未亜は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。
「ひぎっ」
しゃっくりと悲鳴が合わさった奇声を上げた未亜の頭を、小埜がくしゃりと撫でる。
「また泣いてるのか」
困ったような表情で未亜の目元を拭い、濡れた頬を手のひらで拭き取る。
「…全く、これだからお前を放っておけないんだ」
「もうダメかと、思った」
「阿呆。脳震盪起こしてただけだ。にしても、復活するのにだいぶかかったな。昔は30分で済んだのに…年の所為か」
ぶつぶつ言いながら考え込む小埜に、未亜は圧し掛かって抱きついた。
「重い」
引き離そうとした小埜の腕を、未亜が握った拳で殴る。
「痛いって」
「…どうして。どうして庇ったの。何で小埜先生が怪我しなくちゃいけないの」
未亜の拳を握り返して止めた小埜はしかめ面をする。
「あのな、生徒が危険な目に遭いそうなのを教師は黙って見てろとでも言うのか。仮にお前じゃなくても、俺は助けたからな」
至近距離で見つめ合う状況でいることに今更気づいたのか、小埜はさり気なく上体を起こす。未亜は大人しく離れ、椅子に腰掛けた。
「だからお前が気にすることじゃない。それに鉄パイプやら金属バットやらで何百回と殴られるよりかは、こっちの方がまだマシだ」
「…喩えが元ヤンらしいですね」
いつもの皮肉が返ってきて満足げな小埜は、伸びをしながら欠伸をする。
「五月蝿いよ。今何時だ」
携帯を開いた未亜は時間を確認する。
「八時です」
「もうそんな時間か。帰る」
「え?帰るってどこに」
毛布をのけてベッドから降りようとする小埜に未亜が首を傾げた。
「家に決まってるだろ」
当然だとでも言うような態度に未亜は慌てて小埜をベッドに戻そうとする。
「何を気違いなこと言ってるんですか。まだ安静にしてなきゃいけ…」
「もう大丈夫だ」
するりと未亜の妨害をかわし、ハンガーに掛けられた白衣を手に持った。
「ダメです」
ドアの前を塞ぐ未亜を小埜が見下ろす。
「どけよ」
「どきません!」
未亜の背後でドアが開き、権田が姿を現した。
「桐原、声がでかい。ここは病院だぞ」
いい所に来た
「先生、小埜先生を止めて下さい。帰るって聞かないんです」
「何?」
困り果てた様子の未亜の後ろに視線を移した権田は安堵の息をついた。
「小埜先生、目が覚めたのか。良かった良かった」
「ええ。ご迷惑をお掛けしました」
そのまま小埜が病室から出て行こうとするのを、満面の笑顔の権田が腕を掴んで引き止める。
「いやいや。今日は大事を取って入院することに決まったんだ。大人しくしてもらわないと」
「いえ、入院は必要有りません。僕は今から桐原を家まで送りますので」
「だから私のことはいいって」
詰め寄る未亜の手を取り、小埜は頑強な権田の腕を痛めない程度に振り払った。
「行くぞ」
「ちょっと、引っ張らないで…!」
「ですから担当の先生には問題ありませんとお伝えして下さい」
有無を言わせない笑みに圧された権田は素早くドア前から退く。
「お、おう。分かった」
「ありがとうございます。では、お疲れさまでした」
爽やかな小埜の笑顔と険しい顔をした未亜が非対称的過ぎる。
「離してよ小埜先生!」
喚く未亜を気にもせず、小埜は犬を引きずる飼い主のごとく歩き続けた。
「……若い奴はいいなあ」
1人残された権田は毛の無い頭を無意識に撫でて、羨ましそうに呟いていた。
「桐原、怖い顔して俺を見るな。運転に集中できない」
さっきから痛いほどの視線を投げ続ける元凶に目をやると、かなり怒った様子の未亜がいた。
「…どうするんです。こんなことして」
「だから何ともないって言って、」
前を見据えたまま答えようとした小埜を遮って未亜が口を開く。
「小埜先生の眼鏡がダテだってことがタコ先にばれちゃいましたよ!」
「…は?」
「どうするんです、もう!せっかく小埜先生が賢く、冷血に、近寄りがたく思わせるような眼鏡設定が、ただのお洒落キャラに…完全崩壊しちゃうじゃないですか!」
小埜は何も言わずに道路の端に車を停めた。窓から外を見るとただの空き地だ。
「小埜先生?ここ私の家じゃないです」
やっぱり頭打っておかしくなったんじゃ
心配になった未亜が小埜を振り返ると
「…お前な、何の心配してるのかと思えば。眼鏡かよ。馬鹿じゃないのか…!」
口を手で押さえているが、堪え切れていない。肩が震えているのは気のせいではない。上戸に入ったようだ。
「もう、笑いごとじゃないですよ!小埜先生がダテ眼鏡だなんて皆に知られたら、私が困るんです!」
笑いすぎて涙を滲ませている小埜は腹を抱えたまま首を傾げた。
「お前が?何でだよ」
怒りも相乗して興奮気味の未亜は思いのままぶちまけだす。
「だって小埜先生を狙ってる子なんて沢山いるし、可愛い子も綺麗な子も、先生の新たな一面に萌えてしまうかも…!」
「萌えるわけないだろ」
「そんなことになったら私…」
「…桐原?」
言葉を切って俯いてしまった未亜を、小埜が覗き込もうとした。すると更に顔を俯けて
「…小埜先生のそばにいられなくなる」
何だこいつは。上がったり下がったり、忙しい奴だ
心の中で苦笑するだけに止めて小埜は小さな頭を少し乱暴に撫でてやる。
「とにかく怪我がなくて良かった。お前を独りにしておくとろくなことにならないと身に染みて分かったから。だから俺の目の届く所にいろ」
「過保護ですよ、小埜先生」
照れくさそうでいて嬉しそうな声に、全く単純な奴だと思う。
こういうのが詐欺に遭いやすいんだ
「お前が抜け過ぎなんだよ」
車を発進させた小埜の横顔を眺めていた未亜は、窓の外の景色に目を移した。
「…頑張ります。先生が安心できるように、私はもっと大人になるから。いつか、ひとりでも生きられるように」
静かな口調で言った未亜に小埜は言葉を飲み込んだ。
ひとりになるな。俺のそばにずっといろ
そう言ってしまったら何かが変わってしまうような気がして、小埜は何も言わずに運転に集中した。
「未亜、あなた大丈夫な…あら」
パタパタと玄関に駆けてきた、未亜と同じ髪色の女性は娘の隣にいる小埜を見て驚いた声を上げた。小埜は頭を下げて、教師らしいスマイルを顔に貼り付ける。
「夜分遅くに申し訳ありません。私は華里大学付属高校の養護教諭を務めている小埜と申します。本日は桐原、いえ未亜さん――」
いきなり名前を呼ばれた未亜は思わず小埜の方を見る。だが小埜は気にした様子も無く、未亜の母親に説明を続けた。
「そういうことでしたか。すいません、娘がご迷惑をお掛けしてしまって…」
母が頭を下げて謝罪するのに倣って未亜も頭を下げた。
「いえ。具合の悪い彼女を準備に行かせてしまった私にも問題があったんです。配慮が足りませんでした」
「いえそんな、小埜先生にはお世話になってばかりで。いつも娘からよく聞いています」
「は?」
素が出かけた小埜は咳払いをして、未亜の母親にもう一度頭を下げた。
「長々と失礼しました。未亜さんをゆっくり休ませてあげて下さい」
「はい。ありがとうございました」
玄関から出る一瞬前、小埜は未亜に視線を向けた。
〈明日、覚えてろ〉
気付かない振りをして手を振った。
「小埜先生、お休みなさい」
また明日
小埜先生は石頭なんですよ、きっと。
喧嘩している時もよく頭突きしてたんでしょうね、多分。




