第3話 変わらない
あの騒動から週末を挟んで2、3日が経った。生徒たちは体育祭や文化祭の準備に本格的に取り掛かり始めている。当然、怪我人も続出するものだ。
この時期、養護教諭は怪我の手当てやら事務作業やらに追われて忙しい。
「ったくどいつもこいつも浮かれやがって。これだから餓鬼は……」
ぶつぶつ言いながら剣呑な雰囲気を醸しだしている小埜は、憩いの場である保健室と全く似合っていない。
そこに遠慮がちにドアを開ける音がし、ガーゼや包帯の補充をしていた小埜はこれ以上ないほどの仏頂面で振り返った。
「…何だ、お前か」
栗色の髪をシュシュで1つにまとめた未亜が、ドアから顔だけを出して立っていた。
「こんにちは、小埜先生。いきなりですが絆創膏貸してくれませんか?」
えへ、と邪気の無い笑顔を送ってくる。その表情に陰りは見られなかった。
「絆創膏?何だ、怪我でもしたのか。俺に見せてみろ」
歩み寄ろうとする小埜に焦った未亜はドアに隠れる。
「おおっと。別に大したことないんです。いいから絆創膏ください」
「馬鹿、傷口を消毒しないと雑菌が繁殖して化膿するんだ。かくれんぼなんかしてないで、さっさと来い」
「いいって言ってるじゃ、わわっ」
小埜は保健室に入りたがらない未亜の腕を無理やり引いて椅子に座らせた。なおも立ち上がろうとする未亜に、すかさず小埜がその頭を上から押さえる。
「ちょっと。身長縮んじゃうから止めて下さい」
頭を振って訴える未亜に気も留めず、小埜はしゃがんで血の滲む膝を見る。
「転んだのか。全く、ぼけぼけした顔をしているからこうなるんだ」
「私の顔はぼけぼけしてません。頭がぼけぼけしてるんです」
「ああそうだったな。お前の前世はカピバラだ。今ガーゼと消毒液を持ってくるから、タイツ脱いで待ってろ」
「カピバラって…。はいはい分かりましたよ」
戻ってきた小埜は手際よく傷口を洗い、消毒液を含ませた綿をピンセットで摘まんであてる。
「いっ、いたい!」
「当たり前だ。じっとしてろ」
しゅわしゅわと泡が出る傷口を口をへの字にして見ている未亜に微かに微笑む。
怪我をした餓鬼を治療してる気分だ
消毒をした後は薬を適量塗り、ガーゼで傷口を保護してテープで固定する。
「これでよし、と。他に怪我はないのか?」
「手、少し擦りむいた」
ぎこちなく開いてみせた小さな手のひらに、無数の傷があった。
「おい、これ少しなんてもんじゃないだろう。血が出てるじゃないか。ほら、手も消毒するぞ」
「ひぎゃっ」
「すぐ終わるから我慢しろ」
情けない悲鳴を上げる未亜を叱咤しながら、小埜は手当てを終えた。
「タイツ破けちゃいました。まだ新しかったのに」
未亜は破けたタイツを残念そうに見ている。
「当たり前だ。捻ったりはしなかった、ようだな」
小埜は未亜の足を持ち上げて動かしてみたり、痣がないか検分する。タイツを弄んでいた未亜は顔を上げる。
「小埜先生、体操服の長ズボン貸して」
「長ズボンなんかどうするんだ」
「…脚出したくないんです。見苦しいから」
「どこが見苦しいんだ。おっちょこちょいな怪我を除けば、綺麗な脚じゃないか」
そう言って未亜の小鹿のような脚を見る。未亜は顔を赤らめて小埜を睨みつけた。
「…今の発言、セクハラで訴えますよ」
「俺はただ客観的な感想を述べたまでだ。他意はない」
呑気に欠伸をしながら言われて、一気に気が抜ける。
「もういいです。神城くんに借りますから。じゃ」
「おい待て」
上履きを履いて立ち上がろうとした未亜を小埜が頭に手を乗せて遮る。
「だから縮むから止めてって」
「何でそこで神城が出てくるんだ」
「なんでって。蓮実は今日陸上の練習無いし、芹河くんのは大きすぎるから。神城くんしかいないんです」
「だからって何で男子の…」
小埜は途中で言葉を切り、息をついて立ち上がった。
「分かった。今持ってくるから。ちょっと待ってろ」
「…これ、学校の体操服じゃないですけど」
渡されたのは黒色の男のジャージ。明らかに学校指定のものではない。怪訝そうな顔をする未亜を横目で見た小埜は自分の椅子に腰掛けた。
「俺のだ。生憎長ズボンの予備が無くてな。裾は折り曲げて、腰は紐で縛ればいいだろ。今日はそれで我慢しろ。靴下は?」
「持ってません」
「だと思った。これでもはいてろ」
放るように渡された袋を受け取ると中に入っていたのは奇妙なパンダの刺繍が施された紺色の靴下が二足分。
「ミイラパンダの靴下!これどうしたんですか?」
「別に。この前お前が早退した後に、坂本がいきなりやって来てな。お前の好きなキャラはこの変てこなパンダなんだと、なんか自慢するみたいに延々と聞かされた。それとあんたには負けない的なことを言われた」
「…蓮実は何してるんだか。でもですよ、それでどうして私に靴下を?」
複雑そうな表情の小埜は引き出しからハサミを取り出して未亜に手渡す。
「いいから怪我が治るまではそれをはいてろ。タイツだと衛生的に良くないんだ。ちょうど良かったじゃないか」
「ふむ。ありがとうございます。えっと、だったらこのジャージは…」
「怪我が気になるんだったら穿いてればいい。ガーゼとか白いから目につくしな」
「ですね。お言葉に甘えてお借りします。洗濯して明日返しますから」
真新しい靴下をはいた未亜は足をぶらぶらさせて嬉しそうに笑う。小埜はその小さな頭を乱暴に撫でた。
「ああ。それと風呂に入ったら、ちゃんと消毒してガーゼを替えろよ」
「了解です。じゃあ失礼しました」
小埜のジャージを手に、未亜は保健室を出ていった。
「未亜、そのジャージどうしたの?」
戻ってきた未亜が抱えていたものに、おにぎりを頬張っていた蓮実が尋ねる。
「小埜先生が貸してくれた」
「え、あの陰険眼鏡が?何だかんだ言って未亜に親切にするなんて、もしかしてあんたに気が…!」
おにぎり片手にそんな話をされても。具が出かけてるし
「そんなわけないでしょ。ただ気を遣ってくれてるだけだよ」
自分の席について机に置いたジャージからは、ふわりと消毒液の匂いがした。
なんか安心する
ふと、ジャージのポケットに何かが入っていることに気づいた。
何だろう?
探って取り出すとミイラパンダの飴がいくつも出てきた。
「未亜?」
1人で笑い始めた未亜を、蓮実が不審そうに見る。
「ううん、何でもない」
子供のような悪戯というか、お医者さんが治療に耐えた子供に与えるご褒美というか。
そんな可愛い飴たちを、そっと鞄の中に大切にしまった。
翌日。何だかんだ時間が無かった未亜は放課後、洗濯をしたジャージを抱えて保健室に向かった。
「すいません。ジャージを返しに…って。小埜先生いない」
きょろきょろと辺りを見回すが休養室にもいないようだ。
「白衣が出しっぱなし。ということはまだ帰ってないよね」
椅子に無造作に掛けられた白衣を見ていた未亜は、事務机の上にあるA4サイズの茶色の封筒に目をやる。
「何だろ」
何気なく手に取った封筒の裏には、差出人の記載があった。
〈児童養護施設 ひかりの里 局長 天月繁〉
未亜はその封筒を無言で机に叩きつけた。
まただ。また除け者にされるんだ
頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。ここにいたくない。先生に会いたくない
持っていたジャージを封筒の上に押しやり、未亜はドアに駆け寄って力任せに引いた。ちょうど保健室に入ろうとしていた小埜と正面からぶつかる。
「なんだお前か。いきなり出てきやがって」
面倒くさそうな声が頭上から降ってきた。未亜はスカートをきつく握り締める。
そのことに気づいていない小埜は未亜の細い肩を掴んだ。
「怪我の具合はどうだ?」
「……て」
俯いたままの未亜から低い声が漏れてくる。
「何?」
「離して!」
聞き返した小埜を、顔を上げた未亜がきっと睨みつけた。無理やり出て行こうとする未亜を保健室に押し止めて、後ろ手に鍵を閉める。
「待て。何があった」
腕を振り払い続ける未亜を止めようと両方の手首を掴んで引き寄せた。
「いや!離してよ!」
未亜は髪を揺らしながら首を振る。
「おい暴れるなって…桐原!」
少々手荒に未亜の顎を上に向けさせる。小埜は目を見張った。
未亜の瞳が絶望に染められている。
「あれ…」
「あれ?」
首を傾げた小埜は未亜が指さした方向に顔を向ける。ジャージしか見えていないが、その下にあるはずの物を思い出して顔色を変えた。
「あれは違う。お前には関係ないことだ」
抑えたような声に、未亜は眉根を寄せて激しく首を振る。
「嘘つき!小埜先生も私を可哀想な人間だと思ってた!疎ましく思ってたんだ!」
「違う」
「先生はそうじゃないと思ってた。ちゃんと私を見てくれてるって信じてたのに。私の居場所はここにも無いんだ!」
「違うって言ってるだろ!あれは俺個人に送られてきたやつだ!」
言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。
「え…」
それって、私のじゃないってこと?
「お前の居場所は、ちゃんとある」
床に座り込んでしまった未亜の頭を、そばにしゃがみ込んだ小埜が撫でる。
それからしばらく無言が続いた。その沈黙を破ったのは小埜だ。
「…無いのは、俺だ」
悲しそうで辛そうな呟き。未亜は弾かれたように顔を上げた。今度は小埜が俯いていた。
「…お前を見てると時々逃げたくなる。お前のそばにいると自分がいかに下らなくて最低な人間なのかを痛感させられるんだ」
「そんなの違います。小埜先生は最低な人なんかじゃ…」
「今の俺しか知らないからそう言えるんだ。お前は俺がどんな奴か――」
言葉を切った小埜は苛立ち紛れに頭を掻きむしる。
そんな小埜を見ていた未亜は、そっと小埜の冷たい手に自分の手を重ねた。
「確かに、私は先生のことを何も知らない。けど、それが何だっていうの。私は今、目の前にいる先生を見ているんです。昔と今の自分が違うのは当然のことじゃないですか。それを認めてあげないと、いつまでたっても変われない。前に進めない」
小埜は黙ったままだ。
ふと思い返して、出すぎた真似をしたと未亜は苦笑する。
「…なんて、私が言えた立場じゃありませんでしたね。ジャージ、ありがとうございました。失礼します」
そう告げて立ち上がろうとした未亜を、座っていた小埜が腕を掴んで引き止めた。
「小埜先生?」
夕日が逆光となっている所為で表情が分からない。
泣いてるの?
微かに肩が震えているのに気づいた未亜は膝立ちになって、真正面から小埜を抱き締めた。
先生が小さく見える
「泣かないで、先生」
「…泣いてなんかない」
「私は何も聞きません。先生の気が済むまで、どうぞ」
優しい声色に小埜は腕を小さな背中に回した。
「お前には変わってほしくない」
「あのですね。私だって大人になるんですから、変わらざるを得ないと思います」
「変わるな」
まるで駄々っ子だ。未亜は口元に笑みを浮かべ、眩しい夕日に目を細めた。
「はいはい。変わりませんよ。何を知っても、聞いても。私の目に映る先生が先生である限り」
間を空けて小埜が呟く。
確かめてみたかった。本当に変わらないのかどうか
「俺が不良だったとしてもか」
「不良?先生がですか?」
驚いた声を上げた未亜を離すまいと、ぎゅっと抱き締める。
「…そうだ。中学の時の俺は、不良グループのリーダーだった」
未亜は小埜の腕の中から出ようと動き始めた。
やっぱりな
無性に悲しい気持ちになったが、やむなく小埜は拘束を解く。制服のジャケットの裾を整える未亜から目を逸らしていると
「そっか。前から思ってたけど、小埜先生って強いですもんね」
は?
しみじみとしている未亜を思わず凝視した。制服を整え終えた未亜は正座をして小埜を尊敬の眼差しで見上げる。
「不良グループのリーダーってすごいじゃないですか!小埜先生が一番強いんでしょ?」
いや、確かにそうだけど違うだろ
心の中で突っ込みを入れていた小埜は耐え切れずに吹き出した。
「え、なに?今度は笑ってる」
何か変なものでも食べたんじゃないか。心配になった未亜が笑い続けている小埜の顔を覗き込もうとすると
「ぶっ」
顔面が小埜の胸のあたりに直撃する。いきなり頭を掴まれたと思ったらこうなったのだ。
「ちょっと、急に何す…」
「お前は…少年漫画の読み過ぎだ」
未亜は小埜の様子が変わったことに気づいた。背負っていた重荷が少しは軽くなったのだろうか。
「…もう少し。このままでいてくれ」
「はい。了解です」
大人しく腕の中に収まる未亜の体温を、小埜はかけがえのない物に感じていた。だから、つい言ってしまったんだと思う。
「お前はお前のままでいてくれよ」
それを聞いた瞬間、未亜の瞳が僅かに曇ったことを小埜は知らなかった。
――先生、それは無理だよ




