序章 出会った夏
教室という、箱みたいな、閉塞した空間が嫌い。30人の人間と同じ四角い箱の中に閉じ込められて、呼吸がしづらく感じる。
まるで、私の周りから酸素が無くなってしまったかのよう。
毎日続く平凡とした光景。先生たちは将来役に立つか分からない記号だらけの公式や文字の集まりを黒板に書いている。
私はただそれらをノートに書き写すだけ。
でも、もう限界
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。私は机の上の筆箱や教科書、ノートを引き出しの中にしまってのろりと席を立った。
「未亜、また行くの?」
後ろの席の友人は、読んでいた漫画から顔を上げて問いかける。
「うん。先生に言っておいてくれる?」
「分かった。行っておいで」
快活な笑みを浮かべてひらひらと手を振る友人に、私は頷いて教室を出た。向かう先は決まっている。足取りに迷いはない。時折、笑い声のする賑やかな教室を横目で見ては、視線を前に戻して黙々と歩く。中庭の緑が青々と太陽の光を浴びて私の目を刺した。蝉の鳴き声が耳につく。
私は目的地に辿り着き、ドアを引く。
「失礼します」
こんなやり取りでさえも日常的なものに感じる私は、どうかしているのだろうか
でも、私はまだ知らなかった
生きることがこんなにも苦しくて辛くて悲しくて、そしてすごく楽しいものなんだということを
あなたに教えられた大切なこと
あなたと出会って、あなたを知って、セピア色だった世界が眩しいほどの色鮮やかなものになった
先生と過ごしたあの日々を、私は一生忘れない
真夏の8月の全校登校日。
蒸し蒸しした体育館で行われた就任式で、初めて先生と出会った。
「この度、産休に入られた養護教諭の花岡先生の代理として赴任した小埜です。花岡先生が戻られるまでの間、よろしくお願いします」
女子生徒がざわめいているのは壇上に立っている彼の容姿のせいだろう。
切れ長の目にすっと通った鼻筋。暑いのにも関わらず、汗一つかいていないのではと思わせるほどの白い肌。形のいい顎に薄い唇。
典型的に言う、ルックスがいい男だ。
困る
どうして養護教諭に男なの
全校生徒の内の一人である桐原未亜は起立したままで後ろに組んだ手を弄びながら考える。
あの人が保健室にいるとなると多くの女子生徒が詰め寄ってくるではないか
そうなれば、私の憩いの場が潰されてしまう
「それと生徒の皆さんに忠告しておきますが、大した用も無いのに保健室に来ることは許しません」
切り捨てるように言う彼は眼鏡の効果も相乗してより冷たい印象を与えた。
女子生徒のざわめきが違うものに変わる。私は床の消えかけた線を見ることを止めて壇上の彼を見上げる。
彼はやる気のなさそうな声で、こう宣告した。
「私はただの養護教諭です。怪我、疾病以外のことでは私に関わらないように。以上です」
隣にいた教頭先生に頭を下げて彼は白衣の裾を翻らせて壇上から降りた。
「ねえ未亜、どうするの?」
後ろにいる友人が耳打ちをしてきた。
「どうするって何を」
「何をって、もう保健室に行けなくなるじゃない。大丈夫なの?」
そう。事態は由々しき状況になってしまった
「お願いだから学校には来てよ。あたしは未亜がいないと困るんだから」
「…それって、ただ蓮実が早弁できなくなるからでしょ」
「薄情者め。私から早弁を奪う気なの」
食いしん坊の友人、坂本蓮実は未亜の両肩を掴んで揺さぶる。
「もう、眩暈がするから止めてよ、って何笑ってるの。神城くん、芹河くん」
未亜は自分の両隣に立つ男子二人を交互に睨む。
「だって、お前らの友情って早弁で成り立ってんのかよ」
右で忍び笑いをしているのは、黒髪ではっきりとした目鼻立ちをした神城圭。
「坂本は早弁をしに学校に来ているのか?女子としてどうなんだ、それ」
左で呆れたように笑っているのは、がっしりした体躯の大男、芹河剛。
「うるさいわね。あたしの早弁のことは放っておいて」
蓮実は男子二人に噛み付くように言う。
「はいはい。それより桐原、どうすんの?なかなか手強いのが来たよな。俺がなんとかしてやろうか?」
「圭、教師を力で脅すのは止めろ。正直に、あの先生に話してみたらどうだ?なんだったら俺が一緒に行くぞ」
親切過ぎる男子二人に未亜は苦笑する。今までもこうやって助けられてきた。
「ありがとう。でもいいよ。今まで甘えすぎたのかも」
「なんて健気な子!未亜は花岡先生のいる保健室がお気に入りだったものね。その代わりに来たのがあんな陰険そうな眼鏡だなんて」
「陰険そうな眼鏡って。眼鏡に罪はないだろ」
神城は蓮実を振り返って笑う。
「眼鏡がアイデンティティーみたいな言い方は止めろ。先生に失礼だろう」
芹河は咎めるような視線を蓮実に向ける。
「とにかくあたしは未亜に学校に来てほしいの。未亜がいないとつまんない」
後ろからぎゅっと抱き締められて、未亜は苦しいと呻くが蓮実はお構いなしだ。
「あ。タコ先こっち見た」
神城の呟きの後、スキンヘッドの権田、通称タコ先の怒声が響き渡る。
「こら坂本、芹河、ちゃんと話を聞け!あと神城、今お前何て言った!?」
茹蛸のようになっている権田に、未亜は吹き出す。
「桐原、何を笑ってる!全くお前は――!聞いているのか、この無気力系女子!」
久し振りに心から笑えた
タコ先に大目玉を食らってしまったけれど、楽しかったからまあいっか
担任の教師に叱られているのに3年生の列に並んでいる女子生徒は可笑しそうにしている。そのうち権田教師は神城という男子生徒の首根っこを掴み、体育館から連れ出してしまった。
「全く、姉弟揃ってこうとは!呆れてものも言えんわ、ばかみしろ!」
「ちょっと姉ちゃんの話は勘弁してよ。また進路指導室で姉ちゃんの武勇伝を延々と聞かされるわけ?」
「いいから黙ってついて来い!」
騒がしい二人の声が聞こえなくなった頃、全校集会は終わった。寄せられる女子生徒たちの視線を無視し続けていると、明らかに違う念の込められた視線を感じた。
元凶はさっき騒いでいた4人組のひとり。敵意を隠そうともしない度胸の大きさには感心する。
「陰険眼鏡…」
「声に出てる。教室に戻るよ、蓮実」
ガンを飛ばし続ける友人の腕を引いて歩き出す女子生徒に目を向ける。と、目が合った。
小鹿のような瞳に栗色のふわふわした髪。そして全体的に小さい。
小動物みたいだな、と思っていると彼女は目を逸らして去って行った。真夏の暑い日なのに長袖のブラウスに黒いタイツをはいている。
それにあの瞳――
まあ、どうでもいい
小埜は保健室に戻ろうと白衣のポケットに手を突っ込んで歩き出した。
明日からはまた、夏休みだ
高校生だった時、私も保健室によく行っていました。思い返すとあの空間が好きだったんでしょうね。
読んで下さった方々、ありがとうございました。
まだ続きます。