第二百四章外伝 封印の巫女
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……したので活動報告を更新しました
今回の話は過去編ですが、一応前話からの流れでつながっている感じです
なんか、まあ、見て分かる通り久しくなかった長さですが、読み飛ばすと次以降の話が分からなくなると思うのでご注意を
潮の香りを含んだ風が、小高い丘を吹き抜ける。
風のそよぐその丘に、彼女は独り立っていた。
「あぁ……」
風に、乗せるように。
あるいは風に、紛らせるように。
少女の小さな口から、悲哀と諦念とが混じった吐息が漏れる。
――儚げな、少女だった。
触れただけで、たちまちに手折られてしまいそうな細くて白い手足。
癖のない真っ直ぐな黒髪はたやすく風になびき、その長い髪と同色の、けれどもより深い闇を宿した黒瞳には、物憂げな気配がにじむ。
まるで、この世界に独り、たった一人で放り出されたように所在なさげな少女は、風に揺れる濡れ羽色の髪をそっと押さえた。
その、反動のように。
憂いを帯びた瞳の下、噛みしめるように閉じられていた唇が、かすかに綻びる。
そこから吐息と共に押さえつけていた本音が抜け出して、ぽつりとこぼれた。
「……働きたく、ないなぁ」
そして、一度口にすると、そこからは早かった。
服が汚れることも考慮せずに勢いよく後ろに倒れ込むと、少女の口から堰を切ったように言葉があふれ出る。
「あーあ。このままずぅっと、何もせずに生きていられたらいいのに。
それができないなら、いっそ……」
逆五体投地のような姿勢で、無防備に丘の上に仰向けに寝そべる少女。
だが彼女のそんな自堕落な姿は、丘の向こうから流れてきた声によって終わりを告げることになった。
「お嬢様ー! どこですか、お嬢様ー!」
その声を聞きつけた少女は、あちゃぁ、と一瞬だけめんどくさそうな顔をして、渋々といった様子で起き上がる。
「お嬢様!」
現れたのは、ガッシリとした体格の壮年の男だった。
潮焼けしたいかつい顔に不釣り合いな穏やかな空気をまとった彼は、安堵した様子で少女に近付いていく。
「……カイウス。お嬢様って呼び方、やめてって言ってるのに」
もう幾度目か分からない文句を口にして、少女はふいっと横を向いた。
わざとらしい仕種ではあったが、実直な守役の男、カイウスは恐縮したように身を縮める。
「すみません。ミティア……お嬢様」
「結局、お嬢様はつけるんだね」
「それは……。ミティアお嬢様は次代の巫女様で、自分はその守役ですから」
四角張った男の台詞に、少女、ミティアは肩をすくめるに留めた。
「いえ、それよりも、です!」
次に抗議の声をあげたのはカイウスの方だった。
興奮をそのまま言葉に乗せ、ミティアに詰め寄っていく。
「ミティアお嬢様! 一人で出歩くのは危ないと何度も申し上げているではありませんか」
守役として、年長者として当然の叱責。
しかし、ミティアはそれでも不服そうな態度を崩さなかった。
「カイウスは、わたしがどこにいても駆けつけて助けてくれるって言ってたのに」
「それは、確かにそのつもりではおります。ですが、自分が離れている間に何かあれば……」
「何か、って。この島に危ないものなんてある訳ないよ」
この島に危険な魔物はおらず、次代の巫女となるミティアに危害を加えようとする人もいない。
それでも守役が、巫女専属の護衛などという役職が存在しているのは、ひとえに巫女がこの島にとって重要な存在だからだ。
「けれども、万一ということもあります!」
「分かった。わたしが、悪かったから。……だからもう、帰ろう?」
ミティアにだってそれは分かっている。
自分たちの一族は、結局のところ巫女とその血を存続させるためだけに存在しているのだ。
それでもこうしていつも文句を言うのは、ただカイウスに甘えているだけだと自覚していた。
「また適当なことを……」
呆れ顔のカイウスを無視して、ミティアは素早くカイウスの後ろに回り込んだ。
「お嬢様?」
いぶかしげな声を上げるカイウスに、ミティアは唇を尖らせるようにして答えた。
「……疲れたから、もう歩けない」
「は?」
「だから、カイウスが、連れてって」
そう言って、ミティアは返事も聞かずに後ろからカイウスの背中にのしかかると、その首に両手を回した。
「……やれやれ。お嬢様は、仕方ないですな」
そうこぼすカイウスの口元は、口調とは裏腹に緩んでいた。
このささやかなワガママが、ひねくれたところのあるこの少女の精一杯の甘え方だと心得ているからだ。
「揺れても、知りませんよ」
「そうしたら、カイウスにひどいことされたってお父様に告げ口するから」
「ははは。それは勘弁してもらいたいですな」
カイウスは軽口をたたきながら背中に手を回すと、力強くミティアの身体を支え、しっかりした足取りで丘を降りていった。
「やっぱり、カイウスって背中大きいよね」
「そうですか? 普通だと思いますが」
おっかなびっくりとした態度でカイウスに背負われて帰路を辿りながら、ミティアは自分を背負う背中を見つめていた。
「でも、わたしよりずっと大きいし」
「お嬢様と比べたら里の男衆の全てが背中が大きいことになりますよ」
和やかな会話の中、ふとカイウスはその口調を変えた。
「……ミティアお嬢様は、おかしな方ですな。
こんな老骨を担ぎ出さなくても、あなたを背負いたがる里の者はたくさんいるでしょうに」
「それ、は……」
そのカイウスの言葉が、口にされたそのままの意味ではないことは、ミティアにも分かった。
二年前、自分の守役としてミティアがカイウスを選んだことの特異さ。
それをカイウスは遠まわしに指摘しているのだ。
一般に、巫女候補が守役に選ぶのは同年代の男性。
それから守役に選んだ人物と結ばれることがほとんどで、実際にミティアの父と母はそれで一緒になった。
だから、自分の守役にカイウスを選んだミティアの選択は、里に少なからぬ動揺を産んだのだ。
ミティアにとって、その選択は特別な必然性があった訳ではない。
いざ自分の守役を決めるという段になって、最初に思い浮かんだ男性が、子供の頃から世話になっていた優しいおじさんの姿だったというだけの話だ。
ただ、今にして振り返れば、母にかかりきりだった父の面影を、彼に求めていたのかも、と心の奥底で思う。
あるいは……。
(わたしはただ、逃げたかっただけかもしれない)
巫女候補にとって、結婚と出産は義務であり、使命だ。
巫女の血を絶やすことは許されない。
ミティアは、本人が望むと望まざるとにかかわらず、いずれは島の誰かと一緒になり、子供を産まなければならない。
父も、そして、壮健だった時の母も、一緒になる相手はあなたの好きなように決めていいと言っていた。
どうせ誰かと結ばれなくてはならないなら、ミティアも自分の相手は自分で選びたい、と思う。
しかし、里の誰かと結婚することも、恋をすることですら、ミティアにとっては現実感がない想像だった。
里の人たちは、決して嫌いではない。
しかし、巫女候補として特別な教育を受けてきたミティアと里の者たちとの接点はほとんどなく。
また、子供の頃から偉大な先祖の話を聞かされて育ち、家の中の少ない蔵書を読んで、物語の英雄を夢想することが唯一の楽しみだったミティアの価値観は、純朴な田舎暮らしを営む彼らとは大いに隔絶していた。
当代の巫女であるナーディアの娘で、次の巫女候補、という厄介な立場ではあっても、ミティアは外見だけなら儚げな美少女だ。
明白な好意を見せてくる相手もいたが、彼女は嬉しく思う前に戸惑いと怯えを感じ、その全てを避けてずっと一人で過ごしてきた。
きっとその時になれば何とかなる。
そう考えて、いや、考えないようにして、先送りにしてきた。
そうして、ついにその時が来て。
壇上に立ち、何かを期待するようなたくさんの男たちの前に晒されたミティアが感じたのは、ただ恐怖だった。
見えると思っていた幸せな未来は何も見えなくて、恐怖と嫌悪だけが胸の奥で膨れ上がった。
代わりにまぶたの裏にちらついたのは、日に日に壊れていく母と、隠れて涙をこぼす厳格なはずの父。
もちろん、守役に決めた相手が、必ず将来の伴侶となる訳ではない。
けれど、これを決めれば自分の将来が決まってしまう。
自分を待つ灰色にくすんだ未来が現実の質量を持ってミティアに襲いかかってくると、そんな風に感じて……。
「――お嬢様?」
呼びかける声に、過去に飛んでいたミティアの心は戻った。
一瞬だけ周りに視線を向け、自分の状況と最前の会話を思い出す。
「……守役をやるの、嫌、だった?」
動揺を見せないように、とミティアが思わず口にした問いかけは、自分でも不思議に思うほど、不安に満ちていた。
「いいえ、まさか。とても光栄に思っていますよ、ミティアお嬢様」
しかし、ミティアの心配は的外れだった。
カイウスはいつも通りの愚直さ、実直さでミティアの問いにすっぱりとした答えを返す。
彼の裏表ない態度に、ミティアは随分と救われたような心地になった。
「ですが、本当に一人で出歩くのはやめてください。
いくら魔物がいないからって、事故に遭う可能性だってゼロじゃないですし、視界の悪いところに入れば道に迷うことだって……」
「……そう、だね。気を付ける」
ミティアはこの心優しい守役に報いるため、自分にできる精一杯の優しい口調で言葉を返した。
……だけど、彼は知らないのだ。
ミティアに限っては、この島で道に迷うなんてことはありえない。
彼女は、頼りになる守役の背中の上で、視線を正面、その少し上に向けた。
そこにはミティアにしか、巫女の素養を持つ者にしか見えない光の柱が、真っ直ぐ天を目がけてどこまでも伸びている。
(あれが『封魔の陣』。わたしが、『ミティア』でなくなる場所)
その威容にミティアは一瞬だけ唇を噛みしめ、すぐに諦めたように目を伏せた。
ミティアがしばらくカイウスの背で揺られ、島唯一の集落が見え始めた頃、カイウスがぽつりと言った。
「暇を、持て余しているのでしたら」
「ん?」
「何か、家で出来る趣味を見つけるというのはどうでしょうか?
例えば、料理や裁縫なども、やってみれば意外と……」
その質問に、ミティアはしばし、逡巡した。
打ち明けていいものか、迷って、だが、答えはすぐに出た。
「あ、あるよ。家でやる趣味なら、もう、ある」
「そう、なのですか?」
「うん。……物語を、書いてる」
「ものがたり、ですか?」
これはまだ誰にも、父にも母にも打ち明けたことのない秘密だった。
もっとも、人見知りの激しいミティアはそもそもカイウス以外にまともに話せる相手がいないのだが。
「それは凄いですな!」
「そ、そう、かな? 変じゃ、ない?」
「いいえ! 素晴らしい趣味だと思います!
それで、お嬢様はどのようなお話を書いていらっしゃるのですか?」
初めての賛同者を得て、ミティアは俄然勢いづいた。
普段の気弱げな雰囲気を感じさせない勢いで、一息に話す。
「う、うん! わたしが書いてるのは逆行モノってジャンルなんだけどね!
過酷な運命に翻弄される黒衣の魔術師が、あ、これは初代様がモデルなんだけど、その人が過去に戻って、以前に敗れた邪なる者を打ち倒して、今度こそ幸せな未来をつかみ取るってシナリオで……」
「え、ええと……。魔術師が主役、ですか。その、その話に、恋愛、などは……」
「え? 出てこないよ? 何で?」
「……いえ。いいんです。お話を続けてください」
なぜか気落ちした様子のカイウスを不思議に思いながら、ミティアの口は止まらなかった。
「実は、もうラストシーン手前まで書いてて!
最後に主人公が使うかっこいい名前の魔法もたくさん考えたんだけど、なかなか決まらなくて!
あ、今度カイウスも一緒に選んで……」
興奮して台詞を続けようとした時、
「ん、ぅっ……!」
大気を震わす魔力の波動に、ミティアは身を竦ませた。
「ミティアお嬢様?!」
気遣うカイウスに、言葉を返す余裕もない。
慌てて里向こうの山を視線を向けると、そこには山肌を舐めるように進む暗黒の炎が見えた。
全てを喰らい尽くす闇の炎が、荒れ果てた山を貪る。
幾度も闇による侵食を受け、もはや草木一本生えていないその山で、それでも夜の闇より暗い火は、残った生命を骨までしゃぶり尽くすように燃え盛る。
「母様が、また『放具』を使った……?」
それを見て、呆然と呟いたのはミティアだ。
隣で同じものを見たカイウスも、やはり驚きを隠せない。
「そんな、一昨日使ったばかりなのに……」
足を進めることも忘れ、黒い炎の蹂躙をただただ見つめる二人。
先に我に返ったのは、ミティアの方だった。
「……降りる」
返事を聞かずにカイウスの背から飛び降りると、里に向かって歩き出す。
「お、お嬢様!」
焦ってついてくるカイウスに、ミティアは振り向かずに語りかける。
「物語を書くのは、いい趣味だと思ったんだ。
だって、お役目を継いだ後でも、陣の中から一歩も出なくても、ずっと続けられるから」
「ミティア、お嬢様……」
「……でも、それってほんとう、なのかな。
継承の儀が終わって、わたしが巫女になっても、まだ続けられるのかな」
一族の記録には、継承の儀に耐え切れなかった巫女候補の記録がいくつも残っている。
仮に耐えられたとしても、その代償として視力や聴力を失った者、満足に身体を動かせなくなった者も……。
「大丈夫! きっと大丈夫です! 我が一族が名を賜る前ならばともかく、初代様が下さった二つの宝具があれば、きっと……」
「……うん。そう、だよね」
カイウスの言葉は、決してただの気休めではない。
「初代様」と呼ばれる一人の人物によって、巫女のお役目の危険性はずっと低くなった。
ミティアが他の誰よりも憧れる「初代様」は、正確に言えば一族の開祖ではない。
古来より続いていた名もなき一族であった彼ら封印の一族に二つの「宝具」を授け、その役割の重要性を時の王に認めさせた一族にとっての最大の功労者だった。
「この世界を真に支えているのは、王家ではなく、お前たちだ。
他の誰が知らなくても、俺が、俺の子孫が知っている。
お前たちこそが、この世でもっとも尊く、もっとも偉大なる一族だと」
そんな言葉と共に、王は「初代様」に「南方の守護者」の称号を贈ったとされる。
ミティアたち封印の一族はその役目と称号を連綿と受け継ぎ、世界の平和を守り続けているのだ。
そして、その使命を全うする上で、初代様の遺した宝物は今もこの上ない力となっている。
彼がもたらしたこの世に二つとない宝物は一族の間で「宝具」と呼ばれ、代々の巫女に受け継がれていた。
第一の宝具は、「邪なる者」の封印を助ける「封具」。
歴代の巫女の想いと技の結晶であるそれは、身につけた者に封印の技を伝え、封印の負担をも軽減する。
また、万が一に当代の巫女が突然身罷った時、次の巫女が決まるまで「邪なる者」を一時的に封じる場所ともなる。
第二の宝具は、封印された「邪なる者」を解放する「放具」。
いかに巫女が闇への耐性を持つといえど、「邪なる者」はその身に宿すにはあまりに強大すぎる。
そんなものを長い間身に留まらせれば、器たる巫女の身体と精神は内側から崩壊してしまう。
そこであえて「邪なる者」を限定的に解放、巫女の身体に憑依させ、溜まった闇の力を発散させるのがこの宝具だ。
放具を身につけた巫女は流れ込む「邪なる者」の想念と力に酔い、理性を失った獣と化す。
だから放具を身につける時、巫女は結界を張った山中の柱に縛りつけられ、そこで己が魔力が尽きるまで暴れまわることで、身の内に淀んだ「邪なる者」の魔力を散らすのだ。
ミティアたちが見た山より噴き出す魔法の炎は、それだった。
今代の巫女であるミティアの母、ナーディアが、放具を使って闇の魔力を発散させたのだ。
子供の頃は、母が放つその黒い炎を、ただただ綺麗だと思った。
今も、惹かれる気持ちはある。
でもそれ以上に、その仄暗い破壊の色に恐怖を感じずにはいられなかった。
だからこそ、闇への適性は歴代随一とされたミティアは頑なに闇の魔法を使おうとはせず、その次に高い適性を持つとされた炎の魔法を好んだ。
ひとたび闇の魔術を使えば、その光なき深淵に、暗闇に覆われた自らの運命に、引きずり込まれてしまう気がして。
それに、今のミティアにはまた、別の懸念がある。
(嫌な、予感がする……)
巫女が放具を使って闇の気を散らすのは、通常であれば数ヶ月に一度ほど。
対して、母が前回放具を使ったのは、ほんの二日前。
最近放具を使うサイクルが短くなっているのは感じていたが、それにしたって異常だ。
(もしかして、母様に何か……)
背後からの気遣わしげな視線を感じながら、ミティアは里への道を急いだ。
ミティアが息せき切って里まで戻ると、その入り口にはミティアの父が仁王立ちになって待ち構えていた。
「あ、の、父様……。わたしは……」
こんなことは、今までになかったことだ。
勝手に里を抜け出していた自分は、一体何を言われるのか。
「……話がある。来なさい」
傍から見ていてかわいそうなほど怯えるミティアに、里長でもある彼女の父は、短くそう言った。
そうして、ミティアの様子も見ずに歩き出してしまった。
「ま、待ってください」
か細い声で話しかけるも、その声が届いた様子はない。
ミティアは乱れた息を必死に整えながら、その背を追いかけるしかなかった。
「――明朝、継承の儀を執り行う」
父からかけられた言葉の意味が理解できた時、ミティアは自分の視界が突如として深い闇に覆われたような心地がした。
――継承の儀。
それは、巫女の代替わりの儀式。
今代の巫女が宿した「邪なる者」を、次代の巫女へと移す儀式だ。
いつかは来るものだとは知っていた。
ミティアだっていつかは巫女にならなければならないと、そう覚悟もしていた。
だが、それは今ではない。
まだ先の話だと、そう思っていた。
「待って、待って、ください!
そんなの、いきなり過ぎます!」
気弱で引っ込み思案で、厳格な父の前では身体が竦んで何も言えないことの多かったミティアだが、今だけは違った。
突然の宣告を受けた混乱が、彼女の怯懦な気質を一時的に抑え込んでいた。
「そ、そうだ、子供! まだ、わたしは結婚だってしてないのに……」
巫女となる者は通例、次代の巫女候補を産んでから継承の儀を受ける。
それは「邪なる者」を身に宿してしまえば、もう子供を産むような余裕がなくなるからだ。
ミティアは決して望んではいなかったその事実を盾に父に翻意を迫るが、彼は一顧だにせず、ただ首を横に振った。
「子供は他の者に産ませればいい。一族の直系の血は途絶えるかもしれないが仕方ない。
それに、お前は歴代の巫女の中でもずば抜けた闇の魔力への耐性と適性を持っていると聞く。
お前ならあるいは、継承を終えた後でも子を産むことも出来るかもしれん」
「そんな、そんなの……!」
あまりの言い種に、流石のミティアもいきりたつ。
だが、続く父の言葉に、ミティアの言葉は封じられた。
「ナーディアは、お前の母は、もう限界なのだ」
「え?」
「わたしたちが考えていた以上に、闇の侵食が激しかった。
放具を使う間隔が短くなっていたのは、お前も気付いていただろう?
頻繁に闇の気を散らすことで騙し騙しやってきたが、限界が来た。
このままではおそらく、明日の夜までもつまい」
「かあ、さまが……?」
そういえば。
ここしばらく、母と顔を合わせる機会がなかった。
巫女は「邪なる者」の侵食を少しでも防ぐため、普段は「封魔の陣」の中にこもることが多い。
ミティアと会う機会がなかったのはそのせいかと思っていたが、まさか……。
「出来る限り、お前に自由な時間を、というのはわたしと彼女の共通した願いだった。
それがこんなことになってしまって、本当にすまないと思う。だが……」
想像もしていなかった、父母の想い。
しかし、ミティアにはその事実に心揺らす暇すら与えられなかった。
「だが、分かっているはずだ。お前にもわたしにも、もう選択の余地はない」
父の眼光が、封印の一族の長の目が、ミティアを縫いとめる。
そうして、彼は動けなくなった彼女にトドメを刺すかのように、口を開く。
「――我らの全ては『邪なる者』を、邪神の欠片を封じるためにあるのだから」
その、父の言葉に、ミティアはただ、うなずいた。
うなずくしか、なかった。
それから、自分がどうやって部屋まで戻ったのか、ミティアは覚えていない。
ただ、父の元から立ち去る直前、父のこぼした「すまない」という言葉と、カイウスが「継承の儀には、わたしも立ち会いますから」と声をかけてくれたことだけは、何とか意識の隅にかかっていた。
「あし、た……」
明日、自分は邪神の封印を継承し、ミティアの名を捨て、封印の守護者となる。
実感が、全く湧かなかった。
「あ……」
何気なく落とした視線の先に、書きかけの物語があった。
それを目にした途端、なぜかミティアの両の目から、涙がこぼれ落ちた。
「なん、で……」
里に帰るまでのカイウスとのやり取りを思い出す。
そこには、ほんのかすかにだけれど、希望の光があった。
けれど、今は……。
「怖い。怖いよ……」
暗い部屋の中。
ミティアは独り、自らの身体を抱くようにして震え続ける。
――ぽたり、ぽたりと。
彼女が書きつづった物語の上に、涙の雨が降り続いた。
一睡も出来なかった長い夜が明けて。
里の中心にある「封魔の陣」の中に、ミティアの姿があった。
封魔の陣は、その名の通り魔の力を抑制する魔法陣。
この陣の上では魔に属する存在は能力を制限され、その力を二割ほど削ぎ落とされる。
しかし、この儀式にとってもっとも重要な特性は、邪神の覚醒を遅らせること。
巫女の封印は、人から人へ受け渡すことは出来ない。
先代の巫女が解放した邪神を、次代の巫女が自分の身体に再封印する。
それが継承の儀だ。
この封魔の陣の上で封印が解かれた場合、邪神の欠片はすぐに目覚めることはない。
ダメージを与えることがなければ、数分間はまどろみの中をたゆたうことになる。
少なくとも今までの儀式では、継承の儀を行う途中で邪神の欠片が覚醒した例はない。
もう、後戻りは出来ない。
父と、そして里の人間で唯一立ち会いを許されたカイウスの顔を見て、ミティアは震える足で陣の中に足を踏み入れた。
「あ……」
陣の中には、すでに彼女の母親が、巫女ナーディアがいた。
そのやつれ果て、衰えた姿に、ミティアは息を呑む。
「母、さ……」
「ごめんなさい! ごめんなさいね、ミティア!」
だが、それを気遣う言葉をかける前に、強く抱きすくめられた。
久しぶりに感じる、母のぬくもり。
ミティアは、鼻の奥がつんと痛むのを感じた。
「だい、じょうぶ。大丈夫、だから」
けれど、ミティアは湧き上がる想いを押し殺し、母から身を離した。
やせ衰えた母に、これ以上の心配をかける訳にはいかないと、そう思ったのだ。
「ミティア……」
その姿に、ナーディアが何を思ったのか、それはミティアには分からない。
ただ、彼女はもう一度だけミティアを抱きしめると、決然とした表情で立ち上がった。
「今から、継承の儀を執り行います。……いいわね、ミティア」
「だい、じょうぶ!」
声が震えるのは、止められない。
それでも、母の前で無様は見せられなかった。
ミティアは恐怖と不安を必死で押し隠し、母にうなずきかける。
それを認めたナーディアは、
「行きます」
宣言をして、その右手を宙空に向ける。
そして、
「――解放」
短い、たったひらがな四文字分の呪文だった。
それだけ。
たったそれだけで、ナーディアの数十年の役目は終わりを迎え、それは現世に姿を現した。
――邪神、ディズ・アスター。
人の悪意を喰らい、絶望をすすり、無限に成長し続けると伝えられる、悪しき神。
現世に顕現したその悪神の欠片は、次の瞬間、封印の呪法による揚力を失ってドサリと地面に落ちる。
その衝撃で邪神の欠片が目覚めてしまわないか、なんて、考える余裕すらなかった。
「ナーディア!」
「巫女様!」
封印を解除するのと同時、全ての力を使い果たしたナーディアが倒れ、父とカイウスが叫び声をあげたが、それすらミティアの耳には届かない。
「あ、ぁ……」
彼女の目の前には、おぞましき「神」がいた。
血のように赤く、心臓のように脈動する、とてつもない魔力を宿した核。
そこから伸びる、子供が作った不格好な粘土細工のような、出来損ないの腕。
そして、身体のそこかしこから生える、リボン状の蠢く触手。
その全てが、嫌悪と畏怖の対象だった。
「こん、な、の……」
勇者によって分かたれた、邪神の身体の一つ。
二番目に大きな、邪神の欠片。
話には、聞いたこともあった。
その姿を模した絵も、何度か見たことがある。
だが、こんなものだとは、こんな恐ろしく、おぞましいものだなんて、ミティアは聞いていなかった。
「ミティア? 何をしている!? 早く封印を!」
父の声が聞こえる。
だがそれはどこか遠くの出来事のようで、ミティアの心をそよとも揺らさない。
「む、り。無理、だよ……」
歴代一と呼ばれる闇への適性を持つミティアにも、いや、ミティアだからこそ、分かった。
目の前に蠢くそれが、どれほど邪悪で強大な存在なのか、肌で感じ取れた。
故にこそ、動けない。
これに立ち向かうなんてことが、ましてやこれをその身に宿すなんてことが、自分に出来るはずもない。
「ミティア! お前にしか出来ないんだ!
ナーディアが、わたしが、必死で守った世界を、お前が……!」
ふたたび耳を打つ父の叫び。
それでもミティアの足は動かず、彼女を支配するのは「恐ろしい」という感情だけだった。
「できっこ、ない。やっぱり、わたしは……」
無理だと、誰か助けてほしいと、ミティアの心が悲鳴をあげる。
その時、頭に浮かんだのは、たった一人の人物だった。
「カイ、ウス……」
いつだって、彼女の味方になってくれた、守役の男。
父親よりも父親らしかった、ミティアの庇護者。
大柄な身体に似合わない心優しい彼なら、絶対に自分を救ってくれる。
最後の希望を求め、ミティアの視線がその姿を捜し、
「あ……」
二人の視線が、交わった。
どんな時もミティアを優しく見守り続けてくれた彼は、ミティアと視線が合った瞬間、驚いたように顔を歪め、そして――
「……ぇ?」
――ミティアから、目を、逸らした。
世界が、足元からガラガラと崩れていく音を、聞いた気がした。
ミティアには何かが、とても大切だった何かが終わったのが分かった。
そうして、気付けば……。
「あ、れ? どうしてわたし、巫女になろうなんて、思ってたんだっけ?」
ミティアは、完全に自分を見失っていた。
自分が、何のためにここに立っているのか。
ここで何をすればいいのか、全く分からなくなっていた。
「わたしは、なにも、したくない、のに……。
わたしも、世界も、いっそ、滅んでしまえばいいのに……」
「ミティア!!」
父の、悲鳴のような叱声。
しかしそれでも、ミティアの足は、腕は、もうぴくりとも動かなかった。
「……ミティア」
誰もが、動けない世界で。
一人だけ、立ち上がる者がいた。
「かあ、さま……?」
ミティアの母、ナーディア。
彼女がそっと伸ばしたその手を、ミティアは無防備に受け入れようとした。
本当は、気付かなければいけなかったのに。
彼女が、母親ではなく、巫女の目でミティアに近付いたのだと、気付かなければいけなかったのに。
「――巫女の、継承を」
その言葉を、ミティアの脳が拾った瞬間、ナーディアが手にした封具が、ミティアの手に触れた。
「あ、あぁあああああああああああああ!!」
ほとばしる絶叫。
封具から流れ込んできたのは、数十人、いや、数百人分の記憶だった。
「やめ、て! やめてぇえ!」
叫びながら、両手で頭を押さえてうずくまる。
それでも、ミティアに流入する記憶は止まってはくれない。
「やだ! こんなの、知りたくない!!」
記憶が、押し寄せる。
それは、歴代の巫女たちの、献身と犠牲の記憶。
そこには、ミティアよりも幼い子供もいた。
そこには、ミティアよりも孤独な少女もいた。
誰もが悩み、苦しんで、けれど全員が世界のために、家族のために、そして、受け継がれた想いのために巫女となった。
「なに、これ……」
全ての巫女の動機と願いと死が流し込まれ、記憶の奔流は、止まった。
けれどその記憶は、彼女の頭の中から、立ち退いてはくれない。
いまだズキズキと痛む頭を押さえ、ミティアは立ち上がった。
「ひどい、よ。こんなの、あんまり、だ」
それは、呪いだった。
何よりも恐ろしく、逃れ難い、善意の鎖。
巫女の役目のために犠牲になり、人生を食い潰され、惨めに死んでいった彼女たちは、しかし誰もミティアに巫女の役目を強制しなかった。
つらいなら逃げればいいと、耐えられないなら辞めればいいと、そう訴えかけた。
「逃げられるはず、ない。辞められるはず、ない」
ただ、何もしないことを望むミティアには、当然何もない。
苦しんでまで世界を救う動機も、苦しんでまで生き残る意志も、何も。
そして、だからこそ。
まるで、自分のことのように体験させられ、感じさせられた、数百人分の動機を、意志を、跳ね除けることなど出来はしなかった。
だからミティアは、よろよろと、前へ。
いまだ目覚めぬ邪神の許へと進む。
「さい、あくだ。どうしようも、ない」
つらいのに。
つらくて泣きたいのに、なのに、誰も恨めない。
だってそこには、被害者しかいない。
彼女たちは全員、自らの意志で巫女になり、自らの意志で邪神に心をすり潰されていったのだ。
誰も、何も救えないし、報われない。
ただ、ミティアが犠牲になって、封印を引き継ぐしか、道はない。
涙でにじむ視界の中で、脈動する邪神の心臓が見えた。
手を伸ばせば届く距離。
これが、後戻りの出来ない道だと知りつつ、ミティアはその右手を伸ばす。
「――これで、いいんだよね、みんな」
尋ねた言葉に、答えはなく。
ただ伸ばした指先が、邪神の核に触れた。
……全てが、終わって。
新たなる巫女となったミティアは、引き留めようとする父を強引に振り切って、自分の部屋に戻ってきた。
どうしても、やりたいことがあったのだ。
「完成、させなきゃ……」
何もかもを見失った彼女に、最後に残ったもの。
巫女になる前の彼女が夢中になって書きつづった、拙い物語。
せめてこれは、これだけは完成させないといけないと、机に向かって……。
「どうし、て……?」
けれど、出来なかった。
あと、ほんの少し。
継承の儀を行う前であれば、ほんの数十分で終わるはずの作業が、どうしても進められない。
目が見えなくなった訳でも、手が動かなくなった訳でもない。
ただ、書けなかった。
――過酷な定めを背負わされた主人公が、それでも運命を打ち破り、幸せな結末をつかみ取る物語。
けれども、もう、ミティアには、その幸せな結末を夢想することすら、出来なくなっていたのだ。
「こん、なの……! こんなの、何の意味もない!!」
感情のまま、叫ぶ。
涙をまき散らし、激情を跳ね散らかしながら、自らの宝物だった物語を握りしめる。
「何も、変わらない! こんなもの、いくら書いたって、何も……!」
これはまさに、夢物語。
こんな夢のような話はないし、こんな夢のような話があったとしても、それはミティアの背負う闇には何の関係もない。
だから……。
「そ、っか」
その言葉は、自分の胸に、ストンと落ちた。
――何がいけないのか。
――何をしなければいけないのか。
胸の内でずっとくすぶっていた疑問の答えが、そこにある気がした。
「お嬢様、さっきの声は……」
足音が聞こえ、部屋にカイウスが飛び込んできた。
もしかすると、気落ちしていたミティアを心配して張り込んでいたのかもしれないが、今のミティアには興味がなかった。
「カイウスさん。父を、呼んでください」
「お、長を? ですが、それで……」
慣れない敬語で指示をされ、狼狽するカイウスを冷めた目で見つめ、ミティアははっきりと宣言した。
「――わたしは、この島を出ます」
継承を終え、邪神の欠片を宿した巫女が島の外に出るなど、許されるはずがない。
万が一にも巫女が死ねば、邪神の欠片がよみがえり、世界が滅びることになりかねないのだ。
当然ながら、里の者は一人残らず反対した。
しかし……。
結局のところ、ミティアの願いは叶えられることになった。
本気になった巫女を止められる者など、この島には、いや、この世界には存在しない。
世界の命運は、巫女の手の中にある。
この世界そのものを人質に取られて抵抗できるものなど、いるはずもないのだから。
出発の日は、思ったよりも早くやってきた。
最終的にミティアに課せられた制約は、一月ごとの定期連絡と、五年という時間制限だけ。
世界を滅ぼしかねない危険人物を縛るには、あまりにも脆弱な鎖。
結局のところ、里の人間ももう、倦んでいたのかもしれない。
人知れず封印の任を果たし、巫女を犠牲にし続けるだけの生活に。
「本当に、行くのか?」
見送りに来た父の言葉に、ミティアは微塵のためらいもなくうなずいた。
「ここに閉じこもっていても、何も変わらないって分かったから。
わたしの本当の望みを叶えるために、わたしは島を出るよ」
「本当の、望み?」
父のいぶかしげな声に、うん、と短く返事をして、ミティアはきっぱりと言い切った。
「――わたしは、何もやりたくない!」
その意味が父の言葉に浸透するまで、しばしの時間を要した。
「……は?」
訳が分からない、そんな顔をする父に、噛んで含めるようにミティアは言う。
「だから、ね。わたしは何にもせずに、何にも気にしないでダラダラと過ごしたいの」
いつかの丘の上で口にした「働きたくないなぁ」という言葉。
それが、ミティアの唯一無二の本音だった。
「でも、そのためには邪神の欠片が邪魔なんだ」
封具で見えた記憶の中には、本当に幸せそうな人たちなんて誰もいなかった。
だってそれはそうだ。
最初からもう、詰んでいるのだ。
自分から巫女を引き受けても、それを誰かに押しつけても、ミティアはどちらにせよ何も思い悩まずにダラダラなんてしていられないだろう。
さらに最悪なことに、これは巫女の役目を終えても終わるような代物ではない。
封具で見えた記憶の中には、当然ミティアの母、ナーディアのものもあった。
彼女も父も、自分の娘を巫女とすることに悩んでいた。
今でも想像はつかないが、ミティアが将来子供を産んだとして、その子供に巫女の役目を押しつけるなんて絶対にごめんだった。
「結局、ね。わたしが何もしないためには、この封印の巫女って奴を何とかするしかないんだよ」
「そんな、本末転倒な……」
「分かってる。でも、それがわたしの望みだって、本当にやりたいことだって、気付いたから」
語るミティアの表情に、怯えはあっても迷いはない。
それが当然のことであるかのように、彼女はその意志を口にする。
「だから、わたしは強くなって、邪神の欠片を倒す。
それが無理なら、邪神の欠片を倒せる人を見つけて、ここに連れてくる」
「それは、そんな、ことは……」
無理だ、と言いたかったのだろう。
だが、父は口をつぐんだ。
それがミティアにはありがたかった。
だって、ミティア本人だって、心の奥底ではそんなことは到底不可能だと思っているのだから。
それでもミティアは意地を張り続けた。
胸を張って、父の視線を受け止め続けた。
「でも、一人で島の外に行くなんて……。
あなたは女の子で、部屋の外にだってほとんど出たことないのに……」
次に気遣わしげに声をかけてきたのは、母、ナーディアだった。
「それは、何とかするから」
確かにミティアが書いた本にも、女の一人旅は危険だと書かれていた。
だから、その対策は一応、考えてある。
世間知らずなのも否定出来ないところだが、その代わりにミティアはたくさんの本を読んでいる。
もしかすると中には間違った知識もあるかもしれないが、きっと何とかなるだろう。
「だけど……」
「それに、ほら。王様への紹介状なんてもらっちゃったし」
ポン、と叩いた袋の中には、これから向かう場所、王都リヒテルにいる王への紹介状が入っている。
ミティアは知らなかったことだが、リヒト王国の王家と封印の一族にはいまだにつながりが残っているらしい。
事情を知っているのなら、巫女に何かあって邪神の欠片の封印が解かれるという事態は王家としても避けたいはずだ。
本当に困った時には力になってくれるだろう。
母はなお何かを言いたがっていたようだが、ミティアは視線をずらすことでその話を打ち切った。
最後に目が合ったのは、かつてミティアの守役だった男、カイウスだ。
彼は、ミティアが視線を向けると、そのいかつい顔を悔恨と苦悩に歪め、頭を下げた。
「ミティアお嬢様……。すみません、自分は……」
「大丈夫だよ。わたしは、気にしてないから」
ミティアの言葉は本心だった。
カイウスのことを恨んでもいないし、まだ彼に対する好意は胸の奥に存在している。
けれど、彼の背中にしがみつくことは二度とないだろうことも分かっていた。
何が変わった訳でもない。
ただ、気付いてしまっただけだ。
――カイウスにとって自分はいつまで経っても「ミティアお嬢様」で、彼女が甘え、頼っていた大きな背中は、単なる幻だったことに。
「……じゃあ、これでさよなら、だね」
決別の言葉を残し、彼女は島を出発する船に乗り込み……はしなかった。
最後にもう一人。
別れなければいけない人間が残っていた。
「それは……」
おもむろにミティアが取り出した物を見て、カイウスが怯えたようにあとずさる。
「心配、しないで。カイウスが考えてるようなことにはならないから」
その反応に密かに胸を痛めたことを押し隠して、ミティアは何でもないフリでそれを顔の前まで持ち上げた。
「放具……。お前、本当に……」
これが、ミティアの最後にして最大の切り札。
これまでのどの巫女とも違い、ミティアは放具をつけ、一時的に邪神の力を解放しても理性を失うことはなかった。
強い破壊衝動に襲われ、普段とは違う言動を取りはしたが、それだけ。
闇属性への耐性が高いのに加えて、元の性格が無気力だったために邪神の力を受けても影響が少なかったのではないか、とミティアは想像しているが、本当のところは分からない。
大事なのは、ミティアがずっと放具をつけたままでも生活していられること。
そのメリットは大きい。
まず、身体を蝕む闇の力の影響を最小限に抑えられる。
巫女は自らを侵食しようとする闇の力に対抗するため、常にその力を費やすのが普通だ。
けれど、その役目を放具がやってくれるのなら、ミティアは何も気にすることなく、自らの目的のために動ける。
旅をするというのなら、放具の力は必須と言えるだろう。
また、一部とはいえ邪神の力を行使出来るのも重要な点だ。
生来の魔術の素質と合わせ、その膨大な魔力を使いこなせれば、ミティアは誰よりも優れた魔術師になることも可能なはずだ。
邪神の力で邪神を倒す。
どうにも皮肉な話だが、そういうストーリーもミティアは嫌いではなかった。
しかし、当然ながらそのデメリットもまた大きい。
いくら理性を失わないと言っても、放具が感情や性格に与える影響をゼロに出来る訳ではない。
放具を身につけただけで攻撃性は高まり、あらゆる欲望に対する自制が利かなくなる。
自尊心も膨れ上がって、根拠のない全能感を覚えるようになる。
今はまだ一人で試しただけなので問題は起きなかったが、実際に島の外に出たら、相手に構わず尊大な態度を取ってトラブルを起こすことも想像に難くない。
そして、そんな人間はもう、気弱で引っ込み思案な「ミティア」とは別の人間と言えるかもしれない。
(……でも、いいんだ。それで)
どんなに迷惑な人間でも、どんなに元の自分と違うとしても、前に進める力を持った人間が今は必要なのだ。
震えて何も出来ない臆病な少女は要らない。
部屋にこもって夢物語を書きつづるだけの自分は必要ない。
だからミティアは、放具を身につけて旅に出て、そして目的を果たすまで、もう二度と外さないつもりでいた。
(あの時はまさか、こんなことになるなんて思ってもみなかったけど)
かつてミティアは、継承の儀でミティアという名前がなくなってしまうことを嘆いていた。
だが、これはもう名前だけの問題ではない。
それでも……。
(――わたしは、わたしを、『ミティア』を、殺す)
それだけの決意をしてきたのだから、もう迷わない。
手にした放具を、自分への死刑執行者であり、これからの半生をずっと共に過ごすはずの相棒を見て、最後の覚悟を決めた。
「父様、母様、カイウス。……さよなら」
決別の言葉を放ち、それでもその瞬間は、流石に手が震えた。
そうして放具が、ついにミティアの肌に触れようとした、その刹那、
「ミティア!」
母が、叫ぶ。
あふれ出す想いをぶつけるように。
もしかすると、母はミティアを、自分の娘を思い留まらせようとしたのかもしれない。
しかし、
「――違うよ。もう、違う」
それはもう、少しばかり遅かった。
かつてミティアと呼ばれた少女は、首を横に振る。
「ミティアは、もういない」
身体を、心を駆け巡り、「ミティア」を塗り替えていく漆黒の波動。
湧き上がる全能感のままに、弱虫だったミティアは死んだのだ、と彼女は自分に言い聞かせる。
代わりに脳裏に描くのは、「初代様」と呼ばれる遠い祖先。
少女が幼い頃から憧れ続けた、彼女が目指し、そして超えたいと願う英雄。
邪神大戦を生き抜き、邪神の封印を作り上げた、人類史上もっとも偉大なる魔法使いの姿。
「ここにいるのは、もっとも新しい封印の巫女。
邪神大戦の英雄『闇の巫女ネイティア』と『光炎の魔術師ネームレス』の子孫にして、南方の守護者の称号を継ぐ者」
脳裏に浮かぶその姿を、存在を、自らと重ねるように。
その出で立ちだけでなく、振る舞いや口調までも似せるように。
「わたしは、いや……僕は――」
彼の遺産である封具「環魂の腕輪」をつけた腕で大きな黒いマントを跳ね上げ……。
放具たる「憑神の仮面」を自らの顔に押しつけながら……。
彼女は、颯爽と名乗りをあげた。
「――偉大なる魔術師、サザーンだ!!」
爆誕!!




