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ウィルド  作者: エンリコ
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第一章 一幕



[平凡]




『──の最高気温は三十五度まで上がる見込みです。外出する際には熱中症に気をつけ──』



──暑いわけだ、三十五度とはね。この国のこの季節の気温と湿気ってもんはなんとかならないものかね。



 じりじりと肌を焼き尽くそうとする太陽。巨大なフライパンと化したアスファルト。今生で子孫を残そうと寸断無く鳴くセミ。これらが全てがこの不快感を増強しているのは言うまでもないことだろう。




 しかも民家から聞こえてきた天気予報で余計に暑苦しさが増す。知らぬが仏とはよく言ったもんだ。



──というよりなにが悲しくてサラリーマンみたいな格好──要は背広姿──で溝さらいをしなければならんのだ。

 世間様はやれ海だ、やれ避暑地だとか言っているのに…仕事とはいえあまりにも悲惨だ…はぁ…とっとと事務所に戻って麦茶と人間の英知の結晶ともいえるエアコンで涼もう。




【槌鞍探偵事務所】 ご用命の方はインターホンを押してください☆




 住宅街のど真ん中の探偵事務所。よっぽどのことがないと、気に止める者はいないだろう。外観は一般的な一軒家のそれなのだから。



──しっかし、十年経った今でも思うが、なんなんだあの☆は?つのだか??つのだなのか??!クソ、暑さでくだらんことまで感に触る!…まあいい、早く入ろう。



「ただいま帰りましたぁ。はぅあぁ、生き返『なにバカみたいな声出してんだよ、志多見一茶。間抜け面が輪をかけて間抜けに見えるぞ。」



──オレのくつろぎの時間は来ないのか?…イカンイカン、ここでキレては大人の威厳ってものが崩壊してしまう。



 生意気で辛辣な言葉を投げてよこしたのは、野坂命。なにかとうちの事務所に来てはたむろしている中二のクソガキだ。外見はかなりな美少年の部類──いわゆるジャニ系──なのだが、この口の悪さのせいでどうにもかわいく見えない。



「なんだ命か、また来てたのか。学校はどうした、学校は?」



「寝ぼけてんの?今は夏休み。暑さで脳みそわいたんじゃない?」



──そういえば道すがら、ガキ共が大量にはしゃいでいたな。しかし十は歳が下の乳臭いガキに何故こうもぼろくそに言われにゃならんのだ…イカンイカン、ここでキレては大人としての威厳が、ん?デジャブか?



「そ、そうか、夏休みか。まあいいや、どうせ暇なんだろ?麦茶でも淹れてくれよ。」



「見てわかんない?ボクは本を読むのに忙しいんだよ。」



──本だと?漫画だろうが!しかも、オレの愛蔵書の『メルッと〜ある勇者の物語〜』じゃねえか!?ここはキレていいデスヨねえ??!



「はい、一茶君お疲れ様。」



 小太りな手が氷入りの冷たい麦茶を差し出してくれる。この探偵事務所の所長、槌鞍夏夫である。五十八歳で独身。温厚で柔和そうな面構え、典型的な優しいおじ様タイプ。中性脂肪とコレステロール値が最近の悩みらしい。メタボリック症候群にはなっていないと豪語するが、はたしてどうかな?



「あ、所長、すいませんいただきます。」



「いえいえ、こんな暑い中貴婦人の依頼をこなしてくれる優秀な所員に対して当たり前のことですよ。」



 ありがたいものだ。こういうちょっとした労いが次の仕事の活力になりえるんだろうな。それにしても貴婦人とは恐れ入る。近所のオバハンの依頼だというのに。



「それにしても一茶君、ちょっと臭くないかい?」



「ああ、すいません。冨永さん家の奥さんの指輪、ドブの中まで探させられるハメになりまして。一応洗ってはきたんですけど、やはり臭いますか?」



「ん〜、少しね。で、結局指輪の方は見つかったのかな?」



「ええ、まあ。盗まれたらいけないって壷の中に隠していたのを奥さんが忘れていたらしくて、オレが溝さらいをしている最中に思い出したんですよ。」



「はっはっは!それは災難だったねぇ。」



「去年の暮れの、橘さんとこの犬の捜索よりはマシですよ。」



 そう、あれは去年の十二月中旬のこと。



 橘さん宅のマッシュが三日ほど家に帰らず、それを探して欲しいという依頼が舞い込んだのが事の発端である。



 一刻も早く見つけて欲しいとのことで、季節外れの大雨の中方々を捜索するハメに。幸か不幸かマッシュは意外にも早く見つかったのだ。軽く増水した天理川の中洲で。



 大雨で川が増水しているからといってもまだ大したこともなく、所長とオレ──実質オレ一人であったが──でマッシュの救出を行うことにしたのだ。



 予想通り難なくマッシュのもとまで辿り着いたのだが、そこからが地獄の幕開けであった。



 マッシュはチベタン・マスティフという、体高八十cm体重百kgを超える超大型犬種で、まず持ち上げるのは不可能。となれば道は一つ、マッシュと共に川を渡るしかないのだ。



 だがマッシュは、水が怖いらしく縮こまってテコでも動きそうになかった。今考えると当然のことだ。泳げるのならとうの昔に川を渡っているのだから。



 どうしたものかと手をこまねいていると、みるみるうちに川は増水していき、ついには中洲を飲み込むほどになっていった。



 否応もなしにマッシュは水の中に入らざるを得ない状況になったのだ。完全にパニック状態になったマッシュは、その体躯で暴れる、もがく、吠える。それを押さえ込もうとしたオレまで流されかける。



 至極当然のことながら、冬の川は極寒の一言でオレの気はあっという間に遠のいていき、生命の危機に瀕してしまった。そこを所長が呼んでくれたレスキュー隊に間一髪、救助されたのだ。もちろんマッシュ共々である。



 これが原因で、後日肺炎にかかりまたも生死の境をさまよった、という話しなのだ。



「はっはっは、あれは私の探偵歴の中でも十指に入る過酷な依頼でしたよ。そうそう、臭いが気になるようなら事務所の風呂を使っても構わないからね。」



「では、お言葉に甘えて。」



 いい人だ。こんな仕事を腐らず十年もやってこられたのは、この人あっての賜物だな。看板の☆すらも気にならなくというものだ。



 丹念に腕を洗い臭いも気にならなくなった。シャツに臭いがついていなかったのは不幸中の幸いだ。風呂場から出て所長に軽く礼を言い自分の椅子に深々と座る。



 外観こそ一軒家だが、中は一般的な事務所と変わらない作りである。



 書類整理もないし依頼も今のところない、よってここからはまったりモードだ。『就業中に不謹慎!』とか言わないように。



「しっかし暇だよなぁ、ここって。半年に一回くらいしか仕事ないんじゃないの?」



──お前が言うか?命さんよ。お前も暇だからここに来てるんだろうが。というより外で遊べ。友達なりなんなりと。…とは言え確かに暇ではある。今日の仕事も二週間振りの依頼だったし。まあ、今に始まったことではないのだが。



 こんなに仕事がなくても、オレの給料が減ったり滞ったりしたことはこの十年、一度も無いのだ。不思議なものではあるがその真相を所長に聞くのは少々怖い気もする。色々想像は出来るが、触らぬ神に祟りなし、それが一番だ。──それにしても、日本には素敵な(ことわざ)が沢山あるな。



『ジリリリリーン!』



──古風だなあ。黒電話なんてそうそう置いている所はないぞ。でもこういう古き良き時代ってやつ?オレは嫌いじゃないな。なんていうか、大正ろまんみたいな感じで。意味はよくわからんが。



「はい、槌鞍探偵事務所です。ああ、これはこれは江藤さん、今日はどういったご用向きで?ほう、ほう…」



──江藤さんか、あそこの奥さんかなりややこしい依頼入れてくるんだよなぁ。あ〜あ、所長が申し訳なさそうな視線をオレに投げかけてるよ。ええ、構いませんよ?これだけよくしてくれる所長の為だ火の中水の中、江藤さんのエキセントリックな依頼もこなしてみせましょうとも。



「はい、わかりました。では、志多見君を向かわせますね。ええ、よろしくやってください。では、少々お待ちください。…ふぅ、志多見君、『了解です。江藤さん家ですね。すぐに向かいますよ。どういう用件かは向こうで聞きます、というより勝手に話すと思いますので。では、行って来ます。」



 所長の「すまないね」という言葉と命の「よかったな、給料ドロボーにならなくて」という悪態を背に事務所を出た。



 この時は想像もしていなかった。後々まで後悔するような出会いをするとは…






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