序幕
序幕
「ん〜む…三人でくると予想しておったのじゃが…」
闇、一条の光も射さないこの空間に低く、くぐもった声の主は鮮やかに浮かび上がっている。
顔に深く刻まれたしわを見る限り、齢は七十代以上。だがその髪は、黒く青々として、絹のごとく滑らかでその長さは太ももにまで達している。
「残念だが、俺を含め執行人は二人だ。この三百年でもうろくしたか?」
皮肉を言う若い声の主は、老人の前方六mほどのところにいる。その背後には、彼より少し背の低い男が付き従うように立っている。
光の無いこの空間で何故、彼等の姿は認識できるのだろう…
「クゥクゥクゥ…言うてくれおるわ。」
不気味に笑う老人をよそに、男は手に持っている薄い小冊子をめくった。
「咎人、ダロス・ゲンガー。汝の罪業は──まぁ、いちいち言わなくてもかまわんか。」
「ダメですよ!きちっと規則に則って行わないと!」
男はやや面倒臭そうに小冊子に再度視線を落とした。──やれやれといった感じだ。
「…汝の罪業は数多にある罪をもってしても量りかねるものである。三百余年もの間、この常闇の空間に幽閉したにも関わらずそれに耐え今なお生き続ける汝は最早、世の理を大きく逸脱した存在であり、混乱と無秩序、恐怖をもたらす災厄の存在である。よって我等は、汝に我等の定める法によって無窮の限りを与える。──つまり死を。」
彼の声は抑揚の無いものだが、太くしみ入るような声はやけに魅力的だ。
「言い残すことはあるか。」
「ふむ…主に捕まり、ここで過ごしたのが三百余年か、長かったのぉ。ここは退屈で退屈で仕方がなかったわい。」
今まさに、死刑の宣告を受けたにもかかわらずこの老人は落ち着いた──いや、どことなく面白がっている口調でしゃべり始めた。
「じゃが、この退屈な空間のおかげで面白いことが出来るようになったぞい…例えば──」
言い終えるやいなや、老人の口が三日月のように歪む。それを見て、男は異様な気配に気付き声を上げる。
「トリヌス!奴を捕縛しろ!」
返事は無い。それどころかトリヌスと呼ばれた、背の低い男はもう存在していなかった。代わりに、赤黒い小さな塊がそこにあるだけだった。
「トリヌス!?…ダロス!貴様何をした!」
老人の口がいっそう歪む。このままいけば耳まで裂けそうだ。
男は身の毛もよだつような悪寒を感じた。その刹那、金属のような冷たい手で心臓を掴まれた感覚に陥っていた。生殺与奪の権は眼前で悪魔のように笑う老人が握っている、男はそう悟った。
「クゥクゥクゥ…トリヌスか、可哀想にのう。上が人足をケチらず、主が油断をしていなければこうならずに済んだかも知れんのに。…まあ、どの道、ここに来た時点で同じ結果が待っていただろうがな」
そう言い放ち、老人はカカと哄笑を上げた。男は息を漏らすことも出来ない。
「さてと、そろそろここをおいとましようかのう。上の連中が来ては厄介じゃ。
主にはこの三百余年のうちにつけた力、その片鱗をもう少し見せてくれよう。」
老人はおもむろに片手を上げ、掌を天に向かってゆっくりと開いていき、軽くまぶたを閉じる。やがて空間が円形に歪んでいく。まるで掌の上に大きなシャボン玉が出来たようである。
「ハ!」という老人の掛け声と共に歪んだ空間は縦に、横に伸びていく。そしてパチンと乾いた音が響くと、円形の歪んだ空間は純白の空間に変わっていく。
「ふむ、上々じゃな。さて、この世界の第二管理人にして稀代の死刑執行人、いや猟人の方がしっくりくるかの?まあ、そんなことはどうでもよいか。わしは、彼の地へ再び戻ることにする。追いたくば追うがよい。主は決着をつけたかろう?じゃが、猟人よ。わしを三百年前のように捕まえることを考えてはならん。殺すことだけを考えるのじゃ。では、待っておるぞ、ガイス・ロラン。」
老人は純白の空間を見上げた。すると老人の体がゆっくりと純白に吸い込まれていく
「三百年振りか…」
そう呟く老人の顔には、複雑な表情──喜び、悲しみ、希望、絶望、その全てが内包されたような表情が浮かんでいる。
老人の全身が純白に包まれると、闇が純白を侵食していく。まるで意思があるように。やがて純白が侵食し尽くされると、再び一切の光を湛えない常闇の空間が戻ってきた。
ガイス・ロランと呼ばれた男は、ようやく老人の呪縛から解放された。荒い呼吸の中、その瞳に宿るのは憎悪でも怒りでもない。ただただ純粋な殺意、獲物を狙う猟人のそれをしていた。
「…久方振りの狩りか、精々楽しませてくれよ、クソジジイ。」