ジョゼルの灯火ー自我を探求した小説家の話ー
人の話をしよう。
例えば男。
男の最も好む議論、それは自我同一性だった。
自我とは何か。
自我とは変化するのか。
自我とは如何にして消滅するのか。
男はそれについて深く考えていた。
高校卒業後、男は国で最も権威のある大学に入学した。
専攻は哲学。
男が3年間かけて研究した人物がいる。
それはライプニッツ。
ライプニッツは哲学史を語る上で避けて通れない人物である。彼の功績を簡単に振り返ると、目を見張るものが多い。
一つ目は数学。
彼はアイザック・ニュートンとほぼ同時期に微分積分法を発明した。
現在の微分・積分の記号体系の多くは彼が由来となっている。
二つ目は法学。
彼はヨーロッパの連邦化を構想していた。
現在のEUに通ずる考えである。
当時のヨーロッパは宗教戦争や30年戦争、そして種々の国家間戦争に火花を散らしていた。その結果、ドイツ地域の人口は激減した。
ライプニッツは宗教間対立、国家間対立、さらには学問的対立の全ては高次元で調和可能と考えた。
これは次に説明するモナド論に繋がる。
三つ目が哲学。
彼は世界を論理的に整合する系として捉えた。
ここでは二つ、簡単にモナド論と予定調和説について説明することにしよう。
モナド論とは、世界の本質は物質ではなく認識する単位であるという考え方、そして予定調和説とは、世界は実態同士の相互作用ではなく、神が世界創造時、完全に同期させた内側で展開する系、という考え方だ。
わかりやすく言うならば、世界の本質であるモナドは独立した単位であり、モナド同士が作用することはなく、作用しているかのように「見えるだけ」であるということである。
もうすこしわかりやすくしてみよう。
君は石を一つ手にしている。
そしてそれを窓に向かって投げるとどうなるか。
一見すると、石が窓ガラスにぶつかって窓ガラスが割れたように見えるかもしれない。
これが古くから考えられてきた因果論的世界観である。
しかしライプニッツは真逆の解釈を行う。
石は手から離れた瞬間、Xの方角へ進み始める。
そして窓ガラスまで到達し、窓ガラスに接触したように「見える」。
一方、窓ガラスはどうか。
窓ガラスは石が投げられるまで当然だが無傷の状態である。
しかし、石が接触するのと全く同じタイミングで亀裂が入って割れる。
石とは無関係に割れるのだ。
この独立した関係こそ、ライプニッツのモナド論と予定調和説である。
ライプニッツに関する雑駁な説明を行ったのは、先に述べた男の研究と密接に関わってくるためである。
大学在籍時、男はライプニッツの論文や草稿を手にした。
『モナド論』
『形而上学叙説』
『人間知性新論』
『弁神論』
寝食を忘れ、男はライプニッツの文献を読んだ。
その成果となる男の学士論文の研究題目は以下だった。
ライプニッツが提唱した予定調和説に関する批判的考察。
男は学部生でありながら、哲学の巨人を真っ向から否定する論文を執筆したのだ。
これには彼の底に流れる考えが関係している。
それは世界を構成する最小単位(ライプニッツ的に言えばモナド)は、存在から別の存在に共有可能であるというものである。
独立した系でなく分割可能な最小単位を綜合した機構。
それが「存在」であり「人間」であると男は考えた。
結論、男の論文は教授たちに受け入れられなかった。
その理由は単純である。
本来、哲学という学問は膨大な文献や先行研究を参照し、それらを精査・比較しながら推論を積み重ね、最終的にある命題や主張を肯定あるいは否定する営み。
しかし男の論文の先行研究として参照されたのはライプニッツの論文のみ。
ライプニッツの研究だけでライプニッツの主張を否定するというのは、研究としての妥当性が著しく低いと判断されたのだ。
論文の拒絶は男の自我同一性を刺激する最良の契機になった。
通知を受けて数時間後、男は大学に退学届けを提出した。
男が最初に手を付けたのが物書き。
種々雑多な出来事を面白おかしく書き連ねる仕事である。
生計を立てるために男はその仕事を受け続けた。
それが幸か不幸か人気を博した。
最初は原稿用紙一枚につき雀の涙程度だったのが、いつしか出版社と価格交渉ができるほどの立場になった。
ここまでが男の半生であり、ここからが小説家としての話となる。
生活に困らなくなった彼が始めたのが物語の執筆。
論文の拒絶から十年近く経っても、男は自身の認識は間違っていないと考えていた。
相互作用的に広がる最小単位。
それを他者と共有し、拡散させることが彼の目標であった。
さて、ここでもう一度問いたい。
自我とは何か。
自我とは変化するのか。
自我とは如何にして消滅するのか。
この問いが男の後半の人生に深くかかわってくる。
男は物語に自分が執筆したという、一種のアトリビュートを随所に残すつもりだった。
物語の展開。
特徴的な語り口。
そして物語全体の思想。
全ては自分のモナド論的最小単位を他人と共有するため。
ここで簡単に、なぜ男がここまで最小単位を共有することに執着していたか説明しておこう。
先ほど述べたように、男にとって人間とは「分割可能な最小単位を綜合した機構」である。
その最小単位を他者と共有(言葉を選ばずに言えば移植)することができれば、相互作用的に拡散され、永遠に生き続けることができると考えたのだ。
皮肉なことに、それは男が否定したライプニッツ的思想に通じることになるのだが、それに気が付くのは少し先のことだ。
つまり、多くの人間に自分の作品を読まれることは、永遠に生き続けるための最も効率的な方法だった。
だが男は、そんな独りよがりな作品が他者に読まれるわけがないことも理解していた。そのため男は、どうすれば読者に読まれるかについて真剣に考え始めた。
タイトルの設定。
物語の展開。
結末。
そしてついに、一つの作品が出来上がった。
読者受けする表題。
文字数は10万字前後。
作品の質も満足できるものだった。
男は長年付き合いのある友人のいる出版社に何月何日、何時に原稿を持ち込むことを伝えた。
ついに、永遠に生き続けるための足掛かりを作ることができる。
数日の間、男は心穏やかに過ごしていた。
出版社の人間と会う前日の夜。
男は自分の原稿を読み直すことにした。
すでに原稿は百回近く読み直している。
したがって今回は別の視点で読んでみることにした。
その別の視点というのが、「この作品の中に作者としての自分は存在するのか」である。
もちろん、この作品の作者は自分だ。
しかし、もっと根源的なもの、いうならば物語の底に自分がいるのか、というのはこれまで確認したことがなかった。
いちど、自分の行動の原点に立ち返って読んでみることにした。
ダンッ!!
男は机に原稿用紙を叩きつけた。
いない。
いない。
俺がどこにもいない。
どこだ、どこに俺がいる?
この作品を書いたのは俺なのに、なんでどこにも俺がいないんだ?
すぐに編集者の友人に面会を延期する旨を電話で伝えた。
その友人は言葉を読み込んで了承してくれた。
本来の目的は「自分の」作品を読者に読んでもらうことであり、商業文学の作品を出版することではない。
男にとってこの作品は、ただの駄作でしかなかった。
なぜこうなってしまったのか、男は真剣に考えた。
多くの読者に読んでもらえるような作品にしようと決めたとき?
それとも物語を執筆しようと考えた段階から決まっていたのか?
「…ライプニッツ」
そのとき男は偉大な哲学者の名前を口にした。
もしすべて運命論的に決まっていたとしたら、この結果もすべて独立した系でしかないのだろうか。
自我とは何か。
自我とは変化するのか。
自我とは如何にして消滅するのか。
今なら男はこう答えるだろう。
自我とは存在しない無。
したがって変化も消滅もない。
全ては運命論的に決まっている。
「…はぁ」
男は溜め息を吐き、暖炉に原稿用紙を持っていった。
そして原稿用紙を放り投げる。
「ゲホゲホ…」
煙が肺に入ってしまい、少しむせてしまった。
これが済んだら換気をしよう。
肌寒い2月の頃。
中欧のある国の一室。
一つの作品が世界から消えた。
いや違う。
最初から消えるように決まっていたのだ。
灰と化す直前まで原稿用紙で燃えずに残っていた部分がある。
それは男の名前だった。
彼の名前はヴェルトベルク。
自我とは何かを探求した小説家のひとりだ。
ライプニッツに関する説明が雑駁となっていることを、ここで謝罪させてください。
ごめん、ライプニッツ。
あとで飲み物奢るね。




