四話
やがて夜が明けた。だいぶ前から風は止んでいる。
フィニアは目を覚まし、上体を起こした。周りにある黒を見て、ザリエルに話しかける。
「……翼、閉じ忘れてるよ」
そう指摘されたザリエルは、何も言わずに翼を畳む。
「少し伸ばしてただけ」
「そっか」
フィニアは柔らかく微笑んだ。鞄の中から紙袋を取り出し、パンをザリエルに渡す。
「次は町に行こうと思ってるんだ」
「町?」
「うん。君に新しい洋服を買ってあげたいから」
パンを咀嚼しながら、ザリエルは自分の服を見た。汚れは目立たないものの、力任せに破いたようにボロボロだった。
「……でも」
これは、神様からもらったものだから。
そう言いかけて、喉で言葉が詰まった。指先に力が入っていき、パンの形が歪む。
ザリエルにとって離し難いもの。自分を産んでくれた神様からもらった、特別な服だった。
「ザリエルは綺麗だから、きっと何でも似合うね」
顔をどんどんしかめていくザリエルを見て、フィニアは彼女の手にそっと触れた。指先の力を解くように、ゆっくり包み込む。
「強制はしないから。嫌なら違うところに行こうよ」
氷がじわじわ溶けていくように、ザリエルの表情が無に戻っていく。
「……ごめん、この服は捨てられない」
とても小さな声だった。それでも聞き取って、フィニアは頷いた。
「うん。捨てなくていいよ」
彼はそう言ってから、少し考え込む。
「……一つ聞きたいんだけど、天使って熱いとか寒いとかあるの?」
「温度は感じるわ。でも、人間ほどではない」
「じゃあ、上から羽織るだけならどう?」
ザリエルは顔を上げた。先ほどと変わらない微笑みを携えたままのフィニアと目が合う。
「隠すためじゃないよ。」
「じゃあ、何のため?」
「寒い時用に! 人間の服って、案外あったかいよ」
ザリエルは戸惑った。今まで心配されることがなかったから。それでも、こちらの言葉を待つフィニアに、何か返さねばと思った。
「考えておくわ」
「うん! あ、本当に強制してないからね」
「わかってるわよ」
「あはは」
軽やかに笑ったフィニアは、心底嬉しそうだった。
それを見たザリエルは、無意識に目を細めた。
「出発する? パンを食べながら歩こうよ」
「そうね」
二人は立ち上がり、焚き火の跡を離れていく。彼らの影が、朝日に重なって伸びていた。
◇◇◇
「……人が多いわ」
町の関所へたどり着いた二人。しかし、そこには人々がずらりと並んでいた。
「この町の服が流行ってるのかもね、品質がいいから」
ザリエルは翼に触れながら、ぽつりと呟いた。
「私が行っても大丈夫なのかしら」
「大丈夫だと思うけど……」
「でも、人間にとっての私は異端の存在だから……」
ザリエルの視線は、並ぶ人々の背中に向いている。笑い声、荷車の軋む音、子供が走る足音。全てが自分と無縁のものに思えた。
「僕の隣にいれば大丈夫だよ」
不安そうなザリエルに、フィニアは優しく語りかけた。それに思わず声が出てしまった。
「どうして?」
彼は満面の笑みを浮かべながら、軽い調子でこう言った。
「僕も異端だから」
ザリエルは少し目を見開いた。
「不老不死って、だいぶ変わってるでしょ?」
冗談めかしてそう言ったフィニアに、肩の力がわずかに抜けた。
二人は列の最後尾に並んで、順番が来るのを待つ。
周りからの視線が集まっているが、ザリエルは気にしていない態度を装っていた。一方、フィニアは自然な笑みを張り付けたままだった。
__どすん。
背中に、何かがぶつかった。ザリエルは驚いてしまい、無意識に翼が広がる。
「わっ、ごめんなさい!」
勢いよく振り向くと、視界の下につむじが見えた。金色の瞳が捉えたのは小さな子供だった。
一瞬の沈黙の後、子供がみるみるうちに目を輝かせていく。
「……羽、きれい」
喉から空気が漏れる音がした。
ザリエルを見ても怖がらない。それは純粋だからこその反応だった。
天使の翼は本来、純白なものだ。なのに、この子供は漆黒の翼を見て『きれい』と言った。
「……どこがきれいなのよ、こんな色なのに」
「つやつやで、きらきら! とってもきれいだよ!」
ザリエルは何も言い返せなかった。言葉が見つからなくて、呆然と立ち尽くす。
そんな彼女に、子供は手を伸ばした。
「さわってみてもいい?」
翼がぴくりと揺れる。拒まれると思っていたのに、向けられているのは好奇心だけだった。
返事をする前に、柔らかく、小さな指先が翼に触れる。
「あったかいね!」
そのひと言に、胸の奥がざわついた。
「こら!! すみません!!」
すると、慌てた様子で母親らしき女性が駆け寄ってくる。子供の手を引き寄せ、何度も頭を下げて謝った。
「申し訳ありません……」
怯えた目ではなかった。礼儀としての謝罪、それ以外の感情は何も混ざっていなかった。
「別に、構わないわ」
許された母親はほっとしたように笑い、子供を連れて列に戻っていった。去り際に、子供が振り向いて腕を振った。
「おねえちゃん、またね!」
その言葉が、妙に胸に残って消えなかった。
「……ね?」
黙って様子を見ていたフィニアが、軽く微笑んだ。
「ほら、もうすぐ僕たちの番だよ」
無意識下、ザリエルはまだ黒い翼を閉じていない。そのことに気づき、彼女は慌てて翼を畳んだ。
さっき触れられた場所だけ、ほんのりと温もりが残っていた。




