二話
歩き続けて数時間。すでに日が昇り、辺りは明るくなっていた。遠くから鶏の鳴き声が聞こえてくる。
「見て、村が見えてきたよ」
「……村なんて、久々に行くわ」
「え、ずっと礼拝堂にいたの? ご飯は?」
「食事は一応できるけど……あまり必要ないわ」
そんな話をしながら、二人は同時に村の門をくぐった。その瞬間、小麦の香りが鼻を抜けていった。
「何、この匂い」
「パンじゃないかな。この村は小麦がよく育つから」
フィニアはそう言うと、畑の方を指差す。そこには金色に輝く小麦がたくさん育てられていた。その大きな畑の隣には、パン屋の看板が付いた家屋が立っていた。
「ちょっと寄ってみる?」
「……別にいい」
ザリエルはパン屋から目をそらした。自分が行けば気味が悪いと言われるし、フィニアも追い出されてしまうかもしれない。
「僕は天使じゃなくて人間だから、お腹が空いたんだけどな〜?」
フィニアはわざとらしく腹部を押さえ、ザリエルに何度も視線を送った。それに耐えきれなくなり、大きなため息をついた。
「……追い出されても文句を言わないでよね」
「大丈夫、追い出す方の見る目がないだけだから」
楽しげに歩くフィニアの半歩後ろで、ザリエルは底知れぬ不安を感じたままだった。
◇◇◇
パン屋の扉を開くと、鈴が揺れて高い音が鳴る。それを聞いて顔を出したのは、白髪混じりの髪をまとめた女性だった。手元には指輪がはめてある。
女性はまずフィニアを見て__それから、ザリエルに視線を移す。そして、こう言った。
「いらっしゃい」
そのひと言に、ザリエルが一瞬固まる。嫌悪も憎悪も、怯えもない。ただ普通の挨拶。それに酷く戸惑った。
「わあ、美味しそう」
立ちすくむザリエルをよそに、フィニアは並べられているパンを見て回っている。
「朝焼け前に焼いたばかりなのよ。ほら、まだあったかいわ」
女性は丸いパンを一つ持ち上げて、ザリエルに見せた。表面はきつね色に焼け、指で触れればパリリと音がしそうだった。
「わ、本当だ。いい匂い」
フィニアは目を輝かせている。
ザリエルは黙ったまま立っていた。自分に向けられた視線を探る。警戒も、疑念も__ない。
「一つ、食べてみる?」
女性は立ち尽くすザリエルに、パンを差し出した。ザリエルの指先がわずかに震える。
「……私は」
必要ない。そう言いかけて、言葉が止まった。
断れば済む、拒めば何も揺れることはない。それなのに__そっと受け取ってしまった。
手のひらにじんわりと熱が伝わった。熱いわけではない。ただ、あたたかい。
ほんの少しだけかじった。外側は軽い硬さで、中は驚くほどにやわらかい。小麦の飾らない甘さが、口いっぱいに広がった。
ザリエルは思わず瞬きをする。
……おいしい。
「どう?」
様子を見ていたフィニアが、不意にそう聞いてきた。のぞき込んでくるので、ザリエルはそっぽを向いて表情を隠した。
「……普通ね」
短くそう答える。その言葉に反して、自然ともう一口かじっていた。それに気づいたザリエルは、そむけた顔を戻すことができなくなってしまった。
すると、店の奥から低い声が飛んでくる。
「ほらな、焼きすぎじゃなかっただろ」
出てきたのは、年配の男性だった。女性と同じ指輪を付けているので、おそらくこの二人は夫妻だろう。
「たまたまよ、今日は火加減がよかっただけ」
二人は目の前で言い争い始めた。
「毎回言うけどなあ、お前は心配しすぎなんだ」
「あなたが適当すぎるのよ!」
言葉は荒い。けれど、その声色はどこか柔らかいものだった。
「ふふ……仲がいいね」
フィニアがくすりと笑いながらそう言った。ザリエルはそれに対し、顔を曇らせていた。
「……喧嘩しているわ」
「でも、嫌いな顔してない」
ザリエルは黙ってしまう。
怒っているのに、ぶつかっているのに、離れない。それが不思議で仕方なかった。理解ができない。
「パンを四つ買いたいんだけど、いい?」
フィニアのひと言で、場は静まり返った。女性が頭をかかえながら、接客に戻る。
「……あぁ、またお客に恥ずかしいところを見せちまった。四つだね、わかったよ」
女性は綺麗に陳列されたパンを紙袋に入れていく。フィニアは代金を払い、その紙袋を受け取った。
二人は店を出ようとしたのだが……それを男性が止めた。
「ちょっとまっておくれ……そこのお嬢さん、うちのパンは気に入ったか?」
いきなり話しかけられたザリエルは、戸惑いながらもそっけなく返す。
「別に」
だが、男性は気にした様子もなく笑った。
「それなら、もう一つおまけだ。君たちは旅人だろ?」
「え、いいの?」
「若いのが腹すかせてるほうが気になる」
女性が持っている紙袋に、パンがもう二つ入れられる。ザリエルはその様子をじっと見つめていた。
見返りもなく、疑いもなく、与える。どうして?
疑問を残したまま、二人はお礼を告げて外に出た。先ほどよりも陽が高くなっている。
「もう食べちゃおうかな」
フィニアは紙袋からパンを一つ取り出した。しかし、少し考える素振りを見せたあと、ザリエルにこう聞いた。
「このパン、本当に普通だった?」
「ええ、普通よ」
「ふーん」
フィニアは笑いながら、半分に割ったパンをザリエルに差し出した。
「はい、半分こ」
「いらない」
「じゃあ、僕が二つとも食べちゃうけど」
少し間があってから、ザリエルは無言でパンを受け取った。二人は歩きながら、パンをかじる。
やっぱり、あたたかい。
「終わるから、仲直りできるんだね」
ふと、フィニアがそう呟いた。それを聞いたザリエルの足が止まる。
「……終わるからよ」
ザリエルは冷たい声でそう言い放つ。感情を出さず、無表情で。
「永遠じゃないから、壊れる前に直すの」
「うん。でもさ」
下を向いているザリエルとは対照的に、フィニアは前を向いたまま続ける。
「終わるってわかってるのに、ああやって一緒にいる。それってすごいよね」
ザリエルは何も答えなかった。ただ、指先に残る温もりを、無意識に握りしめていた。
壊れるとわかっているなら、最初から触れなければいい。なのに、人間は互いに触れる。
歩幅が揃う。風が小麦を揺らす。
ザリエルはほんの一瞬だけ思った。
__もし、終わるのだとしても。
その先の言葉は、心の奥に閉じ込めた。まだ、何もかもを閉ざしたままでいい。
指先に残る温もり。これだけは消えることがなかった。




