一話
神様は、私を愛してはくれなかった。
『お前は失敗作、だから何もしなくていい』
そう言われ続けた、私は自分を守らないきゃいけなかった。
神様は私を大きな指で摘まんで、そのまま雲の下に投げ捨てた。
私は__堕ちてしまった。
それでも、生きている。
◆◆◆
朽ち果てた礼拝堂に、三日月が淡い光を与えている。祈りを捧げる人々は、もう長いこと姿を見せていなかった。
絨毯のように埃が辺りを埋め尽くしていて、壁は所々崩れている。対になった天使の像は、首から上が取れていた。
そんなこの場所で、ただ一人生きている者がいた。
生糸のような純白の髪が靡き、黄金に輝く金の瞳を揺らしている。黒いワンピースを身にまとっているが、裾の部分が裂けて尖っていた。
長椅子に寝そべっていたその者は、ゆっくりと椅子の上に立ち上がる。劣化した木材がキシキシと音を立てた。
__ばさり。
瞬間、広げられた翼。それは天使のようで、天使のものではなかった。
闇夜に溶けるような黒色。まるで死の象徴であるかのような、そんな色をしている。
翼より少し薄い黒色のワンピースは、もはや衣服というより残骸に近かった。焼け焦げたような裂け目が裾を走り、布端は乾いた血液のように硬く波打っている。
胸元の刺繍はほつれ、赤い糸が垂れている。それが何の模様だったのか、もう判別はつかない。
風で埃が舞い上がる。ここには誰も来ない、来てはいけない。何故なら__
その時、崩れかけた扉がわずかに軋んだ。
「……誰かいるの?」
「いるよ」
礼拝堂をこだまする返事。それは子供の声だった。
「こんにちは、君が噂の悪魔さん?」
「……悪魔じゃないわ、私は天使よ」
「ふぅん、それにしては全体的に黒いんだね」
扉の隙間から差し込む月光の中に、一人の少年が立っていた。蜂蜜を溶かしたような淡い髪が、生ぬるい風に揺れている。
その瞳は、不思議なほどに明るかった。怖がっていない。寧ろ__楽しそうにこちらを見ている。
「ね、名前はなんて言うの?」
「……教えて何になるの」
「うーん……何にもならないね」
この場所に似つかわしくない笑顔を浮かべ、一歩ずつ歩み寄ってくる。
「帰りなさい、ここはあなたみたいな子が来る場所じゃないわ」
「じゃあ、名前教えて。そしたら帰るかもよ」
一つため息を零して、ゆっくりと口を開いた。
「__ザリエル」
黒い翼を持った少女は、ザリエルと名乗った。その響きはどこか美しく、触れればたちまち壊れてしまいそうだった。
「へえ、ザリエル。その翼は本物?」
「いいから帰りなさい」
少年は立ち去るどころか、ますます興味を示してザリエルへ近づいていく。少年の表情は、砂漠で水を見つけたかのような、そんな希望に満ちていた。
「ね、触ってもいい?」
「やめなさい」
「どうして?」
「"減る"わよ」
ザリエルは少年を肉食獣のように睨む。しかし、それでも少年は動じなかった。
「減ったら、増えるかな」
「何が」
「僕の寿命」
少年はとうとう、ザリエルの目の前まで来てしまった。そして、また一歩踏み込む。
彼は躊躇うことなく距離を詰めた。月光の中、細い指先が伸びていく。
ザリエルはそれを避けることはなく、ただ静かに立っていた。
何故なら__どうせ『減る』だけだから。
少年の指先が、翼に触れた。その瞬間、ザリエルの胸の奥が冷たく軋んだ。
沈黙の中、少年は胸に手を当てていた。何かを確かめるように。
「……やっぱりね」
空色の瞳と目が合った。それは依然として生気にあふれ輝いている。しかし、今のザリエルにとっては酷く不気味に感じられた。
「何も、減ってないよ」
怖がらない少年に動揺するザリエルの頬を、少年は優しく包んだ。
「僕は不老不死なんだよ。だから、ずっと死ねないんだ」
「は……」
「だけど、君と一緒なら天国へ行けるかも」
ザリエルは金の双眸を揺らし、自分の頬にある少年の手に触れた。
「……親密にはなれないわ」
「どういうこと?」
「私はね、仲良くなった人の寿命を奪ってしまうの」
ザリエルは苦しげな表情をしてそう言った。目を閉じて眉をひそめている彼女はきっと、過去を思い出しているのだろう。
しかし、少年は少し考えた後にこう言った。
「僕たち、これから仲良くなろうよ」
それは、誰にでも訪れるはずの『死』を悲願していた。
ザリエルは考える。この少年は、どれほどの時を経てここにいるのだろうかと。彼は、大切な人を何人失ったのだろうかと。
「そ……れは……」
心の距離が近づくほどに、相手の命は脅かされる。彼は不老不死と言っているが、実際は?
もし、少年の寿命に限りがあったなら?
「もし、僕の寿命を奪えるならそれで終わるし」
「まって、それ以上は」
「奪えないなら、君はひとりぼっちじゃなくなる」
ザリエルは目を大きく見開き、その金色から大粒の涙を流した。長年の間孤独だった彼女にとって、それは救いであり呪いのような言葉だった。
「……あなたは、これからどうしたいの?」
「このまま旅を続けるかな」
「旅人だったのね」
「世界を旅してると、同じ場所に戻った時に色々変わってるから。それを見て回ってるんだ」
少年はザリエルから一歩離れて、手を差し伸べた。
「君も一緒に来てよ。願わくばそのまま僕を殺してほしい」
なんて残酷で__素敵な提案なんだろう。
「……いいわ、私を連れてってちょうだい」
「そうこなくっちゃね! よろしくね、ザリエル」
「……あなたの名前は?」
ザリエルがそう聞くと、少年は微笑みながら名乗った。
「僕の名前は__フィニアだよ」
月光に照らされたその微笑は、今まで見てきたどんなものよりも美しく、儚いものだった。
「さあ、外に出よう。今日は三日月が綺麗だよ」
フィニアはザリエルの手を引いて、礼拝堂の扉まで連れて行く。しかし、そこで手を離して彼は先に外へ出た。
「自分で出ておいでよ」
「あ……」
恐る恐る、足を前へと動かした。裸足に草が当たってこそばゆい。風が少し冷たくて、でも心地よい。
そんな自然を感じながら、ザリエルは後ろを向いた。
礼拝堂の中にある首のない天使の像を見て、彼女はその両翼を畳んだ。
『ここに戻ってこないことを願うわ』
そう呟いて、ザリエルはフィニアの方へ向き直した。
「行きましょう」
「よし、出発!」
夜空を見上げながら、目的もなく自由に歩いていく。二つの影が、月下に並んでいた。
その夜、堕天使は初めて自ら外へと歩き出した。




