悪役令嬢の初夜、氷の公爵が土下座「娘の愛し方を教えて」!?監視が酷いのでドレスのまま木登りして窓から不法侵入し、毎日娘を溺愛。虐待したクソババアの乳母は生きたまま凍らせ「観光名所」として永久展示します
「頼む、エリカ……。私に、娘の愛し方を教えてくれ」
結婚式の夜。
この国の宰相にして筆頭公爵である私の夫。
クライド・フォン・ローゼスが、絨毯に膝をつき、私の前で深く頭を下げていた。
銀色の髪に、吸い込まれそうな紫紺の瞳。
整いすぎた美貌と、一切の妥協を許さない冷徹な仕事ぶりから、世間では『氷の公爵』と恐れられている男だ。
その氷のような瞳で睨まれれば、屈強な騎士でさえも震え上がるという。
そんな彼が今、まるで雨に濡れて捨てられた大型犬のような情けない顔で、新妻である私に懇願しているのだ。
(……なんですって?)
私の名前はエリカ。
きつい目つきと、派手好きで知られる真っ赤なドレス。
そして何より、思ったことを包み隠さずズバズバと言う性格から、社交界では「評判の悪い令嬢」として敬遠されている女。
有り体に言うなら、『悪役令嬢』というやつだ。
この世界に転生して以来、私はこの悪役令嬢という役割をそれなりに気に入って生きてきた。
誰に媚びる必要もないし、間違っている奴には堂々と喧嘩を売れる。
私の前世の仕事は保育士。
その保育士時代、モンペ相手に愛想笑いを浮かべて胃を痛めていた頃に比べれば、今の生活は天国だ。
そんな私に、なぜか国一番の優良物件であるローゼス公爵家からの縁談が舞い込んだのが一ヶ月前。
そしてまさか、その記念すべき初夜に、こんな情けないセリフを聞くことになるとは。
「クライド。愛し方を教えろ、とはどういう意味? ご自分の娘でしょう?」
私が呆れて尋ねると、クライドは苦渋に満ちた表情で顔を上げた。
「言葉通りの意味だ。……私には、3歳になる娘のリリがいる。知っているだろう?」
「ええ。亡くなられた前妻様との間の」
噂は聞いている。
前妻の名はミラルダ。
誰もが認める淑女であり、聖女のように慈悲深く、それは美しい女性だったと聞く。
けれど、彼女はリリちゃんを産んですぐ、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまった。
そしてクライドは、愛する妻を失ったショックで心を閉ざし、仕事に没頭する冷血漢になったと。
娘に関心を示さない、冷酷な父親だと。
だからこそ、この結婚は「互いに干渉しない、冷え切った政略結婚」になると思っていた。
「私は……リリが怖いんだ」
クライドが、震える声で告白した。
「怖い? 天下の『氷の公爵様』が、3歳の幼児を?」
「ああ。あの子が生まれた時……あまりにも小さくて、儚くて。私が触れたら、壊れてしまいそうだった」
クライドは自分の大きな手を見つめ、ギュッと握りしめる。
「それに、ミラルダは私のせいで死んだ。私が……私が彼女を殺したようなものだ。そんな罪深い私が、彼女が命懸けで残した宝物に触れていいはずがない」
彼は悔しそうに唇を噛み、涙を堪えるように俯いた。
「どう抱けばいいのか、どう声をかければいいのか分からなかった。……そうして私が迷っている間に、リリと私の溝は深まってしまった」
「……それで?」
「今さらだが……リリに近づこうとしても、乳母が止めるんだ。『旦那様が近づくと、リリ様は怯えて発作を起こす』と」
発作。
その単語に、私の保育士としてのアンテナがピクリと反応した。
「……発作、ですか?」
「ああ。私が部屋に入ろうとすると、リリは火がついたように泣き叫び、過呼吸を起こすらしい。イザベルが言うには……リリは本能的に感じ取っているそうだ。私が母親を殺した男だと。私の体に流れる血が、あの子を苦しめているのだと」
クライドは顔を覆った。
「私は、リリに嫌われている。近づくだけで娘を苦しめてしまうなら、遠くから見守るしかないじゃないか……ッ!」
バンッ! と床を叩き、再び頭を抱えるクライド。
その姿を見て、私は呆気にとられ、そして次に――強烈な違和感を抱いた。
イザベル。
この屋敷に古くから仕える乳母の名前。
クライドの乳母でもあり、亡きミラルダ様からも絶大な信頼を得ていたという老婆。
私は結婚が決まってから、何度かリリちゃんに会おうとしたことがある。
子供は大好きだし、これから母親になるのだから仲良くなりたくて。
けれど、その度にイザベルに「リリ様は体調が優れません」「人見知りが激しいので」「亡き奥様以外は受け付けませんので」と、頑なに面会を拒絶されたのだ。
(……なんか、胡散臭いんだよな、あのおばさん)
長年、保育士として様々な家庭の闇を見てきた私の勘が告げている。
これは、ただの「不器用なパパ」の話じゃない。
3歳児が、父親を見ただけで毎回過呼吸になる?
そんなことがあり得るだろうか?
どれだけ嫌われていようと、生理的な拒絶反応が出るには、相応の「理由」があるはずだ。
クライドのリリちゃんに対する気持ちに偽りはない。
それはクライドを見ていればわかる。
もっと悪質な、誰かの悪意が介在している。
「クライド。貴方、そのイザベルという乳母を信頼しているの?」
「ああ。彼女は私を育ててくれた乳母だ。私にとって母親代わりのような人で、ミラルダ亡き後も、リリのことを献身的に見てくれている。彼女がいなければ、リリはもっと早くにダメになっていただろう」
「……そう」
私はニヤリと、悪役令嬢らしい不敵な笑みを浮かべる。
なるほどね。
育ての親への信頼と、妻を失った罪悪感を利用して、主人の目を曇らせているわけか。
有り得ない話じゃない。
というより、可能性は高そう。
根拠はない。
これは私の保育士としての『勘』。
いいでしょう。
イザベル、あなたがリリちゃんを使って何かを企んでいるなら、その腐った根性、私が叩き直してあげる。
「クライド。その依頼、引き受けましたわ」
「ほ、本当か!?」
「ええ。リリちゃんのためなら、どんな真実が待っていても受け入れる覚悟はありまして?」
「もちろんだ! リリのためなら、命だって投げ出す! 私の財産も、地位も、全てなげうっても構わない!」
「言いましたね? なら、まずは現状確認です」
私はドレスの裾を翻し、立ち上がった。
「……まずは、私に任せてもらいましょうか」
◇◆◇
翌日。
クライドが数日間の出張に出かけたのを見計らって、私はリリちゃんの部屋がある西棟へと向かった。
リリちゃんの部屋の前には、見張り番のように乳母のイザベルが立っていた。
白髪をひっつめ髪にし、黒いドレスを着た、いかにも厳格そうな老婆だ。
私が近づくと、彼女は眉間のシワを深くし、露骨に嫌そうな顔で立ちはだかった。
「奥様。リリ様は今、お祈りの時間です。部外者の立ち入りは固くお断りしております」
(部外者……ねぇ)
「お祈り? まだ3歳の子供に?」
「ええ。亡きお母様、ミラルダ様へのお祈りです。リリ様は信心深いお方ですから」
イザベルは胸の前で手を組み、陶酔したように恍惚とした表情で天を仰いだ。
「あの方はおっしゃっていました。『リリには、私のように清く正しく育ってほしい』と。ですから私は、リリ様に厳しく教育しているのです。それが、亡き奥様への忠義ですから」
「……へぇ」
私は目を細めた。
忠義、心酔……ってとこか。
「どきなさい。私はこの屋敷の女主人、エリカ・フォン・ローゼスよ。娘の顔を見る権利くらいあるはずだわ」
「いいえ、なりません!」
イザベルは声を荒げ、私の前に仁王立ちした。
「リリ様は繊細なのです! あなたのような……派手で、品のない方が近づけば、リリ様の清らかな魂が汚れてしまいます! ミラルダ様も、決して望まないでしょう!」
「死人の言葉を代弁するなんて、あなたは何様?」
「なんと不敬な! ミラルダ様への冒涜ですよ!?」
イザベルがヒステリックに叫ぶ。
このまま力ずくで押し入ることもできる。
私の腕力なら、この程度の老婆を突き飛ばすことなど造作もない。
だが、騒ぎになれば、部屋の中にいるリリちゃんが怯えてしまう。
それに、もし本当にリリちゃんが「パパ(と、それに関わる大人)」に対して過呼吸を起こすほどのトラウマを持っているなら、正面突破は逆効果だ。
「……ふん。分かったわよ。そこまで言うなら、出直すわ」
私はあえて、不機嫌そうに踵を返した。
「ですが、覚えておきなさい。この家の主人が誰なのかを」
「ふん。お飾り公爵夫人が、何を偉そうに……」
背後でイザベルが吐き捨てるのが聞こえた。
私は廊下の角を曲がったところで、ピタリと足を止めた。
扇で隠していた口元が、三日月形に吊り上がる。
(……なーんてね♡)
正面がダメなら、裏口がある。
裏口がダメなら?
窓がある。
窓があるなら?
窓から入りゃいいじゃん?
私は自室に戻ると、クローゼットを開け放った。
地味で動きやすい服? そんなものはこの優雅な公爵家にはない。
私が選んだのは、一番フリルの多い、最高級のシルクで作られたピンク色のドレスだ。
ふわりと広がるスカートには、無数のレースとリボン。
お値段、金貨30枚。
なんと、庭師のお給料5年分!
クライドが「リリは、ミラルダが残したお姫様の人形を大切にしている」と言っていたのを思い出したから。
子供の心を掴むなら、まずは見た目から。
「さあ、お茶会の時間よ、リリちゃん」
私は庭に出た。
リリちゃんの部屋は二階。その窓のすぐ横には、立派な樫の木が枝を伸ばしている。
私はハイヒールを脱ぎ捨て、裸足になった。
ドレスの裾をまくり上げ、幹に足をかける。
公爵夫人としてはありえない? 知ったことか。
前世では、園庭の木に登って降りられなくなったわんぱく園児を救出するために、毎日木登りをしていた。
この程度の木、ジャングルジムみたいなものだ。
「よっ、と……!」
私は幹を蹴って、枝に飛び移った。
ビリィッ!
盛大な音がして、ドレスのスカートが裂ける。
レースが枝に引っかかり、悲惨なことになった。
「あらら……。ま、いっか、動きやすくなったと思えば」
髪にも葉っぱがついた。顔にも汚れがついた気がする。
でも、構わない。
私は枝を伝って、リリちゃんの部屋のバルコニーへと飛び移った。
カーテンが閉め切られた窓。
私は呼吸を整え、極上の笑顔を作って、ガラスをコンコンと叩いた。
しばらく反応がなかったが、やがてカーテンが少しだけめくれた。
隙間から、怯えたような紫色の瞳がこちらを覗く。
私は笑顔で手を振ってみせた。
リリちゃんは驚いたように目を見開き、恐る恐る窓の鍵を開けた。
「……だれ……?」
窓が開き、小さな女の子が顔を出す。
銀色の髪は手入れされておらずボサボサで、肌は病的なまでに白い。
痩せこけた頬。虚ろな瞳。
胸が締め付けられるような姿だった。
でも、私はそれを表情に出さず、ニカっと笑ってみせた。
「はじめまして! 私はエリカ。あなたの新しいママよ(自称)」
「……えりか……?」
リリちゃんは、私の姿をまじまじと見た。
髪には枯れ葉、頬には泥、そしてドレスはビリビリに裂けて、裾からはレースがダラリと垂れ下がっている。
「……おばけ?」
「失礼な! どこからどう見てもお姫様でしょ!」
私がふんぞり返ると、リリちゃんはポカンとして、それから。
「……ぷっ」
小さく吹き出した。
「おひめさまなのにボロボロ……変なの」
「木登りしてきたからね。リリちゃんに会いたくて、お空から降ってきたのよ」
「そらから……?」
「そう。これ、お土産」
私は裂けたポケットから、ハンカチに包んだクッキーを取り出した。
木登りに耐えきれず粉々になっていたが、まあ、味は変わらない。
次は気をつけよう。
「食べる?」
リリちゃんの目がクッキーに釘付けになる。
ゴクリ、と喉を鳴らす音が聞こえた。
おずおずと手を伸ばし、小さな欠片を口に入れる。
その瞬間、リリちゃんの瞳が輝いた。
「……おいしい!」
「でしょ? 特別製だもの」
リリちゃんは夢中でクッキーを食べ始めた。まるで、何日もまともに食べていなかったかのように。
私はバルコニーの手すりに腰掛け、その様子を優しく見守った。
◇◆◇
それから、私の「木登り訪問」は日課になった。
正面から行くとイザベルがピーチクパーチク煩くて鬱陶しいので。
私は毎日ドレスを着て木を登る。
毎日、ドレスはボロボロになり、替えのドレスは減っていく一方。
リリちゃんは、私が窓を叩くのを楽しみにしてくれるようになった。
私が窓枠に姿を現すと、暗い部屋の中でうずくまっていたリリちゃんが、パッと顔を上げて駆け寄ってくる。
その姿が、可愛くて可愛くてたまらない。
もはや、私が産んだ覚えがあるレベルの天使だ。
「エリカ! きょうはあかいドレスだ! 可愛い!」
「ええ、今日はバラの妖精のイメージよ。途中でトゲに引っかかって、本当に血が出そうになったけど」
「ふふっ、エリカおもしろい」
リリちゃんはよく笑うようになった。
賢くて、優しい子だ。
私が持っていった絵本を読み聞かせると、食い入るように見つめ、時には「これはなに?」と質問してくる。
そんな時間が愛おしくてたまらなかった。
イザベルは部屋の中に私が居るなんて、考えもしてない。
そりゃそうか。
二階だし、公爵夫人が木を登って窓から侵入してるなんて思いつくわけがない。
でも、部屋の外には立って警戒してる。
だから私たちはいつも小声でコソコソと話す。
二人で秘密基地にいるみたいで、それはそれで楽しかった。
けれど、リリちゃんは決して部屋の外に出ようとはしなかった。
そして、パパの話になると、貝のように口を閉ざしてしまうのだ。
◇◆◇
ある日。
私はいつものように窓から侵入し、リリちゃんと床に座って遊んでいた。
リリちゃんが、大切そうに抱えている古い人形を撫でている。
「ねえ、リリちゃん。外のお庭、お花がいっぱい咲いてるよ。この部屋から出て、一緒にお散歩しない?」
私が誘うと、リリちゃんの手が止まった。
彼女は首を横に振る。
「……だめ。ばあやが、だめっていった」
「どうして?」
「おそとは、こわいことがいっぱいだから。リリは、おへやで『おいのり』してなきゃだめだって」
リリちゃんは、部屋の隅に飾られたミラルダ様の肖像画を見上げた。
「ママがね、みてるの。リリがいいこにしてるか、ずっとみてるの」
「……」
(……そうか、あのクソババア、それでリリちゃんを従わせてるのか)
亡き母親を敬うのは良いことだ。
だが、それを「監視」として使い、子供を部屋に縛り付けるのは、ただの虐待だ。
私はリリちゃんの頭を撫でた。
「そっか。……でもね、パパもリリちゃんと遊びたいって言ってたよ? パパにも会いたくない?」
私がクライドの話題を出した瞬間だった。
リリちゃんの体が、ビクリと大きく跳ねた。
そして、顔色がサァッと青ざめ、ガタガタと震え出したのだ。
「……いや……いやっ……!」
「リリちゃん?」
「パパ、あわない……! パパにあうと……いたい……!」
リリちゃんは自分の二の腕を抱きしめ、蹲った。
「いたい……『ちっくん』、する……!」
ちっくん?
私は眉を顰めた。
注射の幼児語ではよく聞くけど、いや、リリちゃんは健康そのもの(栄養失調気味だが)で、毎日医者が来ているわけではない。
私はリリちゃんの震える肩に手を置いた。
「リリちゃん。……見せて」
「いやぁ……!」
「大丈夫。エリカは痛いことしない。約束する」
私は抵抗するリリちゃんを優しく宥め、抱きしめている二の腕の袖を、そっとまくり上げた。
息が、止まった。
そこには。
白く細い腕に、無数の「赤い点」があった。
虫刺されではない。
針のような鋭利なもので突かれた、真新しい傷跡。
さらに、古くなって黄色く変色した痣や、つねられたような青い痕が、背中や脇腹にいくつもあった。
――旦那様が近づくと、リリ様は怯えて発作を起こすのです。
イザベルの言葉が蘇る。
――パパにあうと、いたい。
リリちゃんの言葉と繋がる。
過呼吸? 本能的な拒絶?
これはそんなチャチな話じゃない。
私は、これを知ってる。
保育士の知識、なめんなよ。
虐待をどうやってするか。どうやって子供にそれを受け入れさせ懐柔させるか。
こっちは知ってる。
(……ふざけんなよ……クソババア)
これは、条件付けだ。
クライドが部屋に来るタイミングに合わせて、イザベルがリリちゃんに痛みを与えている。
見えない角度から針で刺し、つねり、恐怖を植え付けた。
「パパが来る」=「激痛が走る」と、幼い脳に刷り込んでるんだ。
だからリリちゃんは、クライドの姿を見るだけで泣き叫び、パニックを起こしていた。
それを「父親を嫌っている」と、イザベルは説明していたのか。
クライドの罪悪感を利用して。
母親を失ったリリちゃんの孤独を利用して。
――ブチッ。
私の中で、何かが切れる音がした。
保育士として、そして今は、リリちゃんの母として、絶対に許せない一線がある。
それは、大人の都合で、子供の心を壊すことだ。
「……リリちゃん」
私は震えるリリちゃんを、折れそうなほど強く抱きしめた。
「ごめんね。気づくのが遅くなって」
ドレスの袖で涙を拭う。
怒りで視界が真っ赤に染まる。
歯を食いしばりすぎて、唇を強く噛み締めすぎて、口の中に血の味が広がる。
私は、子供たちの笑顔を守るために戦ってきた、プロの保育士だ。
「……OK。地獄行きね」
私はリリちゃんの耳元で囁いた。
「えっ? なぁに……?」
「なんでもない。大丈夫よリリちゃん。……悪いお化けは、エリカとパパが退治してあげるからね」
その日の夜は、クライドが出張から帰ってくる日でもあった。
私はボロボロのドレスのまま、帰宅したクライドを寝室で待った。
灯りもつけずに。
そして、私の手には、昼間こっそりスケッチした、リリちゃんの傷の記録があった。
◇◆◇
ガチャリとドアが開き、疲労の色を滲ませたクライドが入ってきた。
「……エリカ……? なぜ灯りもつけずに……」
彼は月明かりの中に浮かび上がる私の姿を見て、息を呑んだ。
「き、君……その格好は、いったい……?」
無理もない。
今の私は、最高級のシルクが引き裂かれ、泥と葉っぱにまみれた、とても公爵夫人とは思えない姿なのだから。
髪など鳥の巣のようになっている自覚がある。
「木登りをして窓からリリちゃんの部屋に入りましたの。正面突破が無理なら、空から行くしかありませんもの」
「き、木登り……」
クライドは美しい顔を歪めて口をあんぐりと開けたが、すぐに気を取り直して身を乗り出した。
私の姿よりも、もっと重要なことに気づいたからだ。
「そ、それで! リリは!? リリはどうだった!? 元気か!?」
「……ええ。リリちゃんは病気などにはかかっていないわ。私とも笑顔でお話をしてくれてる」
私はゆっくりと近づき、彼の目の前のローテーブルに、一枚の紙を力強く叩きつけた。
バンッ!!
乾いた音が、静寂な寝室に響く。
「これは……?」
「私が描いたスケッチです。今日の午後、リリちゃんの体を確認した時の」
クライドがロウソクに灯りをともし、恐る恐る紙を手に取る。
ゆらめく火の灯りに照らされ、そこに描かれた惨状が露わになる。
細い腕や背中に刻まれた、赤い点。
変色した古い痣。
そして、つねられたばかりの青い痕。
「な……んだ、これは……」
クライドの声が震え、紙を持つ指先が白くなるほど力が込められる。
「見て分かりませんか? 刺し傷と、殴打の痕です」
「まさか……リリが……? 誰が……」
彼は信じられないものを見るように私を見上げた。
「……誰が? イザベルしかいないでしょ」
私が告げると、クライドは大きく首を振った。
「バカな! 彼女は私を育ててくれた乳母だぞ!? ミラルダも信頼していた! そんな彼女が、あんな幼い子に……!」
「信頼していたからこそ、でしょうね」
私は冷徹に、残酷な事実を突きつける。
「クライド。貴方が部屋に行こうとすると、リリちゃんが泣き叫ぶと言いましたね?」
「あ、ああ……」
「それは、貴方を嫌っているからじゃない。貴方が近づくタイミングに合わせて、イザベルが針でリリちゃんを刺していたからよ」
「――は?」
クライドの思考が停止する音が聞こえた気がした。
瞳の焦点が合わず、呆然と口を開けている。
「条件付けというのをご存知? 『パパが来る』と『激痛が走る』。これを繰り返されると、子供はパパの姿を見ただけで、反射的に痛みを思い出してパニックになるの」
私はクライドの目を、逃さないように真っ直ぐに見つめた。
「リリちゃんは貴方を嫌ってなんていない。ただ、痛くて怖かっただけ。……貴方が『リリのため』と思って距離を置いている間も、あの子はずっと部屋の中で、その痛みと戦っていたのよ。ひとりでね」
「あ……あぁ……」
クライドの手から、スケッチがひらりと滑り落ちる。
彼の顔から、みるみる血の気が引いていく。
理解してしまったのだ。
自分の「遠慮」や「我慢」が、結果として最愛の娘を地獄に突き落とし、拷問を長引かせていたという事実を。
「私が……私が、リリを……守るどころか、地獄に……」
ガタガタと、クライドの全身が震え出す。
その瞬間。
ピキキッ……!
部屋の空気が、急激に冷え込んだ。
テーブルの水差しが瞬時に凍りつき、窓ガラスに美しい氷の華が咲く。
クライドの魔力だ。
あまりの絶望と自己嫌悪で、彼の制御が外れかけている。
「うあああああッ!! 私はッ!! なんてことを!! 殺してやる……私自身をッ!! 死んで詫びなければ……ッ!」
彼の周囲から冷気が噴き出し、床が白く染まっていく。
このままでは屋敷ごと氷漬けになりかねない。
「およしなさい! みっともない!」
パァァンッ!!
盛大な破裂音が響いた。
私がクライドの頬を思い切り引っぱたいた音だ。
クライドが呆然と私を見る。
左頬が赤く腫れ上がっている。
「……エリカ……?」
「しっかりなさい、このバカ!」
私は彼の胸倉を掴み、無理やり顔を近づけた。
「泣いてる暇があるなら怒りなさい! 自分を殺して何になるの!? そんなことをして、リリちゃんが喜ぶと思ってるの!?」
「だが……私は取り返しのつかないことを……!」
「取り返せばいいでしょう! 貴方はリリちゃんの父親なんでしょう!? あの子が助けを求めてるのに、どうして真っ直ぐ見てあげようとしないの!」
私の剣幕に、クライドが息を呑む。
私は彼の揺れる紫紺の瞳を睨み据えた。
「リリちゃんはまだ生きてる。貴方を待ってる。……泣いて詫びるのは、あの子を救い出してからにしてよ」
私の言葉に、クライドの瞳に少しずつ光が戻る。
それは絶望の光ではない。
底冷えするような、鋭く、強烈な殺意の光だ。
「……そうだな……すまない」
クライドが低く呟く。
部屋の温度が、さらに下がった気がした。だが、今度は暴走ではない。彼が意識的に魔力を研ぎ澄ませているのだ。
氷の公爵。その二つ名に相応しい、絶対零度の怒り。
「許さない……。私の宝を。ミラルダが命懸けで残した愛娘を……傷つけた害虫を」
「ええ。その意気よ」
私はニヤリと笑い、彼の耳元で悪魔のように囁いた。
「私たちの天使を傷つけたあの女に、生きていたことを後悔させるような『地獄』を見せてやりましょう?」
「ああ……。手を貸してくれ、エリカ」
「喜んで」
私たちは夜の闇の中で、復讐の誓いを立てて、口付けを交わした。
◇◆◇
翌朝。
屋敷の玄関ホールで、クライドは旅装に身を包んでいた。
見送りには私と、そして使用人たちが整列している。
もちろん、その中には乳母のイザベルもいた。
「急な視察ですまない。領地の北端でトラブルがあったそうだ。一ヶ月は戻れないだろう」
クライドが大声で告げる。
「エリカ! 留守を頼んだぞ」
「ええ、お気をつけて。旦那様」
私たちは視線を交わし、短く頷き合った。
クライドが馬車に乗り込み、屋敷を去っていく。
その背中を見送るイザベルの口元が、微かに、本当に微かに緩んだのを私は見逃さなかった。
(せいぜい、今のうちに笑っとけば? クソババア)
馬車が見えなくなると、イザベルはふんぞり返るように私を見た。
その態度は、もはや使用人のものではない。
「さて、奥様。旦那様もいらっしゃいませんし、私はリリ様の教育に戻りますわ。邪魔をしないでくださいましね」
「あら、精が出るわね」
私は扇を開き、優雅に微笑んだ。
「でも、今日は私も教育に参加させてもらおうかしら」
「はぁ? 何を言って……」
「行きましょう。リリちゃんの部屋へ」
私はイザベルの返事も待たず、走って階段を上がった。
「お、お待ちなさい!!」
慌てて追いかけてくるイザベル。
リリちゃんの部屋の前。
私がドアを開けようとすると、イザベルが息を切らして割り込んできた。
「困ります! 今は大事なお祈りの時間です!」
「どきなさい」
私は有無を言わさぬ迫力でドアに手をかける。
しかし、ドアには鍵が掛かっていた。
「イザベル。開けなさい。これは命令よ」
「はっ! 命令!? あなたごときが? この私に?」
「私は優しいから、もう一度言ってあげる。今すぐ、ここを開けろ、このババア」
「バ……ッ!? なんて口をきくのですか!? 公爵夫人ともあろうお方が!!」
私はハンカチでわざとらしく鼻を覆った。
「くっさ。もういいわ。喋らないで、汚物の匂いがする」
「なっ!?」
イザベルは顔を真っ赤にして怒りをむき出しにしている。
「……もういいわ、手荒なことしたくなかったけど、開ける気ないなら仕方ないよね」
私はドアの前から大きく距離をとった。
「な、なにを……」
「喋んなっつったろ」
私は全力でダッシュをし、その勢いのままドアを思い切り蹴り飛ばした。
凄まじい音が響き、ドアがギィッ……と開いた。
(足……いった……!! でも、鍵壊せた!)
その部屋の中には、いつものように肖像画の前でうずくまるリリちゃんの姿があった。
「リリちゃん!」
「……エリカ!」
私の声を聞いて、リリちゃんがパッと顔を輝かせる。
駆け寄ろうとするリリちゃんを、私が受け止めようとした時、イザベルが私を突き飛ばし、リリちゃんの腕を乱暴に掴んで止めた。
「お待ちなさい! 行儀が悪いですよ!」
「痛いっ……!」
リリちゃんが顔をしかめる。
イザベルの爪が、細い腕に食い込んでいる。
その光景を見た瞬間、私の頭の血管がブチ切れた。
「離しなさい!」
私はイザベルの手を払いのけた。
そして、リリちゃんを背に庇い、イザベルと対峙する。
「……何をするんですか、奥様」
イザベルが低く唸る。
「貴女こそ、何をしているの? リリちゃんの腕、傷だらけじゃない。……これが貴女の言う『教育』?」
「……フン」
イザベルは鼻で笑った。もう隠せないとたかを括ったようだ。
「躾ですよ、躾。この子はね、ミラルダ様に似て、とても生意気なんですよ。少し痛い思いをさせないと、言うことを聞かないんです」
「……ミラルダ様に似て? 貴女、ミラルダ様を崇拝していたんじゃなくて?」
「崇拝? ハッ! あんな女!」
イザベルの顔が醜く歪んだ。
「あいつさえいなければ! あいつさえ来なければ、お坊ちゃまはずっと私だけのものだったのに! 私が育てたのよ! 私の最高傑作なのよ! それを横から掠め取って……挙句にこんなガキを残して死ぬなんて、迷惑にも程があるわ!」
これが、こいつの本性か。
忠義心など欠片もない。ただの独占欲と、歪んだ執着心。
リリちゃんは、こいつにとって恋敵の忘れ形見であり、クライドを自分だけに依存させるための道具でしかなかったというのか。
「……最低」
「うるさい! お前もよ、このメス猫が! お坊ちゃまの隣に立っていいのは、私だけなのよ!」
イザベルが叫んだ、その時だ。
「――そうか。それが貴様の本音か」
廊下から地獄の底から響くような声がした。
イザベルが凍りつく。
「だ、旦那様……?」
そこには、出発したはずのクライドが立っていた。
その瞳は、冷たく、昏い怒りを宿している。
周囲の空気がビリビリと震えているのが分かる。
「な、なぜ……ご出発されたはずでは……」
「罠だとも知らずに、よく全て喋ってくれたな」
クライドが一歩踏み出すたびに、床がパキパキと音を立てて凍りついていく。
「リリへの虐待。私への欺瞞。……貴様の罪は、万死に値するぞ。……何度殺しても、足りん」
「ひっ……! わ、私はあなたを愛していただけなのにっ!」
イザベルが後ずさる。
逃げ場などどこにも無い。
追い詰められたイザベルの目が、狂気に染まった。
「くるな……来ないで!!」
彼女は懐から長い裁縫針を取り出し、私の太ももに突き刺した。
「ぐっ!?」
私が体勢を崩した隙に、背後にいたリリちゃんの手を掴んで引き寄せた。
「エリカ!」
クライドが目を見開いて叫ぶ。
「いい! 構わないで! リリちゃんだけを見て!」
「……っ!」
「動くな! 動くとこのガキの目玉を潰すよ!!」
イザベルは針の切っ先を、リリちゃんの大きな瞳に向けた。
「リリ!!」
クライドが叫ぶが、動けない。
魔法を放てば、リリちゃんも巻き込んでしまう。
「ははは! ざまあみろ! お坊ちゃま、私を捨てるからいけないのよ! あんな女に子供まで産ませて……。今度はこの品のない女! 見る目がないにも程がある!」
「……私はあなたに尽くしてきたというのに! 何度もお風呂だって入れてあげたのに! あなたが私の想いを無視し続けるなら、このガキの顔に一生消えない傷を刻んでやるわ! 私を公爵夫人にするのよッ!! 私を愛しなさい!!」
錯乱し、喚き散らすイザベル。
醜い。
自分の保身のために子供を盾にする、その精神性が。
反吐が出る。
私はうつむき、小刻みに震えていた。
「あら……奥様、怖くて動けませんか? プルプル震えていますよ? 足を刺された痛みで、立ち上がることすら出来なくなりましたか!? 母親だと言っておきながら、所詮その程度なんでしょう!?」
イザベルが嘲笑う。
私は静かに息を吐き、そして顔を上げた。
「……くっ、ふふっ」
笑いがこみ上げてくるのを止められない。
「な、なにがおかしいのよ!」
「勘違いしないでちょうだい。私が震えているのはね……『嬉しくて』たまらないからよ」
「は、はぁ!?」
私はドレスの隠しポケットから扇を取り出した。
「だってそうでしょう? 貴女、自分からリリちゃんに凶器を向けた。人質に取った」
私はヒールを脱ぎ捨て、裸足になって床を踏みしめた。
カーペットの感触を足の裏で確かめる。
刺された太ももは、ジンジンしてるけどアドレナリンが出てるお陰で今は痛みを感じない。
「つまり貴女はもう、屋敷の使用人でもなければ、守られるべき老人でもない。――ただの『排除すべき害獣』に成り下がったってことよ」
「な、なにを……! 変な真似をしたらこのガキを刺すわよ! 本当に……!」
イザベルの手が震え、針がリリちゃんに触れそうになる。
「――よそ見をしていていいのかしら?」
「え?」
イザベルが瞬きをした、その一瞬の隙。
私は床を蹴った。
子供に危険が迫った時の保育士の動きは、特殊部隊並みに速いってあるあるネタ、知らないの?
毎日、ドレス姿で大木を登り降りして鍛えた私の脚力は伊達じゃない。
でなきゃ、ドアなんか蹴破れるわけないでしょ。
ドンッ!
爆発的な加速で距離を詰め、私は扇を振り抜いた。
バシィッ!!
「あぎゃっ!」
扇がイザベルの手首を正確に打ち抜く。
骨が砕ける嫌な音がして、針が床に落ちた。
私は間髪入れずにリリちゃんを抱き寄せ、反転し、空いた右手でイザベルの顔面をフルスイングで殴り飛ばした。
「私の娘に触んな!」
ドガァッ!
イザベルは数本の歯を撒き散らしながら吹き飛び、壁に激突してずり落ちた。
私はリリちゃんを強く抱きしめる。
「リリちゃん! 大丈夫!? 怪我はない!?」
「う、うん……エリカ……すごぉい……」
リリちゃんは目を丸くして私を見上げていた。
「ああ……よかった……」
私はホッと息をつき、クライドに向かってウィンクした。
「……あと、任せたよ、パパ」
クライドは私の化け物じみた動きを見て、呆気に取られていたが、すぐに我に返った。
そして、まるでゲームのラスボスの魔王のような顔をした。
「……よくも。私の命と、私の魂を侮辱してくれたな」
クライドが右手をかざす。
「……エリカとリリは……私の太陽だ。お前のような穢れきっている化け物が……二人の光を遮るな!」
這いつくばって逃げようとしていたイザベルの周囲に、青白い魔力の光が集束していく。
「ひぃっ!? お、お許しを! 旦那様、これは愛ゆえに……!」
鼻血まみれで懇願するイザベル。
だが、クライドの瞳に慈悲の色は一切なかった。
「……許す? ああ、許そう。――死よりも辛い地獄を受け入れるならな」
「ひぃぃ!?」
「お前のような虫ケラはただ殺すだけでは生温い。心が壊れるまで、リリが味わった恐怖と痛み……その数万倍を噛み締めろよ」
クライドが指を鳴らす。
「永久氷結」
パキパキパキッ!
恐ろしい音が響き渡り、イザベルの体が足元から急速に凍りついていく。
私はリリちゃんの耳を塞いで、リリちゃんの顔を私の方へ向けた。
私がニッコリと笑うと、リリちゃんは天使のような笑顔を返してくれた。
「……ありがとう、エリカ」
そう言ったクライドに、私はウインクをして返す。
イザベルの下半身は完全に凍結し、胸まで迫っていた。
「ぎゃああああ! 冷たい! 痛い! 止めてええぇぇ!! なんでもしますからぁぁ!」
「そうか。なんでもするんだな?」
「はいぃぃぃ!! なんでも!! 言う通りに!!」
「分かった、なら、黙ってろ」
「い……いやぁぁぁぁぁぁ!!」
氷は首まで覆い尽くし、イザベルの絶叫する表情のまま、彼女を永遠に閉じ込めた。
透明度の高い、美しい氷柱の完成だ。
中にいるイザベルの目は、まだ恐怖に動き回っている。
「安心しろ。その中では死にはしない」
クライドは氷像を見下ろし、冷たく宣告した。
「微弱な回復魔法をかけ続け、意識を保ったまま、永遠にその冷気と後悔の中で生き続けろ。……誰にも見向きもされず、ただの『見世物』としてな。……お前の新しい『勤め先』はもう用意してあるからな」
「パ……パパ……」
リリちゃんが立ち上がり、クライドを見つめる。
「……リリ……ッ!」
クライドがリリちゃんに近付くと、リリちゃんは私の後ろに隠れて、私のドレスをぎゅっと握る。
その手は、震えている。
「……」
クライドは俯きそうになる。
(……負けないで、クライド。パパでしょ)
私の思いが通じたのかは分からない。
けど、クライドは俯きそうになった顔を上げて、こちらに近付いてきた。
足音が近づくたび、私のドレスを握るリリちゃんの力は強くなり、震えも酷くなる。
私は、リリちゃんを抱きしめてあげたい衝動を必死におさえこんだ。
――今じゃない。
今、彼女を抱きしめるのは私じゃない。
私じゃいけない。
「リリ」
低い、けど、優しい声が響いた。
私の横を、彼の腕が通り過ぎる。
彼の手が優しく、リリちゃんの頭に触れた瞬間。
リリちゃんの手の震えが止まった。
「……会いたかった」
クライドのその一言に、リリちゃんはハッと顔を上げた。
「パパ……」
「……リリ」
「パパ……」
ごめんとか、愛してるとか、そんなありきたりな言葉で飾るんじゃなくて、クライドとリリちゃんはただひたすら、お互いを呼び合った。
何度も、何度も、お互いの存在を確かめ合うように。
これまで呼べなかった分を、取り戻すように。
良い親子の形だなと思った。
うん。大丈夫だ。
この2人なら、上手くやっていける。
……と、安心したのも束の間だった。
クライドが指を鳴らすと、しばらくしてから使用人が巨大な箱を持ってきた。
「リリ、これ……パパからの、精一杯の贈り物だ」
そして、リリちゃんの前でドヤ顔で箱を開けた。
中から出てきたのは――牙を剥き出しにした、等身大の巨大なクマの剥製のようなぬいぐるみだった。
え? いつの間にこんなものを?
というか……正気?
リアルすぎる……爪が鋭利すぎる……しかも、毛皮が鋼のように硬い。
これ、もうクマじゃん。
感動の空気が一瞬で凍りついた。
「……ク、クライド?」
「見てくれエリカ! 王室御用達の武具職人に徹夜で作らせたんだ! 素材は最高級のキラーベアの毛皮で、中にはミスリルを詰めてある! これなら竜のブレスからもリリを守れるぞ!」
クライドが言い終わる前に、リリちゃんの顔が引きつった。
「……ひっ」
「ん? リリ?」
「……かいぶつ……こわいぃぃぃ!!」
リリちゃんは悲鳴を上げ、再び私の後ろに隠れてしまった。
クライドが石のように固まる。
「え……か、怪物……? 最強のボディガードだよ……?」
私は額を押さえて大きくため息をついた。
「3歳の女の子に、そんな生物兵器を与えてどうするんですか。ぬいぐるみは、抱きしめるものです。敵を倒すものじゃありません」
「そ、そんな……職人は『国宝級の強度です』と……」
「方向性がズレすぎています! その生物兵器と一緒に、廊下に立っていてください!」
「うぅ……なぜ……リリと会えた時に渡したら絶対に喜んでくれると思ってわくわくしていたのに……」
シュンと項垂れる公爵様。
その姿に、リリちゃんがおずおずと顔を出した。
「……パパ、かわいそう」
「リリ……」
「かいぶつはこわいけど、パパはこわくないよ。……よしよし」
リリちゃんが、落ち込むクライドの頭を、小さな手で撫でた。
その瞬間、クライドは再び号泣した。
「リリぃぃぃ! こんなクマのことは忘れてくれぇ! 今すぐフリルのついた可愛いウサギを国中の店から買い占めてくるぅぅ!」
「まず泣き叫ぶのやめてください!」
私は苦笑しながら、その幸せな光景を見守っていた。
やっと再会できたと思ったら、ズレたパパの愛情が、この部屋を満たし始めていた。
でもそのおかげで、これまでの距離なんて、全部吹き飛んじゃったね。
……感動は台無しだけど。
◇◆◇
数ヶ月後。
王都の噴水広場は、ある「奇跡」を見ようとする観光客で溢れかえっていた。
広場の中央。
かつて人間だった氷像から、キラキラと舞い散るダイヤモンドダスト。
それは太陽の光を浴びて七色に輝き、見る者すべてを魅了していた。
「わあ……きれい!」
「本当に。まるで宝石を散りばめたようだわ」
恋人たちがうっとりと見上げ、子供たちがはしゃいで光の粒を追いかける。
「なんだか、見る角度によっては苦しそうな表情にも見えない?」
「確かに……芸術だわぁ……」
誰も知らない。
その美しい光の粒が、中から聞こえるはずのない「寒い」「怖い」「死にたい」という、氷像の絶叫と涙が凍りついたものだとは。
永遠に解けない魔法の中で、彼女は今日も、人々の幸せな笑顔のために「嘆き」を消費され続けるのだ。
「――行こうか」
人混みの外れで、クライドが穏やかに言った。
その肩には、満面の笑みを浮かべたリリちゃんが乗っている。
「パパ! キラキラきれいだね!」
「ああ、そうだな。リリの方がずっと可愛いけれど」
「えへへー!」
リリちゃんは、氷像を見ても何も思い出さない。
彼女に恐怖を与え続けた女は、今やただの「綺麗な風景」に成り下がって、リリちゃんの記憶からは消えている。
クライドがそうさせた。
クライドの父としての、愛情が。
まあ……過保護というか、異常というか、重すぎる愛って感じだけど。
でも、それが、あいつに対する何よりの復讐だった。
見てるー?
クソババア。
いや、見えてるよね?
意識はしっかりあるもんね?
どう? 羨ましいでしょ?
私たち、今こんなに最高に幸せだけど。
定期的に見せに来てあげるね?
あんたが私たちを忘れかけた頃に、忘れられないように、その目に焼き付けなさい。
ああ、でも……こっちも幸せすぎるからさ、あんたのこと忘れてたらごめんね?
「ふふっ、行きましょう。今日はリリちゃんのために、特大のケーキを焼くから!」
「わーい! だいすき!」
リリちゃんはクライドの肩の上から私に手を伸ばす。
私はリリちゃんを受け取って抱きしめる。
「リリね、てんごくのママもだいすき」
「うん。そうだね」
「でもね、いまギューってしてくれるエリカも、だいすきなの」
リリちゃんは顔を上げて、花が咲くような満面の笑みを見せた。
「だからね……エリカママ! これからは、エリカママってよんでいい?」
「ッ……!」
その呼び名は、ただの「ママ」と呼ばれるよりも、ずっと私の胸に響いた。
『ママ』はミラルダさんでいい。
そうあるべきだ。
私は、彼女の代わりじゃない。
新しい、『二人目のママ』だから。
私は涙をこらえて、最高の笑顔で答える。
「もちろんよ。じゃあさ……私も、リリって呼んでいい?」
「いいよ! エリカママ!」
「もう、リリ可愛すぎ! 大好きっ!」
私がリリの頬にキスをすると、リリも私の頬にキスを返してきた。
チラリとクライドの方に目をやると、クライドは羨ましそうにこちらを見ている。
「リリ、パパにもしてあげて?」
「パパ、ちゅー!」
「まあ……リリがそこまで言うなら仕方ないかな」
クールぶってるけど、鼻の下伸びまくりですよ。
「……君は?」
「してほしいの?」
「……いや、してもいいか?」
クライドが私の顎をクイッと持ち上げる。
「……そんなこと聞かなくていいのよ? 私は、あなたのものなんだから」
「愛してる」
「私も愛してる」
リリはその小さな手で両目を覆い隠すようにしているが、少し指を開いてその瞬間をこっそり見ようとしている。
リリ、そっちからも見えるってことはね?
こっちからも見えてるってことなんだよ?
私とクライドの唇が重なり、リリはその開いた指の隙間から目を見開き、「わぁ!」と声をあげて飛び跳ねて喜んでいる。
……平和だ。
大好きな旦那様と、世界一可愛い天使に挟まれて、私の人生は最高潮。
それに……。
「エリカママ! このいす、すわって!」
「ん? ここ?」
私が椅子に座ると、リリが私に抱きつき、お腹に耳を当てる。
「リリ?」
「こえ、きこえるかなぁ?」
「……うーん、声はまだかなぁ?」
「えー……はやくききたいのにぃ」
リリは幸せそうな、待ちきれないという顔で私のお腹に耳をくっつけている。
「さて、帰ろっか!」
「エリカママ! きのぼり、おしえてね!」
「いや、木登りなんて危ないことしちゃダメだ! パパが許さん!」
「ふふ。今度、内緒でね?」
「わーい!」
「お、おい! 聞こえてるぞ! 怪我でもしたらどうする! 可愛いリリの肌にかすり傷ひとつでもついたら私は……! それに、君は身重なんだぞ! 絶対にダメだからな!」
「子供は少しの怪我くらいしますよ」
「パパこわいの?」
「こ、怖くないが!? なんなら、パパは一番高いところに登れるから!」
「じゃあ今度見せてもらおっか」
「うん!」
私たちは氷像に背を向けた。
背後で、ダイヤモンドダストが一際強く輝いた気がしたけれど、私たちは誰も振り返らなかった。
過去なんて、見てられないから。
そんな暇ないから。
私たちの瞳には、未来しか映ってないから。
光溢れる大通りへ、3人の影が伸びる。
「パパ、スキップへたくそ〜」
「む、難しいなこれ……」
「じゃあ私がお手本を……」
「ダメに決まってるだろう! 身重だと何度言えば……!」
「じゃあ、お姫様抱っこしてもらおっかなぁ?」
「そ……それなら、構わん」
「ずるいー! リリも!」
――ふわりと。
リリの髪が、風になびいた。
その直後、風が優しく、私の頬を撫でた気がした。
まるで何かに、祝福されているように、優しい気持ちになった。
ミラルダさん。
見守ってくれていますか?
リリは、健やかに育っています。
不器用なパパと、私と。
もう少しだけ、私たちを見守っていてくれたら嬉しいです。
リリには二人のママがいるんだよって、いつかリリが、自分の子供に教える日まで。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
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