初めての怒鳴り声
この物語は、ひとりの男が「心を取り戻す」までの記録です。
前世の彼は、運良くホワイト企業に勤め、怒鳴られることも、
理不尽に傷つけられることもなく、静かに生きていました。
けれど、平和な日々の中で、いつしか感情は薄れ、
喜びも悲しみも、遠い景色のようにしか感じられなくなっていた。
そんな彼が転生した先は、まさかのブラック企業。
人生で初めて浴びる怒鳴り声。
初めて味わう理不尽。
初めて知る「心がざわつく」という感覚。
しかし、家に帰れば、そこには光がありました。
高校時代のマドンナだった妻。
無邪気に笑う子どもたち。
そして、彼の中でゆっくりと芽生え始める“感情”。
これは、ただの転生物語ではありません。
誰かに怒鳴られたことのない男が、
初めて「守りたいもの」を見つける物語です。
あなたの心にも、静かに灯るものがありますように。
第1話 ──初めての怒鳴り声
(「おい!! 何度言わせるんだ、この無能が!!」
怒鳴り声が、狭い会議室の壁にぶつかって跳ね返った。
机を叩く音。書類が宙を舞い、床に散らばる。
上司の顔は真っ赤で、額には汗が浮かんでいる。
俺は黙って立っていた。
怒鳴られているのは、もちろん俺だ。
──いや、正確には。
人生で初めて怒鳴られている。
「返事はどうした!!」
「……はい」
短く答える。
それだけで、上司はさらに怒り狂った。
「はいじゃねぇんだよ!! お前のせいでどれだけ迷惑が──」
怒鳴り声は続く。
だが、俺の心は静かだった。
いや、静かすぎた。
(……これが、“怒鳴られる”というやつか)
前世の世界にもパワハラという概念はあった。
ニュースでも、相談窓口でも、
「怒鳴られた」「人格否定された」
そんな話は耳にしたことがある。
だが、俺は運が良かった。
前世の俺は、一部上場企業の人事部・係長だった。
上司は穏やかで、部下は協力的。
仕事は適切に分担され、誰も怒鳴らない。
相談に来る社員も、深刻なパワハラ案件はほとんどなかった。
だから俺は、
怒鳴られるという行為を“知識として知っているだけ”だった。
実体験は、ゼロ。
そんな俺が、今世で初めて浴びた怒鳴り声が──
この男のものだった。
「お前みたいなやつがいるから会社が回らねぇんだよ!!」
「……はい」
淡々と答える。
怒鳴られても、胸は動かない。
いや、動かないというより、動かし方がわからない。
前世では、怒りも悲しみも薄かった。
感情が摩耗していたわけではない。
そもそも、強い感情を抱く必要がなかったのだ。
平和な世界だった。
争いも、怒鳴り声も、理不尽もなかった。
だからこそ、今世のこの状況は、
まるで異世界のように感じる。
(……いや、実際に異世界なんだけどな)
上司の怒鳴り声がようやく止まり、
「もういい、出ていけ」と吐き捨てられた。
俺は会議室を出る。
廊下に出た瞬間、周囲の社員たちが視線を逸らした。
(……なんだ、この空気)
前世では、こんな“怯えた目”を見ることはなかった。
誰もが穏やかで、優しくて、協力的だった。
今世の職場は、まるで戦場だ。
怒鳴り声が飛び交い、
社員たちは疲れ切った顔でパソコンに向かい、
上司の機嫌を伺いながら仕事をしている。
(……地獄だな)
そう思った瞬間、
胸の奥がわずかにざわついた。
だが、その正体はまだわからない。
仕事を終え、家に帰る。
玄関の扉を開けた瞬間──
「おかえり〜!」
明るい声が飛んできた。
妻だ。
高校時代、誰もが憧れたマドンナ。
今世では、俺の妻になっている。
「……ただいま」
俺は靴を脱ぎながら答える。
「パパー!!」
小さな足音が駆け寄ってくる。
幼い娘と息子が、俺の足に抱きついた。
「きょうね、パパの絵かいたの!」
「パパ、みてー!」
俺は子どもたちの頭を軽く撫でる。
「……そうか」
妻が笑う。
「もう、あなたったら。もっとリアクションしてよ〜」
俺は答えない。
どう返せばいいのか、わからない。
前世では、家族という概念が薄かった。
恋愛も結婚も、必要性を感じなかった。
誰かと深く関わる文化がなかったのだ。
だから、今世のこの“家庭”というものに、
俺はまだ馴染めていない。
だが──
妻はそんな俺を責めない。
むしろ、優しく包み込むように笑う。
「あなた、お疲れさま。ご飯できてるよ」
「……ああ」
俺はリビングに向かう。
(……なんで俺が、この人と結婚してるんだろう)
前世では、彼女は遠い存在だった。
明るくて、誰からも好かれて、
俺のような無感情な男とは縁がなかった。
だが今世では、
彼女は俺を選んだ。
理由は、妻が以前ぽつりと言った言葉でわかっている。
「あなたって、冷たいけど……どこか寂しそうで。
でも、根は優しい人だと思ったの。だから、支えたいって思ったの」
俺はその言葉に、何も返せなかった。
今も返せない。
夕食を囲む。
妻は楽しそうに今日の出来事を話し、
子どもたちは笑いながら食べている。
俺は静かに箸を動かす。
(……前世では、こんな光景なかったな)
誰かと食卓を囲むことも、
笑い声に包まれることも、
自分の帰りを待つ人がいることも。
全部、なかった。
なのに──
心はまだ動かない。
いや、正確には。
ほんの少しだけ、
胸の奥が温かくなる瞬間がある。
娘が笑ったとき。
息子が俺の腕を掴んだとき。
妻が「おかえり」と言ったとき。
そのたびに、
胸の奥が、かすかに揺れる。
(……なんだ、これ)
感情が戻り始めているのか。
それとも、ただの気のせいか。
わからない。
ただひとつだけ、確かなことがある。
──前世より、今世のほうが“生きている”気がする。
子どもたちを寝かしつけ、
妻が洗い物をしている間、
俺はリビングでぼんやりと天井を見上げていた。
今日も怒鳴られた。
人生で初めての“怒鳴り声”を浴びた。
前世では存在しなかった“本物のパワハラ”を、
今世で初めて体験した。
だが──
家に帰ると、光がある。
「あなた、今日……ちょっと顔が違ったよ?」
いつの間にか、妻が隣に座っていた。
「……そうか?」
「うん。なんか……少しだけ、優しい顔してた」
俺は答えない。
だが、胸が少しだけ熱くなった。
(……優しい顔、か)
そんな顔を、自分がしていたとは思えない。
だが、妻は嘘をつく人ではない。
「あなたはね、冷たくなんかないよ。
ずっと優しい人だって、私は知ってるから」
その言葉に、
胸の奥が、また少しだけ揺れた。
(……なんだよ、これ)
感情が、戻り始めている。
ゆっくりと。
静かに。
確かに。
その夜、布団に入った俺は、
今日の出来事を思い返していた。
怒鳴られたこと。
家族の笑顔。
妻の言葉。
子どもたちの小さな手。
前世では、
一生懸命生きることの意味がわからなかった。
だが今世では──
(……一生懸命生きるって、こんなに眩しいものだったのか)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
俺は目を閉じた。
明日も怒鳴られるだろう。
理不尽なこともあるだろう。
だが、家に帰れば光がある。
その光が、
俺の心を少しずつ溶かしていく。
──こうして、俺の“二度目の人生”は始まった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
主人公はまだ、自分の感情に気づき始めたばかりです。
怒鳴られることも、理不尽に傷つくことも、
前世では経験しなかった彼にとって、
今世の世界はあまりにも騒がしく、荒々しい場所です。
それでも、家に帰れば光があります。
妻の笑顔。
子どもたちの声。
そして、胸の奥でかすかに揺れる“何か”。
人は、どれだけ傷ついても、
誰かに必要とされることで、もう一度歩き出せる。
そんな当たり前のことを、彼はこれから学んでいきます。
もしあなたが今、少し疲れていたり、
心が重く感じる日々を過ごしているのなら、
この物語がほんの少しでも、
あなたの心を温める存在になれたら嬉しいです。
次話では、主人公の心がさらに動き始めます。
どうか、彼の歩みを見守っていただだければ幸いです。




