8 距離、二十センチ
翌朝の教室。
黒瀬の席の方をちらっと見たけど、
……目が合った瞬間、すぐ逸らされた。
うん、完全に怒ってる。
昨日の佐伯のアホ発言のせいだ。
いや、正確には──その後、俺が何もフォローできなかったせいかもしれない。
「おーい相沢、黒瀬まだ怒ってるっぽいぞ」
「見ればわかる」
「でもさぁ、あの顔は“本気で怒ってる”というより、“照れてる”っぽくね?」
「分析すんな」
佐伯がニヤニヤして肩を叩いてくる。
こいつ、もはや燃料投下装置だ。
◇
昼休み、教室の隅で装飾用のリボンをまとめていたら、
黒瀬が近づいてきた。
机の上に視線を落としたまま、ぽつり。
「……昨日のこと、気にしてないから」
「えっ、ほんとに?」
「ほんと。別に、どうでもいい話だったし」
どうでもいい……?
その割に、耳の先がほんのり赤いけど。
「まぁ、佐伯が余計なこと言っただけだし。悪気はなかったんだ」
「悪気がなかったなら、余計にタチ悪いわね」
「……確かに」
黒瀬の口元が、少しだけ緩んだ。
あ、これ、ちょっと機嫌直ったやつだ。
そのとき──
机の上に置いたリボンが風でふわりと舞い上がった。
「うわっ、待って!」
同時に手を伸ばした瞬間、
指先が、黒瀬の手に触れた。
一瞬の沈黙。
距離、二十センチ。
近すぎて、息の仕方がわからない。
「……っ」
黒瀬が小さく肩をすくめ、
リボンをそっと掴んで引き寄せた。
「……危なかったわね」
「え、なにが?」
「落ちそうだったでしょ。リボンが」
「……そっちか」
「他に何があるのよ」
でも、その横顔は少し赤くて。
目線が合わないように、わざと横を向いていた。
◇
放課後。
教室のドアを閉めようとした時、黒瀬の声がした。
「……ありがと」
「え?」
「さっき、フォローしてくれたでしょ。佐伯くんの件」
「いや、別に」
「別にって言うの、あんたの癖ね」
「黒瀬の“別に”に比べたら可愛いもんだろ」
「……ふふ」
かすかに笑った黒瀬が、窓の方を向く。
夕日がその横顔を照らして、少し眩しかった。
俺はその光景を見ながら、
“ツン”の奥にある何かが、確かに柔らかくなっていくのを感じていた。




