58 それでも、そばにいたい
放課後。
黒瀬は帰り支度をしながら、何度も蓮の方をちらちら見ていた。
(……言っちゃったんだよね、私)
“頼ってもいい?”
“期待しちゃうじゃん”
あれは勢いだった。
いや、本当は心の奥にずっとあった想いが、堰を切ったみたいにあふれただけ。
(蓮、どう思ってるんだろ……)
机に教科書を詰めながら、黒瀬は胸の鼓動が速くなるのを押さえられなかった。
そのとき、蓮が声をかけてきた。
「黒瀬、帰るか?」
「っ……うん」
昨日までと変わらない話し方。
でも黒瀬の心は、昨日よりずっとざわついていた。
廊下に出ると、ちょうど咲が帰るところだった。
「あ、葵。蓮くんと一緒に帰るの?」
「え、えっと……」
黒瀬は返答に迷った。
だが咲はにこりと微笑む。
「……うん、良かった」
その「良かった」の声は、どこか本音で、どこか少し痛かった。
黒瀬は胸がぎゅっとなるのを感じた。
「咲……」
「大丈夫。もう大丈夫だから。二人とも、また明日ね」
咲はそう言って手を振ると、明るい足取りで校舎を出ていった。
その姿を見送りながら、黒瀬は小さく呟いた。
(ごめん……)
今の黒瀬には、それ以上の言葉が見つけられなかった。
*
帰り道。
夕暮れの光がアスファルトを赤く染めている。
蓮は何も言わず歩いていた。
黒瀬も何も言えず、ただ数歩後ろを歩く。
(なにこれ……距離、ある)
昨日、弱さを見せた。
頼ってもいいと蓮は言った。
なのに今は、どうしても自然に振る舞えなかった。
蓮がふと立ち止まり、黒瀬の方を振り返る。
「黒瀬。なんで後ろにいんだよ」
「え……」
「並んで歩けよ」
一歩近づくと、蓮は微妙に視線をそらして言った。
「……そんな気使われるの、嫌なんだけど」
黒瀬は思わず吹き出した。
「ごめん。なんか……昨日のこと思い出して」
「それは……俺だって同じだけど」
蓮が頬を掻く。
ずるい――黒瀬はそう思った。
(あんたが気にしてるとか言うなよ……余計、意識するじゃん)
「……蓮」
「ん?」
「昨日、頼るって言ったの……あれ、嘘じゃないから」
蓮は少し驚いた顔をした。
黒瀬は勇気を振り絞り、さらに言葉を続けた。
「私、強くないし……感情の整理も下手だし……」
「それでも……蓮には、弱いところも見てほしいって思った」
沈黙が落ちる。
蓮がどんな顔をしているのか、黒瀬は見れなかった。
蓮の声がゆっくり落ちてくる。
「……黒瀬」
「……なに」
「昨日の話だけどさ」
黒瀬はぎゅっと手を握った。
蓮はほんの少し照れたように笑う。
「頼られて困るとか、絶対ないから」
黒瀬の心のどこかが、じんわりほどけていく。
蓮は続けた。
「それに、黒瀬の弱さって……なんか放っとけねえし」
黒瀬の顔が一瞬で熱くなる。
「なっ……なにそれ……!」
「いや、だって……」
蓮は視線をそらし、ぼそっと言う。
「興味あるっていうか……気になるっていうか……」
「……っ」
言葉に詰まり、黒瀬はその場に止まった。
蓮も止まって振り返る。
「どうした?」
「ど、どうしたじゃなくて……それ……」
胸が破裂しそうだった。
(ずるい……ずるすぎる)
蓮はまっすぐな目で黒瀬を見る。
「黒瀬が泣いたとき……守りたいって思ったんだよ」
その言葉に、黒瀬の喉が震える。
「私……そんな価値ないよ」
「あるよ」
蓮は即答した。
「でも……蓮に迷惑かけちゃうし……」
「かけていい。俺がそうしたいんだから」
黒瀬は目を見開いた。
そして、とうとう涙がこぼれる。
「……そんなこと言われたら……ほんとに……期待するよ……?」
「期待していいって言っただろ」
黒瀬は唇を震わせながら、かすかに笑った。
「……ほんと……ずるい」
「お前に言われたくねえよ」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
昨日までより、また一歩だけ近づいた気がした。
*
家の近く、分かれ道の手前で黒瀬が立ち止まる。
「蓮」
「ん」
黒瀬は勇気をしぼり、微かに頬を赤らめて言った。
「……明日も、一緒に帰っていい?」
蓮は一瞬固まったが、すぐに頷いた。
「……ああ」
黒瀬はほっと息を吐き、微笑む。
その笑顔は、蓮の胸に不思議な痛みを落としていった。
黒瀬葵は弱い。
でもその弱さは、誰よりも真っ直ぐだった。
蓮は思う。
(守りたいって思ったのは……たぶんそれだけじゃない)
少しずつ、少しずつ。
二人の距離は縮まり、
黒瀬の秘密も、蓮の気持ちも、全部が動き始めていた。




