56 言えなかったこと、聞けなかったこと
翌朝の空気は、いつもよりひんやりしていた。
校門をくぐった瞬間、蓮はなんとなく胸の奥がざわつくのを感じた。
(昨日の黒瀬……やっぱ、機嫌悪かったよな)
図書室でのあの沈黙。
背中を向けたまま帰っていった姿。
どれを思い返しても、喉の奥が重たくなる。
ホームルーム前。
黒瀬は席につき、いつも通り教科書を机に出していた。
けれど――いつもよりわざとらしいほど“普通”を演じているのがわかった。
「……よ」
蓮が恐る恐る声をかける。
「おはよ」
黒瀬は、それだけ。
視線も合わせてくれなかった。
(あ〜……うん、これは完全に怒ってるやつだ)
理由はわかる。
昨日の咲との会話。
あれを誤解されたのかもしれない。
「黒瀬、昨日――」
「始まるよ、チャイム鳴った」
その一言で会話を切られる。
蓮は椅子に座りながら、心の中で小さくため息をつくしかなかった。
⸻
「黒瀬、今日も勉強見てもらっていいか?」
蓮は、いつものように声をかけてみた。
黒瀬は数秒黙り――そして。
「今日はいい。自分でやりなよ」
「いや、自分でやったら混沌が生まれるんだけど」
「……知ってる」
「じゃあ見てくれよ」
「……気分じゃないの」
淡々とした声。
けれど、その言葉が蓮には鋭い棘のように刺さる。
「……昨日のこと、怒ってる?」
黒瀬の肩が、ぴくりと揺れた。
怒ってないと言うのか、怒ってると言うのか――
どっちかでいい。
曖昧にされるのが一番きつい。
だが、返ってきた言葉はそのどちらでもなかった。
「怒ってない。ただ……」
「ただ?」
「わかんない。自分でも、よくわかんないの」
黒瀬は目を伏せる。
黒髪が頬にかかり、その表情は読めなかった。
「でも……昨日、相沢くんと咲が一緒に出ていくの見たら……なんか、胸が変になった。
それが嫌で……自分でも、わけわかんないの」
(それ……いや、ほぼ答え出てない?)
蓮の頭の中にはそんなツッコミが浮かんだが、もちろん口には出さない。
代わりに、ゆっくりと言葉を選んだ。
「咲とは、なんもねえよ。誤解すんな」
「……誤解なんてしてない」
「じゃあなんでそんな顔するんだよ」
「知らない!」
黒瀬が珍しく声を張った。
教室が一瞬静まり返る。
彼女自身も驚いたのか、唇を噛んで視線をそらした。
「……私、帰る」
カバンを掴んで立ち上がると、そのまま早足で教室を出ていった。
蓮は追いかけようとしたが――足が止まった。
(……追いかけて、いいのか?)
迷いが胸に石のように重くのしかかる。
⸻
黒瀬はひとり、校舎裏のベンチに座っていた。
夕日が差し込むオレンジ色の光の中。
手の中で、ぷりん太のマスコットをぎゅっと握りしめている。
(……また、言っちゃった)
本当は怒ってなんかいない。
ただ、胸の奥が苦しいだけ。
咲と蓮が話しているのを見た時のあの気持ち。
あれは“嫌”とは違う。
もっと、こう……刺さるような……。
(これって、なんなの。なんで私、こんなに……)
自分が自分じゃないみたいで、怖かった。
すると――影が落ちた。
「黒瀬」
振り返らなくてもわかる声。
相沢蓮。
黒瀬は驚き、目を見開いた。
「なんで……」
「探したに決まってるだろ。あんだけ怒って帰ったら、心配するわ」
「怒ってなんか――」
「怒ってなきゃ、あんな声出さねえよ」
図星をさされ、黒瀬は再び言葉を失う。
蓮は少し息をついてから、黒瀬の隣に座った。
「……俺、説明するから」
「説明?」
「昨日、咲に呼ばれた理由。誤解されんの嫌だし」
黒瀬はぎゅっと唇を結んだ。
ぷりん太に視線を落としながら、小さくうなずく。
蓮は簡潔に話した。
咲は葵に感謝してたこと、蓮への気持ちは整理がついたこと、黒瀬の“昔”を気にしていたこと――全部。
黒瀬は黙って聞いていた。
長い沈黙のあと、ぽつりと言う。
「……そっか。咲、本当にいい子だよね。私なんかより」
「お前、何言ってんだ」
蓮はすばやく言葉を返した。
「俺は黒瀬のこと、ちゃんと見てるから」
「……っ」
「咲のことも、友達としては大事だけど……黒瀬が“変な顔”してる方が何倍も気になる」
黒瀬は耳まで真っ赤になった。
それでも視線は上げない。
蓮は続ける。
「昨日、黒瀬が黙って帰ったの……正直、めちゃくちゃ堪えた」
「……ごめん」
「謝るなよ。怒っててもいいから、言えよ。黙って離れんな」
黒瀬の肩が小さく震える。
しばらくして、ようやく顔を上げた。
「……言えるわけないよ。そんなの」
「なんで」
「だって……だって私……」
声が震えた。
蓮はそっと、彼女の手元のぷりん太を見つめる。
赤いリボンが夕日に照らされ、揺れていた。
黒瀬は、そのリボンを指で触れながら、絞り出すように言った。
「人を好きになるのが……ずっと怖かったの。
だから……簡単に言えるわけないじゃん……」
蓮の胸がぎゅっと縮む。
「黒瀬……」
「ごめん……ほんとは、もっと……っ、素直になりたいのに……!」
涙がこぼれる。
黒瀬が見せる涙は、きっと誰にでも見せるものじゃない。
蓮はその横顔を見て、ゆっくりと言った。
「……じゃあさ」
「……?」
「無理に言わなくていいから。
ゆっくりでいいから。
“好きになるのが怖くなくなるまで”、一緒にいていいか?」
黒瀬の目が大きく揺れた。
「……なんで、そんなこと……」
「決まってんだろ。お前が……大事だからだよ」
沈黙。
風が、二人の間をそっと吹き抜ける。
黒瀬は、涙を指で拭いながら、小さく微笑んだ。
「……ばか」
「それ、褒め言葉?」
「……秘密」
その笑顔は、初めて見せるような柔らかさだった。
蓮の胸のざわつきは、いつの間にか静かに溶けていた。




