55 すれ違う気持ち
翌日の昼休み。
教室の窓際で、黒瀬葵はいつもより静かに弁当のフタを開けていた。
隣の席では、相沢蓮がプリントを眺めながらペンを走らせている。
昨日のことが、まだ胸の奥に残っていた。
(……読んでくれたよね。多分。だって、朝ちょっと笑ってたし)
思い出すだけで顔が熱くなる。
けれど、それを悟られたくなくて、わざと何でもない風を装った。
そんな黒瀬の内心を知らず、蓮がふと顔を上げる。
「なあ、黒瀬」
「な、なにっ」
「数学、教えてくれ」
「……え?」
「ノートがぐちゃぐちゃで読めねえ」
「ぐちゃぐちゃって……そんな言い方する?」
「だって事実だろ」
そう言って、彼は自分のノートを差し出す。
ページの端には落書き、途中で切れた式、謎の「ぷりん太」マーク。
「……これはもう“ぐちゃぐちゃ”じゃなくて“混沌”だよ」
「え、そんなヤバい?」
「うん。普通にヤバい」
黒瀬はため息をつきながら、ノートを取り上げる。
けれどその横顔は、どこか嬉しそうでもあった。
「しょうがないなぁ……放課後、少し見てあげる」
「マジで? 助かる」
「その代わり、ちゃんと聞いて。途中で寝たら許さないからね」
「はいはい」
黒瀬の声がほんの少し柔らかくなっていた。
そのことに、蓮も気づいていた。
(……なんか、最近の黒瀬、ちょっと違う)
ツンツンしてるのは相変わらずなのに、どこか優しい。
たまに見せる小さな笑顔が、以前よりずっと自然で――見ているだけで妙に落ち着く。
そんな自分に、蓮は少し戸惑いながらも、悪くないと思っていた。
⸻
放課後。
図書室の片隅で、二人並んで問題集を開く。
「そこ違う。xが符号変わってる」
「あれ? マジ?」
「ほら、ここ。マイナスが……」
黒瀬が手を伸ばし、蓮のノートを指さす。
指先がほんの一瞬、彼の手に触れた。
その瞬間、二人の間に小さな沈黙が落ちた。
「……」
「……」
空調の音と、ページをめくる音だけが響く。
黒瀬は慌てて視線をそらし、耳まで赤くなる。
蓮も何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
(なんだこれ、変な空気……)
けれど不思議と、嫌じゃない。
むしろ、少しだけ心地いい――そんな感覚が残る。
⸻
その静かな時間を破ったのは、突然の声だった。
「相沢くーん、ちょっといい?」
ドアの方から、白川咲が手を振っている。
いつもの明るい笑顔だけど、どこかぎこちない。
蓮が立ち上がると、黒瀬の胸がざわめいた。
「ごめん、黒瀬。ちょっと行ってくる」
「……うん」
咲と蓮が廊下に出て行く。
その背中を見送りながら、黒瀬は小さく唇を噛んだ。
(別に、気にしてない。全然……気にしてない、けど)
けれど、指先が小刻みに震える。
心の中で否定すればするほど、胸が痛くなった。
⸻
廊下の端。
咲は少し俯きながら言った。
「ねえ、相沢くん。最近、葵と仲良いね」
「ああ、まあ。勉強教えてもらってるだけだけど」
「そっか……」
咲は小さく笑う。
けれど、その笑みはどこか切なげだった。
「私ね、葵があんな顔で笑ってるの、久しぶりに見たんだ。
……ありがとう、相沢くん」
「え?」
「たぶん、あの子にとって、君は特別なんだと思う。
昔のこと、いろいろあったから」
蓮はその言葉に小さく眉をひそめた。
「昔って……やっぱり何か、あったのか?」
「それは――」
咲が言いかけて、言葉を飲み込む。
「それは本人の口から聞いてあげて」とだけ残して、歩き去った。
⸻
図書室に戻ると、黒瀬はノートを閉じていた。
いつもなら「遅い」と軽口の一つでも言うのに、今日は黙っている。
その静けさが、逆に痛かった。
「……悪い。待たせた」
「ううん。別に」
「咲、なんか用事あったみたいで」
「ふーん。そう」
たったそれだけの会話。
けれど、二人の間に見えない壁ができたような気がした。
沈黙の中、黒瀬はノートをバッグにしまう。
そして、小さく息を吐いた。
「……今日は、もう帰るね」
「え、あ、ああ」
黒瀬は立ち上がり、出口に向かう。
その背中を見送りながら、蓮は自分の手を見つめた。
(どうしてだろ。
なんか……黒瀬の“距離”が、また遠くなった気がする)
⸻
その夜。
黒瀬の部屋では、机の上にぷりん太のマスコットが置かれていた。
その赤いリボンを指でなぞりながら、彼女は小さくつぶやく。
「……また、変に意地張っちゃった」
窓の外では、夜風が静かに吹いている。
その風が、彼女の小さな声をさらっていった。




