54 伝えたいことがあるのに
放課後。
校舎の廊下を、黒瀬葵はそわそわと歩いていた。
制服の胸ポケットには、小さく折りたたんだメモ用紙。
そこには――彼女なりの「一歩」が詰まっている。
(これ、渡すだけ。渡すだけだから……)
自分に言い聞かせるように、深呼吸をする。
それでも心臓の鼓動は落ち着かない。
顔が火照って、耳まで熱い。
「……はぁ。こんなの、らしくないな」
手に汗をかいたまま、黒瀬は廊下の角を曲がる。
目の前には、窓際でスマホを見ている相沢蓮の姿。
彼の横顔を見た瞬間、全身の力が抜けそうになった。
(……やっぱ無理かも)
背を向けかけたそのとき、蓮が顔を上げた。
「おーい、黒瀬」
「っ……! な、なに」
「呼び止められて逃げようとすんなよ。
帰るの、早いな」
「今日はちょっと……用事があって」
「用事?」
蓮が首をかしげる。
黒瀬は一瞬、口を開きかけて――飲み込んだ。
(“渡したいものがある”って言えばいいだけなのに……!)
けれど、言葉が出てこない。
心の中では何度もリハーサルしたはずなのに、目の前にすると全部真っ白になる。
沈黙が流れた。
その間、蓮はいつも通りの無表情で缶を開けているだけなのに、黒瀬にはそれがひどく居心地悪く感じられた。
「……なあ、黒瀬」
「な、なに」
「顔、赤くね?」
「う、うるさいっ!」
「いや、マジでどうした? 風邪?」
「ち、違う! なんでもない!」
「そうか? ……まあ、無理すんなよ」
そう言って、蓮は窓の外に目をやる。
西日が差し込み、彼の輪郭を柔らかく染める。
その姿を見て、黒瀬の胸の奥がチクリと疼いた。
(……言わなきゃ、後悔する)
拳をぎゅっと握る。
そして、勇気を振り絞って口を開いた。
「……あのっ!」
「ん?」
「こ、これ……!」
勢いよく差し出した手の中に、しわくちゃのメモ用紙。
蓮は一瞬ぽかんとしたが、すぐに受け取る。
「……手紙?」
「ち、違う! メモ! ちょっとした……その、ありがとう的なやつ!」
「“ありがとう的なやつ”?」
「うるさい! 読むなよ、今は!」
「え、読むなって……」
「家で読んで! 絶対、今ここで読んじゃダメ!」
黒瀬は真っ赤な顔で叫ぶと、そのまま駆け出した。
残された蓮は、ポカンとしながらメモを見つめる。
(……ありがとう、的なやつ、ね)
軽く笑ってポケットにしまう。
だがその表情の裏には、ほんの少しの期待も滲んでいた。
⸻
一方その頃、校門前。
黒瀬は息を切らして立ち止まっていた。
頬に触れる風が冷たくて、ようやく熱が引いていく。
「……もう、恥ずかしすぎる」
顔を両手で覆ってうずくまる。
それでも――どこか心が軽かった。
(言えた。少しだけど、ちゃんと伝えられた)
勇気って、こういうことを言うのかもしれない。
今まで誰にも見せなかった“素直な自分”を、たった一言でも表に出せたことが、黒瀬には大きな一歩だった。
ポケットからスマホを取り出す。
画面に映る蓮の連絡先を見つめ、指先が震える。
(……メッセージ、送ろうかな)
けれど、打ちかけてやめた。
「やっぱり、返事が来るまで待とう」
口元に小さな笑みを浮かべ、夕焼け空を見上げる。
オレンジ色に染まった雲が、どこか優しく揺れていた。
⸻
夜。
蓮の部屋。
机の上には、黒瀬から受け取ったメモ用紙。
開くかどうか、数分間迷った末に――意を決して、そっと開いた。
そこには、丸い字でこう書かれていた。
『ぷりん太のリボン、直してくれてありがとう。
あれ、私にとって大事な思い出だから。
……相沢くんといると、昔の自分より少し優しくなれる気がします。』
たった数行の文章。
けれど、それを読んだ瞬間、蓮の胸の奥がふっと温かくなった。
「……黒瀬らしいな」
短くつぶやいて、紙を丁寧に畳む。
机の引き出しの中――過去に誰かからもらった小さなメモの隣にそっとしまった。
そのとき、不思議なデジャブが胸をよぎる。
(……“思い出”って言ってたな。
やっぱり、あのときの女の子――)
けれど、確信には至らない。
ただ、彼の表情はどこか穏やかで。
胸の奥に、ほんのり灯るような温かさが残った。
⸻
翌朝。
登校途中、黒瀬は蓮を見かけて立ち止まる。
彼はメモを持っていて、少し笑っていた。
(……読んだんだ)
黒瀬は頬を赤らめながらも、目が合うと小さく会釈した。
蓮も軽く手を上げて返す。
それだけのやりとり。
けれど、その瞬間――二人の距離は、確かにまた少し近づいた。




