53 素直になれたら
翌日の朝。
まだ誰もいない教室に、黒瀬葵はひとりで座っていた。
机の上には、昨日蓮が結び直してくれたぷりん太のリボン。
小さな結び目が、どこか不格好で――でも、それが少し愛しかった。
(……ひとりじゃないって、思えるだけで、こんなに違うんだ)
指先でリボンをなぞりながら、小さく微笑む。
昨日の夕陽、蓮の真剣な表情。
思い出すたびに、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……おはよう、黒瀬」
声に顔を上げると、ドアのところに蓮が立っていた。
手には二つの缶コーヒー。
「早いな。誰もいねぇのに」
「ちょっと、考えごと」
「また難しい顔してたぞ。……ほら」
蓮は片方の缶を差し出す。
黒瀬は受け取りながら、目を細めた。
「ありがと。……ブラック?」
「甘いのは苦手だろ」
「よく知ってるね」
「なんだかんだ、もう結構一緒にいるしな」
その言葉に、黒瀬は小さく笑った。
けれど、心臓の鼓動がほんの少し速くなる。
(……昨日の話、まだ胸に残ってる)
沈黙が落ちた。
けれど、それが気まずくないのが不思議だった。
やがて蓮が、そっと口を開く。
「なあ、昨日のことなんだけど」
「……うん」
「ありがとうな。話してくれて」
黒瀬は首を振った。
「私のほうこそ。聞いてくれて、ありがと。
あの話、ずっと胸の奥にしまってたから」
「でもさ、黒瀬が“嘘つき”じゃなくなりたいって言ってたの、ちょっと意外だった」
「意外?」
「だって、お前っていつも正直にズバッと言うタイプだと思ってたから」
黒瀬は少し笑って、目を伏せた。
「本当の気持ちは、いつも隠してたの。
“強く見せたい”とか、“平気でいたい”とか……
そういうの、ずっと続けてたら、何が本音か分からなくなっちゃって」
「……そっか」
「でも、もうやめようと思う。
昨日みたいに、ちゃんと話せば楽になるって分かったから」
蓮は缶を傾け、空を見上げた。
朝の光が窓から差し込み、教室を優しく照らしている。
「じゃあ、次は“本音の黒瀬”を見せてもらわないとな」
「か、簡単に言わないでよ……」
黒瀬は顔を赤らめ、ぷいっと顔をそむけた。
蓮はそんな彼女を見て、少しだけ笑う。
「でもさ、無理に変わらなくてもいいと思うぞ」
「え?」
「お前の“強がり”とか、“ツン”とか、全部込みで黒瀬葵だから。
嘘ついてるっていうより、守ってるって感じだし」
「……また、そういうこと言う」
「本音だよ」
不意に目が合った。
一瞬、時間が止まる。
昨日の記憶――手が触れた感触、夕陽の中の笑顔がよみがえる。
黒瀬は思わず目をそらした。
けれど、頬の熱は引かない。
「……もう、ずるい。そういうの」
「なにが?」
「そうやって、さらっと言うの。心臓に悪い」
「知らねぇよ、そんなの」
互いに少しだけ照れ笑いを浮かべる。
けれど、その距離は昨日よりも確実に近い。
そのとき、教室のドアがガラリと開いた。
「おはよー、二人とも!」
白川咲が明るい声で入ってくる。
黒瀬は反射的に姿勢を正し、蓮はわずかに咳払いした。
「朝から珍しいね、葵がもういるなんて。……あ、蓮くんも!」
「ちょっと早起きしただけだよ」と黒瀬。
「ふーん?」と咲が意味深な笑みを浮かべる。
彼女の視線が、黒瀬の手元のマスコットに止まった。
「それ、リボン直したんだ?」
「う、うん。昨日、ちょっとね」
「そっか。……よかったね」
咲はにこっと笑った。
けれど、その笑顔には少しだけ、遠くを見るような寂しさがあった。
「……咲」
「ん?」
「ありがと。心配してくれて」
「なにそれ、急に」
「いろいろ。……私、自分でも変わりたいって思えたから」
咲は一瞬驚いたように目を見開き、それから穏やかに頷いた。
「そっか。じゃあ、応援する。
葵が“本音”を言えるようになる日を、ちゃんと見届けるからね」
黒瀬は小さく笑った。
その笑顔を見て、蓮もまた、心の中で静かに決意する。
(俺も、ちゃんと向き合わないとな。
黒瀬だけじゃなく、自分の気持ちにも)
チャイムが鳴る。
いつもの朝なのに、どこか違って見える。
黒瀬はカバンの中で、ぷりん太をそっと握りしめた。
もう“嘘つき”じゃない。
今度こそ、ちゃんと――伝えるために。




