52 秘密のリボン
放課後の教室。
夕陽が斜めに差し込んで、机の影を長く伸ばしていた。
黒瀬葵はひとり、カバンの中を探っていた。
見慣れた黄色のマスコット――ぷりん太。
首元の赤いリボンが、少しほつれている。
(また、ほどけそう……)
糸を指でつまみながら、ふっと息を吐く。
小さなほころびなのに、まるで胸の奥まで裂けるように痛かった。
そのとき、背後から声がした。
「まだ残ってたのか、黒瀬」
振り返ると、蓮が教室のドアに寄りかかっていた。
部活帰りらしく、シャツの袖をまくり上げている。
夕陽に照らされたその姿が、なぜかやけに眩しく見えた。
「……あんたこそ、帰らないの?」
「忘れ物。黒板の上にプリント置きっぱなしだった」
そう言って蓮は歩み寄り、ふと黒瀬の手元を見た。
「それ……前から持ってるやつだよな。だいぶ使い込んでる」
「うん。小さい頃からずっと一緒」
「リボン、ちょっとほどけてるぞ」
「……触らないで」
思わず声が強くなる。
蓮は驚いたように目を瞬かせた。
その反応に、黒瀬は自分でも戸惑う。
「ごめん。別に怒ったわけじゃなくて……」
「大事なもの、なんだな」
「……うん」
少し沈黙が落ちる。
外では運動部の声が響き、夕焼けがゆっくりと赤を濃くしていく。
「それさ、なんか前に聞いた気がする。リボンに意味があるんだろ?」
「……覚えてるんだ」
「“嘘つき”って言ってただろ。あれ、どういう意味だったんだ?」
黒瀬は一瞬、口を開きかけて、閉じた。
けれど、もう隠せない気がした。
「……このリボン、母のものなの」
蓮の表情が変わる。
黒瀬は小さく笑い、リボンを指先でつまんだ。
「母が亡くなる前に、くれたの。
“これをつけてたら、葵はひとりじゃない”って。
でもね、私は嘘だと思った。
どれだけこのリボンを握っても、もう母はいなかったから」
声が少し震えた。
それでも、黒瀬は目を逸らさなかった。
「だから“嘘つき”。でも、捨てられなかった。
この子だけは、ずっとそばにいてくれたから」
蓮は何も言わず、そのマスコットを見つめた。
小さな赤いリボンが、夕陽の光を受けて淡く輝いている。
「……それ、昔どっかで見た気がするな」
「え?」
「赤いリボンをつけたマスコット。
小さい子が泣きながら抱えてて、
“これがあるから大丈夫”って言ってた」
黒瀬の瞳が大きく揺れた。
「……まさか、あのときの……」
蓮はゆっくり頷く。
「たぶん、あれが黒瀬だ。覚えてねぇだろうけど、あの日、たまたま見かけたんだ。
公園のベンチで泣いててさ。リボンを握って、“嘘つき”って言ってた」
黒瀬は息をのんだ。
胸の奥で、何かが音を立ててほどけていく。
「……やっぱり、あんた、だったんだ」
「“泣くなよ”って言ったら、“泣いてないもん”って返された。
あの言葉、ずっと覚えてたんだ。
たぶん俺、あのときから黒瀬のこと気になってたんだな」
静かな沈黙が落ちる。
時計の秒針の音がやけに大きく響いた。
「……バカみたい。そんな昔のこと、よく覚えてるね」
「忘れられるわけないだろ」
黒瀬は顔を伏せ、唇を噛んだ。
ぷりん太のリボンをそっと握りしめる。
「これね、母のリボンでもあるけど……
今は、私が“嘘つき”じゃなくなるための証なの」
「嘘つき?」
「“平気なふり”とか、“気になってないふり”とか……
そういうの、もうやめたいの。
ちゃんと、伝えたい気持ちがあるのに」
その言葉に、蓮の胸が強く鳴った。
夕陽が沈む。
黒瀬の横顔が金色に染まって、静かに微笑む。
「……ありがと。話せて、ちょっと楽になった」
「黒瀬」
「ん?」
「そのリボン、今度ちゃんと結び直そうぜ。
もう、“ひとりじゃない”って意味で」
黒瀬は目を見開き、少しして笑った。
「……うん。お願い」
風が教室を通り抜ける。
古いマスコットのリボンが、そっと揺れた。
その瞬間、ふたりの距離が、ほんの少し近づいた。




