51 すれ違いと曲がり角
週明けの教室は、妙にざわついていた。
けれどその喧騒の中で、俺と黒瀬の間には、静かな空気が流れている。
「おはよ」
何気なく声をかけると、黒瀬は一瞬だけこちらを見て、小さく会釈をした。
「……おはよう」
それだけ。
以前みたいなテンポのいい言い合いも、軽口もない。
まるで何かを警戒するように、黒瀬は一定の距離を保っていた。
──最近、なんか、ぎこちない。
あのとき、俺は黒瀬の涙を見た。
あいつが「昔のこと」を思い出したように見えて、手を伸ばせなかった。
だからこそ、今のこの距離が、自分のせいに思えてならない。
「相沢くん、これ次の資料配ってくれる?」
「あ、はい」
先生に呼ばれて席を立つと、ちょうど黒瀬の机の前を通る。
近づくだけで、なんか変に緊張する。
手渡そうとして、一瞬指が触れた。
その瞬間、黒瀬がピクリと肩を震わせた。
「……ごめん」
「……別に」
視線は合わない。
いつもなら、「へたくそ」だとか「不器用ね」って笑ってくれたのに。
今日は、そのどれもなかった。
(……どうしたんだ、黒瀬)
そう思う一方で、自分も自然に接することができない。
見つめたら意識して、話そうとすれば噛みそうになる。
──完全に恋愛初心者の負のスパイラルである。
昼休み。
窓際の席で、黒瀬は一人、静かに弁当をつついていた。
隣にはいつものように咲がいるけど、会話は少なかった。
「ねえ葵。なんか元気ないね」
「そう見える?」
「うん。……相沢くんと、何かあった?」
黒瀬は一瞬、箸を止めた。
けれど、すぐに作り笑いを浮かべる。
「別に。あいつが勝手に意識してるだけでしょ」
「ふぅん」
咲はそれ以上、何も言わなかった。
でもその“ふぅん”には、全部見透かしているような優しさがあった。
放課後。
俺は机に突っ伏して、深いため息をついた。
「……重症だな、これ」
自分で自分にツッコミを入れても、どうにもならない。
このまま距離が開いていくのが、怖い。
けど、どうやって埋めればいいのかもわからない。
そのとき。
教室のドアが開いて、咲が顔を出した。
「あ、いた。相沢くん」
「ん? どうした?」
「ちょっと、話あるの」
咲は微笑んだ。
その笑顔の奥に、何か決意のようなものが見えた。
屋上に出ると、夕方の風が頬を撫でた。
咲はフェンスのそばに立ち、空を見上げながら言った。
「ねえ、相沢くん。葵のこと……どう思ってる?」
「……いきなりだな」
「でも、もう誤魔化せないでしょ」
真っすぐな視線。
逃げ場がない。
「……気になる、っていうか。気づいたら、目で追ってる」
「ふふ、やっぱり」
咲は小さく笑った。
それはどこか寂しげで、でも、温かい笑顔だった。
「葵ね、ああ見えて怖がりなんだよ。人との距離とか、失うこととか。だから、きっと今も不安なんだと思う」
「不安?」
「うん。……“また離れちゃうかも”って」
咲の言葉が、胸に刺さる。
黒瀬が見せた一瞬の寂しげな表情──あれが、その不安の表れだったのか。
「だからさ」
咲が微笑みながら言う。
「相沢くんは、ちゃんと向き合ってあげて。葵、そういうの待ってると思うから」
「咲……」
「いいんだよ。私はもう、見てるだけで十分」
その言葉に、何かを悟った。
咲は、自分の想いをもう置いてきたのだ。
優しい笑顔の裏で、ちゃんと前を向こうとしている。
「……ありがとな。お前、ほんとすごいよ」
「そんなことないよ。葵が笑ってくれたら、それでいい」
その背中は、少しだけ切なかった。
屋上を出て、廊下に戻る。
夕陽が差し込む中、黒瀬の姿が見えた。
教室の前で立ち止まり、手元のカバンを見つめている。
そこには、いつもの“ぷりん太のキーホルダー”。
少し色あせたそれを、黒瀬はそっと撫でていた。
(……やっぱり、あのキーホルダー。何かあるな)
何気ない仕草の中に、確かに“想い”があった。
それが、俺の知らない過去に繋がっている気がしてならない。
けど、今は──その過去に怯えるより、
目の前の黒瀬をちゃんと見たい。
次こそ、ちゃんと話そう。
すれ違いのままじゃ、終われないから。
廊下の風が、夕焼けの匂いを運んでいった。




