50 気づきたくなかった想い
翌日。
朝の教室には、まだ眠たげな空気が漂っていた。
蓮が席につくと、黒瀬はすでに教科書を開いていた。
彼女の髪が肩にかかり、白い指がページをなぞる。
その横顔を見ていると、自然と息が詰まる。
(……なんだ、これ)
昨日からずっと、黒瀬が気になって仕方がない。
笑っても、怒っても、照れても──全部が頭に焼き付いて離れない。
「……なに、また見てるの?」
「……いや、目が合っただけ」
「ふーん。言い訳、下手ね」
黒瀬は視線をノートに戻しながら、ほんの少し唇を緩めた。
それが、どこか優しい笑みに見えて、蓮は視線をそらす。
(やばい。本格的に意識してる)
心の中でそう認めるのが怖かった。
けれど──目の前の黒瀬を見ていると、もう否定できなかった。
その日の放課後。
廊下でばったり白川咲とすれ違った。
「蓮くん」
「ん、咲。どうした?」
「ちょっと、いい?」
呼ばれて廊下の端まで歩く。
窓から差し込む夕日が、咲の髪を橙色に染めていた。
「この前の校外学習、楽しかったね」
「ああ。まあ、いろいろあったけどな」
「ふふ。……“いろいろ”、ね」
咲は小さく笑って、視線を落とした。
そして、ほんの少し間を置いて──言葉を続けた。
「ねえ、葵とは……どうなの?」
「どうって?」
「最近、すごく仲良いから。……付き合ってるのかなって」
「なっ──いや、違う! そんなんじゃない!」
「……そっか」
咲の声が、少しだけ寂しげに揺れた。
その表情を見て、蓮の胸がざわつく。
「咲……?」
「ごめん。変なこと聞いちゃったね。気にしないで」
そう言って笑うけれど、その笑顔は明らかに無理をしていた。
それでも、咲はいつものように優しく笑って言う。
「葵のこと、よろしくね」
「え?」
「たぶん、あの子──蓮くんがいないとダメだから」
その一言が、心に重く残った。
咲の背中が廊下の向こうに消えていく。
その姿を見送りながら、蓮は胸の奥に妙な痛みを感じていた。
(……俺、なにしてんだろ)
黒瀬のことが気になる。
でも、咲のことを見ていると、どうしても放っておけない。
──その夜。
机に向かってレポートを書こうとしても、文字が頭に入ってこなかった。
ふと、スマホが鳴る。
画面には「黒瀬葵」の名前。
《ねえ、今日のレポートの形式って、これで合ってる?》
短いメッセージと一緒に、写真が送られてきた。
《あってる。ちゃんと書けてる》
《そ。よかった》
たったそれだけのやりとり。
けれど、なぜか胸があたたかくなる。
しばらくして、黒瀬からもう一通メッセージが届いた。
《……ねえ、相沢》
《なに?》
《今日、ちょっと元気なかったね》
「……見てたのか」
スマホを見つめながら、小さく笑った。
そして《ちょっと考えごとしてただけ》と返す。
《そっか。……あんまり無理すんなよ》
その言葉が、じんわりと胸に染みた。
──黒瀬はやっぱり、優しい。
ツンデレなんて言葉で片づけられないほど、まっすぐで、繊細で。
その優しさに触れるたび、どうしようもなく惹かれていく。
(……これ、もう“友達”じゃないよな)
スマホを伏せ、天井を見上げる。
心臓がうるさいほどに鳴っている。
──だけど、まだ認めたくなかった。
この気持ちに気づいてしまえば、きっと“何か”が変わってしまうから。
次の日の朝。
黒瀬が教室に入ってくる。
昨日より少しだけ短く結んだ髪。
その後ろ姿を見ただけで、胸が跳ねた。
「おはよう、相沢」
「……お、おはよう」
「どうしたの。顔、赤いよ?」
「暑いだけだ」
黒瀬は不思議そうに首を傾げる。
その無防備な仕草が、ますます心臓に悪い。
(気づきたくなかった。けど──)
──俺、たぶんもう、黒瀬が好きなんだ。
心の奥で、静かにそう呟いた。
その瞬間、チャイムが鳴り、朝の喧騒が教室を包み込む。
黒瀬は席につき、いつものようにペンを走らせる。
蓮はただ、その横顔を見つめていた。
この気持ちを、まだ言葉にはできないまま。
──でもきっと、前の関係には戻れない。
そんな予感だけが、静かに胸に残っていた。




