49 彼女の“変化”
放課後の教室。
窓の外では、夕陽がグラウンドをゆっくりと染めていた。
「黒瀬、ちょっといいか?」
蓮が声をかけると、黒瀬はノートに走らせていたペンを止めた。
顔を上げた瞬間、ふわりと前髪が揺れる。
「なに?」
「校外学習のレポート、まとめるの明日までだって。もう書いた?」
「……まだ。あんたは?」
「昨日の夜に終わらせた」
「……真面目すぎでしょ」
ぼそっと呟きながらも、どこか笑っていた。
最近の黒瀬は、以前より柔らかく笑う。
無表情を装っても、目の奥に“優しさ”が滲むようになった。
──変わったな、黒瀬。
そう思うと同時に、蓮は少しだけ胸がざわついた。
その変化の理由に、自分が関わっている気がしてならない。
「……なに、じっと見てんの」
「いや。変わったなって」
「変わってない」
「嘘。前は“ありがとう”とか、絶対言わなかっただろ」
「い、言ってるし!」
「昨日“助かった”って言ってたのも珍しかったしな」
黒瀬は顔を赤くして、ぷいとそっぽを向いた。
その耳の先が、ほんのり染まっている。
「うるさい。……別に、言いたくて言ったわけじゃないし」
「へぇ、じゃあどういう気持ちで言ったんだ?」
「しつこい!」
教室に響く、黒瀬の声。
それを聞いて、咲がくすっと笑った。
「ふふ、相変わらずだね。蓮くん、からかいすぎ」
「いや、そんなつもりは──」
「そうやって否定するのがまたずるいのよ、相沢くんは」
咲が言葉に含みを持たせるように笑う。
黒瀬は気まずそうに席を立ち、カバンを手にした。
「……帰る」
「あ、黒瀬──」
呼び止めようとしたが、黒瀬は小走りに教室を出ていった。
残された蓮は、苦笑いしながら咲を見た。
「なんか怒らせたか?」
「ううん。むしろ照れてると思うよ」
「照れて、あれかよ……」
咲は窓の外を見つめながら、小さく呟く。
「……いいね、ああいうの」
「ん?」
「黒瀬が変われたの、蓮くんのおかげだと思う。
あの子、前は誰にも本音を見せなかったから」
「……そう、なのか?」
「うん。ずっと“強がってる”の。
本当は誰かに頼りたかったのに、それを見せるのが怖いだけ。
……だから、蓮くんがそばにいてくれて、少し安心してるんだと思うよ」
その言葉を聞いて、蓮の胸に熱が広がった。
気づけば、自分も黒瀬の存在に救われている。
彼女のツンも、不器用な優しさも、全部が心の中に残って離れない。
「……俺も、たぶん同じだな」
「え?」
「黒瀬がいたから、毎日がちょっと楽しい」
咲は一瞬、目を見開き──そして笑った。
けれど、その笑顔の奥に一瞬だけ、影が差す。
「……そうなんだ。うん、いいと思うよ。
“そういうの”って、ちゃんと大事にしなきゃね」
咲の声は優しいのに、どこか遠く感じた。
──
その日の帰り道。
蓮は校門を出たところで黒瀬の後ろ姿を見つけた。
「おい、黒瀬!」
振り返った黒瀬は、一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに小さく笑った。
「……なんで追ってくるのよ」
「怒ったままだと思って」
「別に怒ってない」
「ならよかった」
二人で並んで歩き出す。
放課後の風が、街路樹の葉を揺らしていた。
「……さっきの話だけどさ」
「ん?」
「“ありがとう”とか、“助かった”とか。
あんたが気にするほどのことじゃない」
「でも、そうやって言えるようになったの、すごいと思う」
「褒めないで。……恥ずかしい」
「じゃあ、“これからも言ってくれたら嬉しい”って言っとく」
「うるさい」
黒瀬は頬を染めながらも、笑っていた。
その笑顔に、蓮は小さく息をのむ。
──たぶん、今まででいちばん自然な笑顔だった。
「なに、見てんの」
「いや、いい笑顔だなって」
「ばっ……! もう、帰る!」
黒瀬は早足で歩き出す。
その背中を見つめながら、蓮は小さく笑った。
(……ほんと、変わったよな)
変わったのは彼女だけじゃない。
自分の中でも、何かが確かに動き始めている。
夕暮れの道を、二人の影がゆっくりと重なっていった。
──それが、恋の始まりだと気づくのは、もう少し先のことだった。




