46 それぞれの帰り道
帰りのバスは、行きのときよりも静かだった。
二日間の疲れが出たのか、みんなぐったりと席に沈み、車内は眠気と夕陽に包まれていた。
黒瀬は窓際の席で、イヤホンを片耳だけつけて外を見ていた。
山道を抜けるバスの窓からは、オレンジ色の光が流れていく。
目の前を通り過ぎていく景色が、なぜかやけに遠く感じた。
隣の席では、蓮が軽く寝息を立てていた。
少し傾いた頭が、黒瀬の肩に触れそうになっている。
(……近い)
心臓が、少しだけ痛くなる。
けれど、体を動かせなかった。
ほんの数センチの距離が、壊したくない静けさを保っていたから。
──今日は楽しかった。
けれど、楽しかった分だけ苦しくなる。
咲の笑顔を思い出すたびに、胸の奥に小さな棘が刺さる。
(咲……あの子、気づいてたよね)
黒瀬は目を伏せた。
あの観光地での出来事。
何度も笑おうとしてくれた咲の顔が、ずっと頭から離れない。
(私、ずるい。わかってて、見て見ぬふりしてた)
バスがカーブを曲がり、少し揺れた。
その拍子に、蓮の頭がコトンと黒瀬の肩に当たる。
「……っ」
声を出す前に、息が止まった。
すぐに離れればいいのに、体は動かない。
むしろ、そのまま時が止まってくれればいいと思ってしまった。
彼の寝顔は、思っていたよりも穏やかで、優しかった。
黒瀬の胸の奥で、何かがゆっくりほどけていく。
(……やっぱり、好きなんだ)
そう自覚した瞬間、涙が出そうになった。
けれど、こぼさなかった。
泣いてしまえば、この気持ちに言い訳ができなくなるから。
──そのとき。
「葵」
不意に声をかけられて、顔を上げる。
通路を挟んだ向かいの席。
そこに、咲が微笑んでいた。
「蓮くん、寝てるね」
「……うん」
「ふふ。疲れたもんね」
咲はそう言って、穏やかに笑う。
でも、その笑顔はどこか透き通っていて、見ているだけで胸が締めつけられる。
「葵」
「なに?」
「……あのね、私、明日から少し距離置くかも」
唐突な言葉に、黒瀬は息を呑んだ。
「ど、どういう──」
「別に、怒ってるわけじゃないよ。ただ……自分の気持ち、整理したいだけ」
咲は静かに言った。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
「蓮くんのこと、好きだった。でももう、伝えたりしない」
「……っ」
黒瀬は何も言えなかった。
頭が真っ白になる。
咲はそんな黒瀬に、優しく微笑みかけた。
「だから、気にしないで。葵が笑ってるの、私好きだから」
そう言って、咲は小さくウインクをした。
その笑顔があまりにも綺麗で、黒瀬は思わず唇を噛んだ。
(なんで……そんな顔できるの)
咲の強さが、優しさが、眩しかった。
そして、それが痛いほどに羨ましかった。
──バスが街に近づくにつれ、窓の外の景色が夜に変わっていく。
ネオンが灯り、すれ違う車の光が線のように流れる。
蓮はまだ眠っていた。
その横顔を、黒瀬はそっと見つめる。
(私……どうしたいんだろ)
心の奥では、咲の言葉が何度も反響していた。
「気にしないで」なんて言われても、気にしないわけがない。
(ごめん、咲。私、多分もう止められない)
夜の街の光が、窓に映る自分の顔をぼんやり照らした。
その瞳の奥に映るのは、彼への想い。
そして、どうしようもない罪悪感。
バスが停車すると、車内の灯りがゆっくり明るくなる。
「終点です。忘れ物にお気をつけください」
アナウンスに起こされた蓮が、目をこすりながら顔を上げた。
「……あ、寝てた」
「うん。ずっと」
「やば、 droolしてない?」
「してたら、写真撮ってた」
「ひでぇ」
黒瀬が小さく笑うと、蓮も照れくさそうに笑い返した。
その笑顔が、黒瀬の胸をまた締めつける。
「楽しかったな」
「……うん。すごく」
短い言葉に、二人の想いが混ざっていた。
けれど、それを言葉にする勇気はまだない。
その少し後ろで、咲が荷物をまとめながら静かに二人を見ていた。
(やっぱり、この感じ……いいな)
少しだけ、心の中で笑って、深く息をついた。
それは“諦め”ではなく、“受け入れる”ための呼吸だった。
バスの外はすっかり夜。
風が肌を冷やし、街の灯が揺れる。
咲は先に歩き出す。
黒瀬と蓮が少し後ろで並んで歩く気配を、背中で感じながら。
(二人とも、ちゃんと幸せになってね)
振り返らずに、咲は小さく笑った。
その笑顔は、少しだけ涙で滲んでいた。
──その夜、黒瀬は眠れなかった。
咲の言葉と、蓮の笑顔と、肩に残る温もりが頭から離れない。
(好きって、言えないまま終わるのかな)
そう思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
それでも、涙は流れなかった。
彼女の中で何かが変わり始めていた。
静かに、確かに──。




