44 気づかれたくない朝
翌朝。
目覚まし代わりのチャイムが鳴るより前に、蓮は目を覚ましていた。
窓の外は薄曇り。夜の出来事が、まだ夢の続きみたいに胸に残っている。
(あのとき……黒瀬、なんであんな顔してたんだろ)
指先の感触が、まだ消えない。
ただ触れただけなのに、変に熱くなったあの瞬間を、何度も思い出してしまう。
布団から抜け出して顔を洗いに行くと、洗面所で黒瀬とばったり目が合った。
「……お、おはよ」
「おはよう」
どちらも、ぎこちない。
一瞬で沈黙が落ちる。
黒瀬はタオルで顔を拭きながら、わざと明るい声を出した。
「昨日、ちゃんと寝られた?」
「まあ……うん。黒瀬は?」
「私も。……たぶん」
(たぶん、ってなんだよ)
突っ込みたいのに、声にできなかった。
そのとき、廊下の向こうから咲が歩いてきた。
「おはよー、二人とも」
いつも通りの笑顔。けれど、その目だけが、少し鋭い。
「なんか、空気ちがくない?」
「ち、違わないし!」と黒瀬が即答した。
「そ、そうか?」と蓮。
咲は「ふーん」と意味ありげに笑う。
「まあ、いいけど。朝ごはん行こ?」
三人で食堂へ向かう途中、黒瀬は終始無言だった。
隣を歩く蓮も、何を話せばいいのかわからない。
咲だけが、そんな二人をちらちらと見ていた。
(やっぱり……なにかあったんだ)
食堂に着くと、黒瀬は咲と少し距離を取り、窓際の席に座った。
蓮はどうしようか迷ったが、結局その向かいに座る。
沈黙。
湯気の立つ味噌汁を前に、二人とも手をつけない。
咲がわざと軽い調子で話題を振った。
「ねえ、今日の班別行動、どこ行く?」
「えっと……博物館じゃなかったっけ?」と蓮。
「そう。でも午後は自由行動。どこか行きたいとこある?」
黒瀬は少し考えてから、ぽつりと答えた。
「……人が少ないところ」
「またそれー。せっかくの校外学習なのに」
咲が笑ってみせたが、心の奥はざわついていた。
(葵、今“誰と”静かに過ごしたいんだろう)
午前中の見学を終える頃には、空はすっかり晴れていた。
昼下がりのバスの中、黒瀬は窓際に座り、イヤホンを片耳だけつけていた。
隣の席には蓮。
前の席では、咲が振り返って二人を見ている。
「黒瀬、寝るのか?」
「ううん、音楽聴いてるだけ」
「何聴いてんの?」
「……秘密」
「秘密」──その言葉が、昨夜の彼女の声と重なった。
蓮の胸が、また妙に騒がしくなる。
(なんでこんなに、気になるんだろ)
少しして、バスが休憩ポイントに止まった。
外の空気を吸おうと立ち上がると、咲が肩を軽く叩く。
「ねえ、ちょっといい?」
咲に呼び止められ、バスの後ろで二人きりになる。
「……蓮くん、葵と何かあった?」
「え?」
「昨日の夜から、なんか違う。葵も、あんたも」
蓮は答えに詰まる。
(まさか、見られてた……?)
「いや、別に。何も」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
嘘ではない。けれど、本当でもない。
咲は少しだけ目を伏せて、寂しそうに笑った。
「そっか。なら、いいけど」
その笑顔が、やけに痛かった。
昼過ぎ、再びバスが動き出す。
窓の外に広がる空は、やけにまぶしい。
黒瀬はその光を見つめながら、小さく呟いた。
(気づかれたくない……のに)
イヤホンの奥で流れる曲が、どこか切なく響いた。
──“触れた指先を、もう忘れられない”
その歌詞が、今の彼女の気持ちをそのまま表しているようで。
風がカーテンを揺らす中、蓮もまた同じように目を閉じていた。
(たぶん、俺たちはもう戻れない)
誰にも言えない“夜の秘密”が、静かに三人の距離を変え始めていた。




