42 波打ち際で、心が揺れる
午後。校外学習二日目。
クラス全員で海辺の清掃活動をしてから、しばらく自由時間になった。
青い空の下、海風が心地よく吹き抜ける。
波打ち際を歩きながら、相沢蓮は無意識にため息をついた。
(……あれから、ずっと気まずい)
黒瀬と話そうとしても、言葉が喉につかえる。
昨日の“あの事故”が頭から離れず、顔を合わせるだけで心臓が落ち着かない。
遠くで、黒瀬が女子たちと一緒に貝殻を拾っている。
笑顔はいつも通りだけど、どこかぎこちない。
(絶対、俺のこと意識してる……いや、俺もなんだけど)
砂浜に足跡が続く。
波が寄せてきて、跡をすぐに消していく。
まるで昨夜のことまで、海が全部流してしまおうとしているみたいだった。
そんなとき──背後から声がした。
「相沢くん、少しいい?」
振り返ると、白川咲がいた。
いつもより静かな表情で、日差しの中に立っている。
「咲?」
「うん。……ちょっと、話したいことがあるの」
彼女の声は穏やかだったが、その奥にある緊張を蓮は感じ取った。
二人は少し離れた防波堤のそばまで歩く。
潮風が髪を揺らし、遠くで笑い声が響く。
しばらく無言のまま、咲が口を開いた。
「ねえ、葵と……なにかあった?」
蓮の心臓が止まりそうになった。
「な、なんで……」
「なんか、見てればわかるよ。葵の様子。あの子、すごく分かりやすいもん」
咲は苦笑した。
でも、その目はまっすぐで、どこか寂しそうだった。
「葵があんな顔するの、初めて見た。……たぶん、あの子、自分でも気づいてないんだと思う。相沢くんのこと、特別に見てるって」
「……」
「でも、相沢くんも少し困ってる顔してる。だから……どっちかがちゃんと向き合わないと、きっと誰かが傷つくよ」
彼女の言葉はやさしく、それでいて痛かった。
風の音にまぎれて、蓮は小さく息を吐く。
「咲は、どう思う?」
そう聞くと、咲は一瞬だけ視線を逸らした。
そして、笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。
「わたしも……好きだったよ、相沢くんのこと」
海の音が止まったように感じた。
咲は小さく笑って続ける。
「でも、もういいの。葵があんな顔してるの見て、わかったから。あの子にだけは、泣いてほしくないんだ」
「咲……」
それ以上、何も言えなかった。
彼女の笑顔があまりにまぶしくて、胸が痛かった。
咲は「行こっか」とだけ言って、防波堤を降りていった。
潮の香りが残り、蓮の胸に静かな波紋を残す。
***
夕方。
宿舎に戻る前、黒瀬が砂浜でひとり膝を抱えていた。
オレンジ色の空の下、静かに波が寄せてくる。
蓮はその姿を見つけて、少し迷ったあと、ゆっくり近づいた。
「……こんなところにいたのか」
「うん。みんな先に戻ったけど、ちょっとだけ……風に当たってたくて」
黒瀬は振り返らないまま、波を見ている。
蓮は彼女の隣に腰を下ろした。
「昨日のこと、覚えてる?」
その言葉に、黒瀬の肩がびくっと震えた。
「わ、忘れてない……けど……あれは、事故だし」
「そうだな。事故だった」
蓮は静かに言う。
だけど心の奥では、違う言葉が喉まで上がっていた。
(事故だけど……俺は、あの瞬間に気づいたんだ)
(俺、本気で──黒瀬のことが)
けれど、言葉にはしなかった。
今ここで口にすれば、何かが壊れそうだった。
沈黙のまま、波の音だけが響く。
遠くでカモメが鳴き、空が少しずつ群青に変わっていく。
やがて黒瀬が、ぽつりと呟いた。
「ねえ、もし……誰かを好きになっても、言えないことってあるよね」
「あると思う」
「それが“好き”って気持ちに気づいたのが、もし遅すぎたら……どうすればいいんだろう」
彼女の声は、風に溶けるように震えていた。
蓮は何も言わず、ただ隣で波を見ていた。
でも、心の中では──彼女の手を取ってしまいたい衝動と、抑える理性がぶつかり合っていた。
波がふたりの足元をさらっていく。
その瞬間、黒瀬が小さく笑った。
「……ね、ありがと。隣にいてくれて」
その笑顔を見たとき、蓮はようやくわかった。
この感情はもう、誤魔化せない。
(俺、やっぱり──黒瀬のことが好きなんだ)
海風が吹く。
彼の心の奥で、何かが静かに、確かに動き出していた。




