40 ふたりきりの夜
夜。
校外学習一日目の宿舎。
女子部屋の明かりが少しずつ消えていく時間、黒瀬葵はまだ眠れずにいた。
(……うるさい)
胸の鼓動のことだ。
昼間、バスで隣に座った蓮の肩に少し触れただけで、ずっとドキドキしている。
落ち着かない気持ちを抱えたまま、そっと布団から抜け出した。
静かな廊下。
窓の外には海の月明かりが広がっている。
――そのとき。
「おい、黒瀬?」
振り返ると、そこに蓮がいた。
スウェット姿で、自販機の缶コーヒーを片手にしている。
「……あんた、なんでここに」
「こっちのセリフだよ。夜中に散歩?」
「眠れなかっただけ」
「そっか。俺も」
そう言って、蓮は黒瀬の隣に立った。
二人の間に、ほんの少しの沈黙。
夜風が髪を揺らす音だけが響いていた。
「……こういうの、修学旅行っぽいな」
「なにそれ」
「夜に抜け出して話すやつ。ちょっと特別感あるだろ」
「バレたら怒られるよ」
「怒られたら、一緒に怒られようぜ」
冗談めかした声に、黒瀬は小さく笑う。
その笑顔を見て、蓮の胸が少しだけ熱くなった。
「黒瀬ってさ」
「なに」
「最近、よく笑うようになったな」
「……そう?」
「うん。前よりずっと柔らかい顔してる」
「それ、からかってる?」
「違う。本気で言ってる」
その言葉に、黒瀬は少しだけ目を伏せた。
頬が、月の光に照らされてうっすら赤い。
「……ありがと」
「え?」
「なんでもない」
彼女が目をそらした瞬間、風がふっと吹いた。
カーテンのように舞う彼女の髪が、蓮の頬に触れる。
一瞬、息が止まる。
そして、次の瞬間。
黒瀬の足元が滑った。
「わっ──!」
「危なっ!」
咄嗟に腕を伸ばした蓮が、彼女の身体を支える。
そのまま倒れ込むような形になり──顔の距離が、ほんの数センチまで近づいた。
時間が、止まったようだった。
黒瀬の瞳が、夜の光を映して揺れる。
息が混じる距離。
そして──ほんの一瞬、触れた。
唇と唇が。
事故のような、奇跡のような。
それは、たった一秒の出来事。
「……っ、ちが、今のは!」
「わ、わかってる!」
二人とも、顔を真っ赤にして跳ねるように離れた。
沈黙。
お互いに、どこを見たらいいのか分からない。
「……あんたのせいだから」
「俺!? 今、助けた側だよな!?」
「助け方が悪いのっ!」
「理不尽すぎるだろ!」
小声で言い合う二人。
けれど、どちらも本気では怒っていなかった。
むしろ、心臓の音がまだ止まらなくて。
気まずさの中に、どこか甘い空気が流れていた。
沈黙を破ったのは、黒瀬の小さな声だった。
「……ありがと」
「え?」
「助けてくれたこと。……あと、なんか、ドキドキした」
蓮が固まる。
黒瀬も自分で言って恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にして言葉を重ねた。
「な、なに言わせるのよっ!」
「今、自分で言っただろ!?」
「もう知らないっ!」
くるりと背を向けて、黒瀬は廊下の奥へ走っていく。
その背中を見送りながら、蓮は苦笑した。
「……ほんと、変なやつ」
でも、その口元には確かに笑みが浮かんでいた。
夜の静けさが戻る。
蓮は窓の外を見上げ、そっとつぶやいた。
(──やばい。本気で、好きかもしれない)
遠くで波の音が響く。
そして、その音にかき消されるように、二人の“特別な夜”は静かに過ぎていった。




