39 バスの中で、触れた手
校外学習の朝。
まだ少し肌寒い空気の中、駅前には集合する生徒たちの声が響いていた。
大きなリュックを背負った相沢蓮は、早めに集合場所に着いていた。
「……おはよ、相沢」
振り向くと、黒瀬葵が少し寝ぼけた顔で立っていた。
「お前、ちゃんと起きれたんだな」
「うるさい。昨日ちゃんとアラーム三重にしたんだから」
「そこまでして寝坊対策すんなよ」
「……心配してくれたっていいじゃん」
「え?」
「なんでもない!」
そっぽを向く黒瀬の頬は、ほんのり赤い。
そこへ、白川咲が笑顔で駆け寄ってきた。
「おはよう、二人とも! 今日、いい天気だね」
「おう。雨よりはマシだな」
「うん。……あ、バス来たよ」
咲の声に振り向くと、大型バスがゆっくりと停車した。
引率の先生が点呼を取り、班ごとに乗り込んでいく。
バスの中。
三人は同じ班なので、自然と近い席になった。
通路側に黒瀬、窓際に蓮、そのすぐ後ろに咲。
エンジン音が響き、車体がゆっくりと動き出す。
「わぁ、結構揺れるね」
黒瀬が窓の外を見ながら笑う。
「酔うなよ。お前すぐ顔に出るだろ」
「だ、大丈夫だよ。……たぶん」
「たぶんが一番危ねぇ」
「心配してくれてんの?」
「いや、隣で吐かれたら困るから」
「はぁ!? もう知らない!」
黒瀬が膨れっ面をしてそっぽを向く。
そんな彼女を見て、蓮は思わず小さく笑った。
(こうやって騒いでる時が、一番“らしい”よな)
バスの前方では、先生がマイクで注意事項を話している。
けれど、生徒たちはほとんど聞いていない。
お菓子を回したり、スマホで写真を撮ったり。
車内はにぎやかな空気に包まれていた。
「葵、これ食べる?」
咲が後ろの席からお菓子を差し出した。
「うん、ありがと」
「蓮くんは?」
「……じゃあ、もらう」
「ふふ、遠慮しなくていいのに」
咲の笑顔はいつも通り穏やか。
でもその瞳の奥には、少しだけ揺れる影があった。
黒瀬と蓮の距離が近い。
笑い合うその横顔を見るたびに、心のどこかが痛んだ。
(もう……私の入る場所、ないのかも)
けれど彼女は、それでも笑う。
自分で決めたことだから。
「応援する」なんて口には出せないけれど、せめて二人が幸せであってほしいと願った。
そのとき、バスが急に揺れた。
「わっ!?」
黒瀬がバランスを崩し、思わず蓮の肩にもたれかかる。
一瞬、息が止まった。
頬が触れそうな距離。
二人の視線が、わずかに交わる。
「……ご、ごめ」
「いや、大丈夫」
黒瀬は慌てて体を離し、顔を真っ赤にした。
「な、なんでそんな近づくのよ」
「いや、今のはバスが揺れただけだろ」
「わかってるけど……!」
「……顔、赤いぞ」
「赤くない!」
咲はその光景を、静かに見つめていた。
唇をきゅっと結び、窓の外に視線をそらす。
(本当に、葵……恋してるんだね)
窓に映る自分の顔を見て、少しだけ微笑んだ。
その笑みは、どこか切なかった。
目的地まではまだ二時間以上。
バスは山道に入り、カーブのたびに車体が揺れる。
黒瀬は少し疲れたのか、隣でうとうとし始めた。
彼女の頭が、自然と蓮の肩に寄りかかる。
「……おい」
声をかけようとして、やめた。
眠っている黒瀬の顔が、あまりにも穏やかで。
そっと息をつく。
(お前って、こういうときだけ無防備なんだよな)
少し後ろで、咲が目を閉じたふりをしながら、その姿を見ていた。
胸が痛いのに、不思議と涙は出なかった。
ただ、心の奥が静かに波打つ。
──バスの窓から差し込む陽射しが、三人をやさしく照らす。
まだ誰も知らない。
この旅の途中で起こる出来事が、三人の関係を変えてしまうことを。




