38 揺れる視線、そらした心
校外学習の前日。
教室には、どこか浮き足立った空気が漂っていた。
机の上には配られたばかりのしおり。持ち物リストや班分け表をめくりながら、生徒たちが口々に騒いでいる。
「ねぇ、班決まった?」
黒瀬葵が隣の席から顔をのぞかせた。
相沢蓮は、ぼんやりプリントを見つめたまま答える。
「いや、まだちゃんと見てねぇ」
「ほら、見てみなよ。……リーダーがあんた、メンバーは私と咲」
「は? またその組み合わせ?」
「“仲が良さそうだから”だって。先生のコメント付き」
「仲が良さそうって……どこ見て判断してんだよ」
黒瀬はくすっと笑った。
「まあ、いいじゃん。私がリーダーよりマシでしょ」
「いや、絶対大変になる未来しか見えねぇ」
「そういうこと言うと、班長命令でこき使うよ?」
「お前が一番そういうの向いてねぇだろ」
いつも通りの軽口。
だけど、今日は妙に胸が落ち着かなかった。
笑いながら言葉を交わしているのに、息が詰まるような感覚がある。
(……昨日、あんなに近くで顔見ちまったから、か?)
昨日、準備中に手が触れたとき。
ほんの数秒の沈黙が、妙に長く感じた。
意識なんてしてなかったはずなのに──今は、どうしても目を合わせづらい。
ふと、視線の先に白川咲の姿があった。
数人の女子と話していた咲が、こちらに気づいて小さく手を振る。
「蓮くん、明日、集合時間早いからね。寝坊したら置いてくよ?」
「そんなドジしねぇよ」
「ふふ、黒瀬さんの寝坊は心配だけど」
「ちょっと、どういう意味?」
笑い合う二人を見ながら、咲の胸の奥に小さな痛みが走った。
それでも笑顔を崩さない。
(葵が彼を見る目、最近変わったよね……。でも、いいんだ。あの子が笑ってるなら)
咲は自分にそう言い聞かせ、話題をそらした。
その強がりを、誰も気づかない。
放課後。
帰り支度を終えた黒瀬は、机の上のプリントを丁寧にたたみながら言った。
「明日のバス、楽しみだね」
「お前、ちゃんと弁当忘れんなよ」
「誰に言ってるの? この前忘れたのはあんたでしょ」
「う……」
黒瀬が口元を押さえて笑う。
その仕草が妙に可愛く見えて、蓮は一瞬、視線を逸らした。
「なに、黙って」
「いや……別に」
「“別に”って便利な言葉だね。あんた、よく使う」
「うるせぇな」
軽く睨んだつもりだったのに、黒瀬は目を細めた。
「……でも、今の顔、ちょっと優しい」
「は?」
「なんでもない」
頬を赤らめたまま、黒瀬はカバンを持って立ち上がる。
夕方の光が教室に差し込んで、髪を金色に照らした。
一瞬、見惚れてしまう。
その視線に気づいたのか、黒瀬が照れたように口を開いた。
「なに、見るなよ」
「……いや、なんか変わったなって」
「どこが?」
「前より、笑うようになった」
「……そっちの方が、いい?」
「ああ。いいと思う」
ほんの少し、空気が止まった。
彼女の唇がわずかに動いて──何か言おうとしたそのとき。
「蓮くーん! 帰るよー!」
廊下の方から咲の声が響いた。
黒瀬は小さく肩をすくめ、視線をそらす。
「……行こ」
「ああ」
校門を出たあと、三人並んで歩いた。
茜色の空が街を染めている。
黒瀬と咲が並び、その少し後ろを蓮が歩く形になった。
「ねぇ、明日の夜の自由時間、三人で回ろうよ」
咲がそう言うと、黒瀬は少し迷ってから頷いた。
「……うん、いいよ」
「よかった。じゃあ決まり!」
咲の声は明るい。
けれど、笑顔の奥で揺れる影を、黒瀬は感じ取っていた。
(咲……気づいてるのかもしれない。私が、蓮を──)
言葉にならない思いを飲み込んで、そっと夜風に溶かした。
風が頬をなで、三人の髪を揺らす。
その瞬間だけ、時間がやけに静かに感じた。
──そして翌日。
校外学習で起こる“あの出来事”が、三人の関係を大きく動かすことになるなんて、誰もまだ知らなかった。




