30 昔から、そういう顔してた。
体育祭が終わって一週間。
季節は、少しずつ初夏に近づいていた。
昼休み。
教室の窓から風が入り、カーテンがふわりと揺れる。
相沢蓮はパンの袋を開けながら、向かいの席の黒瀬葵をちらっと見た。
最近の彼女は、どこか上の空だ。
「なあ、黒瀬」
「なに」
「この前から思ってたんだけどさ、なんか考えごと多くね?」
「別に。そういう顔に見えるだけ」
「ほーん。じゃ、今なに考えてるの?」
「……今日の数学、寝ようか起きようか」
「それは考えごとって言わねえだろ」
蓮が苦笑すると、黒瀬はふっと目を細めた。
その笑顔が、どこか前より柔らかい。
「……体育祭、楽しかった?」
不意に、黒瀬のほうから尋ねてきた。
「ん? まあな。走るの久しぶりだったけど」
「ふーん」
「なんだよ、その“ふーん”」
「別に。ただ、楽しそうだったなって」
黒瀬は机に肘をつき、頬杖をつく。
少しだけ、目線をそらした。
「……あんた、昔からそういう顔してた」
「昔?」
「……なんでもない」
その一言に、蓮は首を傾げた。
「おいおい、気になる言い方すんなって」
「しつこい男は嫌われるよ」
「ツンが戻ってきたな」
「……ツンじゃない」
黒瀬の耳が、わずかに赤い。
教室のざわめきの中で、
彼女の筆箱についた小さな“ぷりん太のキーホルダー”が揺れた。
金具の部分には、うっすら赤いリボンが結ばれている。
蓮は気づいたが、何も言わなかった。
代わりに、いつもより優しい声で言う。
「……大事にしてるんだな、それ」
「……当たり前でしょ」
「そっか。似合ってるよ」
「なっ……! な、なにそれ、急に」
「いや、素直な感想」
「うるさい。もう知らない」
ぷいっと顔をそむける黒瀬。
けれど、頬のあたりがほんのり赤い。
蓮はそれを見て、小さく笑った。
「……やっぱ、こういう黒瀬が一番好きだわ」
「な、なに言ってんの!?」
「冗談だって」
黒瀬が机を軽く叩いて「もう!」と小声で言う。
でも、その顔は怒ってるようで、どこか嬉しそうでもあった。
そのあと、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちる。
黒瀬は小さくつぶやいた。
「……ありがと」
「え?」
「なんでもない」
そう言って彼女は席を立ち、パンを持って教室を出ていった。
その背中が、どこか少しだけ軽やかに見えた。
教室に残った蓮は、窓の外を見上げながらつぶやいた。
「……昔からそういう顔してた、か」
その言葉が、なぜか心に引っかかっていた。
まるで、黒瀬の中に“知らない時間”があるみたいに。
(俺、どっかで……あいつと会ってたのか?)
考えても答えは出ない。
けれど、胸の奥に残る違和感だけは、確かにそこにあった。
蓮は静かに目を閉じた。
窓から吹き込む風の中に、微かに甘い匂いが混じる。
(……あいつ、あんな顔するんだな)
(なんか、見てるだけで……落ち着かねえ)
心の奥が、かすかに熱くなる。
それが何なのか、まだ言葉にはできない。
ただ、黒瀬葵の笑顔が頭から離れなかった。
──そして、黒瀬もまた。
廊下を歩きながら、そっとキーホルダーを指でなぞっていた。
赤いリボンが、指先に触れる。
それは、母の形見であり、そして“あの日の記憶”と結びついたもの。
(……やっと、少しだけ前を向ける気がする)
黒瀬は、小さく笑ってつぶやいた。
「今度こそ、ちゃんと……伝えられたらいいな」
昼下がりの風が、彼女の髪をやさしく撫でていった。




