29 風が運んだ「おかえり」
放課後の教室に、夕陽が差し込んでいた。
窓際の机に座る黒瀬葵は、プリントを束ねながら小さく息をつく。
今日は委員会の手伝いで、いつもより少し遅くなった。
ふと顔を上げると、まだ一人だけ残っている男子がいた。
──相沢蓮。
彼もノートを閉じて、帰り支度をしているところだった。
「……あれ、黒瀬も残ってたのか」
「委員会。ちょっとだけね」
「そっか。じゃ、一緒に帰るか?」
「……べ、別にいいけど」
黒瀬は言いながら、鞄の中にプリントを押し込んだ。
(“いいけど”って言ったけど……なんで私、こんなにドキドキしてるの)
教室を出ると、廊下に夕暮れの風が通り抜けた。
窓の外には、オレンジ色の光を反射した校庭が広がっている。
「なあ、最近の黒瀬、ちょっと変わったよな」
「へ? な、なにが」
「いや、前より話しやすくなったっていうか」
「……気のせい」
「そうか? オレは嬉しいけどな」
不意にそんなことを言われて、黒瀬は歩みを止めた。
頬がじんわりと熱くなる。
(ほんと、ずるい。そういうことをさらっと言うの、ずるい)
「……あんた、ほんと無自覚すぎる」
「え、オレ?」
「ううん、なんでもない」
視線をそらして言う黒瀬の手元では、
鞄につけた“ぷりん太のキーホルダー”がかすかに揺れていた。
リボンが、夕陽に照らされてきらりと光る。
「それ、最近よく触ってるよな」
「べ、別に」
「……なんか、安心する?」
「……そうかもね」
小さく笑う黒瀬の横顔が、穏やかだった。
その表情を見て、蓮の胸に再び“違和感”が浮かぶ。
──昔も、こんな顔をどこかで見た気がする。
でも、いつ? どこで?
考えても思い出せない。
ただ、心の奥にあたたかい感情だけが残った。
「黒瀬」
「なに」
「……今日も、おつかれ」
「……っ、なにそれ」
「いや、言いたくなっただけ」
一瞬、黙ったあと。
黒瀬はふっと笑って言った。
「……ありがと。蓮もね」
二人のあいだを、風が通り抜ける。
その風が、どこか“おかえり”と言っているように感じた。
校舎を出ると、茜色の空。
黒瀬は鞄をぎゅっと抱えながら、小さくつぶやく。
(ねえ、お母さん。私、ちゃんと前に進めてるよ)
彼女の手元で、ぷりん太のキーホルダーが静かに揺れた。
それは、まるで母のぬくもりがそっと背中を押しているようだった。




