26 風の中の横顔
朝のグラウンドは、いつもより騒がしい。
テントの下では放送委員がマイクテストをして、応援団が声を張り上げている。
体育祭の空気って、どうしてこうもソワソワするんだろう。
「おーい蓮! 走る前にストレッチしとけよ!」
佐伯がタオルを首にかけて、笑いながら寄ってくる。
「おう、ありがとな。お前は騎馬戦だっけ?」
「そうそう。俺、上に乗る方な。まあ、華麗に落ちてくる予定だけど」
「落ちる前提かよ」
そんな軽口を交わしていると、視線の端に黒瀬の姿が見えた。
白いTシャツに紅組のハチマキ。
普段の制服姿とは違って、やけにまぶしい。
「……なに見てんだよ。黒瀬か?」
「べ、別に」
「いやいや、完全にそうだろ」
佐伯はニヤリと笑って、肘で俺の脇腹をつつく。
「お前、リレーで黒瀬と同じチームなんだろ? やるじゃん」
「やるもなにも、勝手に決められただけだって」
言いながらも、胸のあたりが少しだけ落ち着かない。
あの“約束”を思い出す。
──『リレー、出て。サボったら許さないから』
黒瀬があの時、真剣な顔で言った言葉。
不思議と、あの声が背中を押してくれている気がした。
やがて、リレーの順番が近づく。
トラックの脇に並ぶと、ちょうど黒瀬が隣のレーンに立っていた。
ハチマキを結び直す彼女の横顔は、まるで戦う前の騎士みたいに静かだ。
「……緊張してる?」
思わず声をかけると、黒瀬はちらりとこちらを見て、小さく眉をひそめた。
「別に。勝つだけ」
「へぇ、頼もしいね」
「当たり前でしょ。……あんたも、足引っ張らないでよ」
「プレッシャーかけるなよ……」
けど、その声はどこか柔らかかった。
いつものトゲの中に、少しだけ優しさが混ざっている。
スタートのピストルが鳴る。
地面を蹴った瞬間、歓声が遠のいて、風だけが耳を抜けた。
足の裏の感覚が軽い。前を走る赤いハチマキ──黒瀬の背中が、少しずつ近づいていく。
──バトンを渡す瞬間。
黒瀬が一瞬だけ振り返った。
その瞳に映る自分が、なぜか鮮明に見えた。
時間が少しだけ、止まった気がした。
「行け!」
黒瀬の声が、すぐ隣で響く。
バトンを受け取った俺は、全力で地面を蹴った。
結果は──僅差で勝利。
歓声が上がる中、俺は膝に手をついて息を整えた。
その横で、黒瀬がタオルで額の汗をぬぐっている。
「やったな」
「……まぁ、悪くなかったわね」
少し照れくさそうに笑う彼女を見て、胸が熱くなる。
そのとき、風が吹いた。
黒瀬のカバンから、何かが落ちた。
地面に転がった小さな光──ぷりん太のキーホルダー。
「あ、それ……」
拾い上げようとした俺の手より早く、黒瀬がサッと手を伸ばして隠した。
「見ないで」
その声が、いつもよりずっと小さくて、震えていた。
「別に、見ても──」
「やめて。……お願い」
一瞬、目が合った。
その瞳の奥に、涙のような何かが揺れた気がした。
「……わかった。見なかったことにする」
そう言うと、黒瀬は小さく息をつき、
俯いたまま「……ありがと」とつぶやいた。
それ以上、何も言えなかった。
ただ、夕陽に照らされたその横顔が、いつもよりずっと儚く見えた。
(あいつ、やっぱり何か抱えてるんだよな)
胸の奥に残るざらつきと共に、
俺はその後ろ姿を、ただ静かに見送った。




