25 夕陽の中で
体育祭まで、あと三日。
放課後のグラウンドには、夕陽が傾いていた。
風が少し冷たくなってきて、照り返す砂の匂いが夏の名残を運んでくる。
その真ん中で、黒瀬葵はリレーの名簿を手にして立っていた。
腕を組み、少し不機嫌そうな顔。
でもその表情には、どこか真剣な色が混ざっている。
「……遅い」
俺──相沢蓮は、申し訳なさそうに頭をかいた。
「悪い、佐伯に捕まってて」
「またあの人? 本当に仲いいのね」
黒瀬はため息をつく。
それでも、ほんの少し口元がやわらかくなった。
グラウンドには他のクラスもまだ残っていて、
笑い声と掛け声が混ざる中、
俺たちの会話だけが、ぽつりぽつりと浮かんでいた。
「はい、これ」
黒瀬が紙を差し出す。
“第二走・相沢蓮”と名前が書かれた名簿だった。
「……俺、第二走なんだ」
「第一は目立つでしょ。あんた、緊張するとすぐ顔に出るし」
「気を遣ってくれた?」
「別に。あんたが転んだら全員の努力が水の泡になるから」
「ひど」
「事実」
黒瀬はわずかに笑った。
その笑い方は、いつもの冷たさとは違って、
どこか柔らかく、あたたかかった。
(やっぱり、笑うと可愛いんだよな……)
そんなことを思った瞬間、
彼女がふいにこちらを見上げる。
「なに?」
「いや、別に」
「“別に”って言うときの顔、絶対なんか考えてるでしょ」
「考えてないって」
「うそ」
黒瀬は一歩、俺のほうに近づいた。
その距離は、手を伸ばせば届くほど近い。
風がふわりと彼女の髪を揺らす。
「……あんたが頑張ると、私も頑張れる気がする」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
「え?」
「な、なんでもない!」
黒瀬は慌てて視線をそらす。
「いまの、忘れて!」
耳まで赤く染まった横顔が、夕陽に照らされている。
その姿を見て、笑いそうになるのをこらえた。
「……わかった。忘れないようにしとく」
「忘れろって言ってるの!」
黒瀬が睨みつけてくる。
けれどその瞳は、怒っているようでどこか揺れていた。
⸻
少しの沈黙。
遠くでは練習を終えた部活の声が響く。
空はオレンジから淡い群青に変わりつつあった。
「……ねえ」
黒瀬がぽつりと呟く。
「リレーが終わったら、少し話がある」
「話?」
「……うん。まだ内緒」
その声はいつもより小さくて、
風の音に溶けて消えそうだった。
でも、確かに“なにか”を伝えようとしていた。
「じゃ、また明日」
彼女はペンをポケットにしまい、
振り返らずに歩き出す。
その背中を見送りながら、
俺はゆっくりと深呼吸をした。
(あいつ……なにを言おうとしてるんだろう)
夕陽の残り香の中で、
胸の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
 




