白波の下【夏のホラー2025】
【白波の下】ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真昼の陽射しが、海面を銀色に染めていた。
八月、茜浜――県内でも有名な観光ビーチだ。
だが、今日は人影がまばらだった。空には雲ひとつないのに、海から吹く風がやけに冷たく、潮の匂いが鼻につく。
海辺に立つ奈緒は、足首まで水に浸かりながら、不意に背後を振り返った。
誰もいない。
――なのに、耳元で囁かれた気がした。
「……返して」
奈緒は思わず波打ち際から後ずさった。
今日は中学の友人、美咲の誘いで来たはずだが、美咲の姿も見えない。
呼ぼうとした瞬間、沖の方から長い髪が揺れているのが見えた。
人だ――だが、妙だ。
波間に立っている。腰まで沈んでいるはずの水面の上で。
奈緒は目を凝らした。
髪は海藻のようにぬめり、顔は――無い。
あるのは、黒い穴だけ。
その女が、ゆっくりと腕を伸ばした。
「……かえして」
低く濁った声が、潮騒を割って届く。
奈緒の足が勝手に前へ進む。
砂はぬかるみ、冷たい泥のように絡みつく。
膝まで沈む感覚――いや、沈んでいるのは海ではない。
何かの手だ。白くふやけた、人間の手が何本も足首に絡みつき、ずるりと引きずり込む。
必死に振り払った瞬間、沖にいた女が目の前に立っていた。
髪の隙間から覗く顔は、皮膚が剥け、眼球が海水で膨れあがっていた。
奈緒は息を呑んだ――その顔は、去年行方不明になった美咲だった。
「……返して……」
女の手が奈緒の胸に触れる。氷のような冷たさが骨まで染み込む。
意識が暗く沈んでいく中で、耳に聞こえたのは、無数の声。
「返して」「返して」「返して」
波の下から、何十、何百という溺死者が、白い顔を浮かべてこちらを見上げていた。
奈緒の視界が完全に黒くなった瞬間、最後に見たのは、自分の手首に絡みついた黒いゴム紐――去年、美咲から借りたヘアゴムだった。
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翌朝、浜辺には奈緒のサンダルだけが残されていた。
地元の漁師は言う。
「あそこはな、昔から“返さねえと連れてかれる”って場所なんだ。物でも、命でも、一度でも海から貰ったもんは返さなきゃいけねぇ」
その日から茜浜では、またひとり、またひとりと行方不明者が増えた。
海は相変わらず穏やかに光り、砂浜に寄せる波は、白い手の形をしていた。
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