アンナの思い出
雨は止む気配を見せず、ターナー伯爵家の館を重苦しい空気で包み込んでいた。アンナは自室のベッドに腰掛け、窓の外を叩く雨音に耳を傾けていた。胸の奥でざわめく不安と苛立ちが、彼女を落ち着かなくさせる。ウィリアムの冷たい態度、ジェーンの裏切り、そしてあの不気味な吟遊詩人レノーラの存在。すべてがアンナの心を締め付ける。彼女は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。すると、ふと、過去の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
アンナは物心ついた頃から、欲しいものはすべて手に入れてきた。ターナー伯爵家の次女として、病弱で愛らしい容姿の彼女は、家族の寵愛を一身に受けて育った。特に母、ターナー伯爵夫人は、アンナのわがままを何でも許し、どんな願いも叶えてくれた。一方、姉のジェーンはいつも穏やかで優しく、アンナのわがままに耐え、笑顔で譲ってくれた。それが当たり前の世界だった。
記憶の中でも特に鮮明なのは、ジェーンの16歳の誕生日だった。その日、ジェーンは父から贈られた美しいサファイアのイヤリングを手に、目を輝かせていた。繊細な銀の細工に嵌め込まれた青い宝石は、ジェーンの穏やかな瞳にぴったりだった。
アンナはそれを一目見て、胸がざわついた。
自分も欲しい。
いや、ジェーンが持っているものが欲しかった。
「ねぇジェーン、そのイヤリング、素敵ね。私にちょうだい。」
アンナは無邪気な笑顔で言った。
ジェーンは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの優しい笑みを浮かべた。
「アンナ、これは…父さんが私のために選んでくれたものだから…。」
ジェーンが言いかけたとき、母が割って入った。
「ジェーン、アンナが欲しいと言ってるのよ!あなたには他にもたくさんアクセサリーがあるでしょう? アンナは体が弱いんだから、気分を良くしてあげなさい。」
いつもの通り、母の声にはどこか有無を言わせない響きがあった。
ジェーンは唇を噛み、静かにイヤリングをアンナに手渡した。アンナは勝利の笑みを浮かべ、イヤリングを耳につけた。鏡に映る自分の姿に満足しながら、ジェーンの少し寂しげな表情には気づかないふりをした。
母はアンナの頭を撫で、
「いい子ね。」
と囁いた。
ジェーンはただ黙って微笑み、いつも通り何も言わなかった。
そんなことが何度あっただろう。ドレス、おもちゃ、部屋の装飾品。ジェーンが持つものは、いつもアンナのものになった。父は日和見な性格で、母の言うことに逆らわず、ジェーンもまた、妹のわがままを受け入れるのが当たり前になっていた。アンナにとって、それは愛されている証だった。
ジェーンは優しい姉だから、いつも許してくれる。そう信じていた。
やがて、ジェーンに縁談が持ち込まれた。
相手はウィリアム、侯爵家の跡取りだった。優しく、整った顔立ちで、家柄も申し分ない彼は、誰もが羨む素敵な男性だった。
ジェーンがウィリアムからの求婚を受けた日、アンナは広間でその話を耳にした。ジェーンが恥ずかしそうに頬を染め、父と母が満足そうに頷く中、アンナの胸に嫉妬の炎が燃え上がった。
なぜジェーンが? なぜ私じゃないの?
その夜、アンナは父の書斎に忍び込んだ。ターナー伯爵はいつものように優柔不断な笑みを浮かべ、娘の突然の訪問に驚いていた。アンナは涙を浮かべ、訴えた。
「父さん、ジェーンの縁談、私に譲ってほしいの。ジェーンには家の責任があるでしょ? 跡取りとして婿を取るべきだわ。私の方がウィリアムにふさわしいのよ。」
アンナの言葉に、父は困惑した表情を見せたが、翌朝には事情を知った母が後押しした。
「アンナの言う通りよ。ジェーンは長女として家を継ぐ責任があるわ。ウィリアムはアンナに任せなさい。」
アンナは母の言葉に、勝ち誇った笑顔を浮かべた。
父はいつものように母に従い、ジェーンの縁談をアンナに譲ることを決めた。
ジェーンはただ静かに頷き、いつものように何も言わなかった。
アンナは最高の気分だった。
彼の優しい笑顔、落ち着いた声、すべてがアンナを満たしてくれた。ウィリアムと庭を散歩し、広間でダンスを踊り、夜には星空の下で愛を囁き合った。
ジェーンはいつも通り穏やかに微笑み、アンナのわがままを許してくれた。少なくとも、アンナにはそう見えた。
「ジェーンは優しいから、今回も許してくれるよね。」
アンナはウィリアムの腕の中でそう呟いた。ウィリアムは笑って頷き、アンナの髪を撫でた。
あの頃、アンナは自分が世界の中心だと信じていた。
回想から戻ったアンナは、ベッドの上で身を起こした。
雨音が耳に刺さる。胸の奥のざわめきは収まらず、むしろ強くなっている気がした。
なぜこんなことを思い出したのだろう。
ジェーンの裏切り、ウィリアムの冷たい態度、アンナの心を締め付ける。
ふと、階下から聞き慣れない足音が聞こえてきた。軽やかな、しかしどこか不気味な響き。アンナの背筋に冷たいものが走る。レノーラだ。あの吟遊詩人がまた来たのだ。彼女の歌が館に響き始めると、いつも使用人たちが怯え、母やジェーンが顔を強張らせる。アンナはそれを面白がっていたが、今日はなぜか胸騒ぎがした。
「もう、うんざりよ。」
アンナは呟き、部屋を出て階段を下りかけた。だが、広間に近づく前に、父の書斎から漏れる声に足を止めた。ターナー伯爵の重々しい声と、レノーラの落ち着いた声が聞こえる。アンナは扉の隙間に耳を寄せ、息を潜めた。
「レノーラ殿、この館の異変はますますひどくなっている。アンナの霊が…。」
父の声は震えていた。
アンナの心臓が、もし動いていたなら、止まるような衝撃を受けた。霊? 私の霊?何を言っているの?
「伯爵様、アンナ様の霊は強い未練に縛られています。特にウィリアム様への執着が、彼女を悪霊に変えているのです。」
レノーラの声は静かだが、どこか冷たく響いた。
「雨の日は特に力が強まります。彼女自身、自分が死んでいることに気づいていないのです。」
アンナは凍りついた。死んでいる? 私が?
そんなわけない。彼女は自分の手を見下ろした。白く、透き通った肌は、いつにも増して儚かった。まるで、今にも消えてしまいそうなくらいに。
「いや…嫌ぁぁー!」
アンナが声にならない悲痛な叫びを上げると、それに呼応するかのように、母の叫び声が館の中をこだました。