不気味な吟遊詩人
「あの優しい姉が、まさか私の婚約者を奪うなんて。」
いつも心優しく、なんでも言うことを聞いていた姉のジェーン。どうして、ウィリアムを奪ったの?
「あいつが来てから、全部おかしくなった。」
今日も館に颯爽と現れた女吟遊詩人を、アンナは忌々しげにギロリと睨みつけた。
ターナー伯爵家の広間は、雨の音が窓を叩く陰鬱な響きに満ちていた。厚いカーテンが閉ざされた部屋は、薄暗く、まるで時間が止まったかのような重苦しい空気に包まれている。
アンナはソファの端に腰掛け、苛立ちを隠さず、目の前の光景を睨みつけていた。黒髪をなびかせ、リュートを手にした吟遊詩人レノーラが、広間の中央で使用人たちに挨拶をしている。彼女の美貌と自信に満ちた態度は、アンナの神経を逆撫でした。
あの女が来てから、館のすべてがおかしくなったのだ。
最近、館では奇妙な噂が囁かれていた。幽霊が出るというのだ。噂はきっと本当なのだろう。今もシャンデリアが不気味に揺れ、ろうそくの炎が突然ついたり消えたりしている。窓は締め切られ、風もないのに。
先日、ジェーンがティーカップがひとりでにテーブルを滑るのを目撃したと、震える声で母に訴えていた。アンナはその話を耳にしたとき、半信半疑だったが、胸の奥に冷たい不安が広がった。
レノーラが来るたびに、こうした異変が頻発する。あの女が何か怪しい術を使っているのではないか? アンナはそう疑わずにはいられなかった。
外では雨が絶え間なく降り続き、庭園の花々を灰色のベールで覆っていた。窓ガラスを叩く雨音は、アンナの心をさらに憂鬱にさせる。彼女は胸の奥でざわめく不安と怒りを抑えきれなかった。
姉のジェーンが、ウィリアムを奪ったこと。あの優しい姉が、なぜそんな裏切りを?
そして、レノーラの不気味な存在。すべてがアンナを苛立たせ、恐怖と嫉妬の渦に飲み込んでいた。
「レノーラのせいよ。あいつの歌が、みんなを怯えさせてる。」
アンナは呟き、爪を掌に食い込ませた。
レノーラが歌うのは、ただの歌ではない。暗く、背筋が寒くなるような旋律。まるで死者の嘆きを呼び起こすような歌だ。
使用人たちはレノーラが現れるたびにざわつき、母は顔を青ざめ、ジェーンは怯えた目で辺りを見回す。アンナはそれを面白がりながらも、心のどこかで恐怖を感じていた。
あの女は、霊感商法でも企んでいるのではないか?
神秘的な雰囲気で皆を騙し、何か企んでいるに違いない。アンナの胸に、嫉妬の炎が燃え上がる。突然現れた、美しい吟遊詩人レノーラ。ウィリアムが彼女の歌に耳を傾ける姿。すべてが許せなかった。
アンナは立ち上がり、わざとヒールの音を高く響かせて広間を歩いた。
カツ、カツ、と大理石の床に反響する音に、使用人たちがびくりと肩を震わせた。ジェーンの顔が強張り、母が不安げにこちらを見た。
アンナはくすりと笑った。怖がらせてやった、と小さな満足感が胸に広がる。特にジェーンを脅かすのは、最近のアンナにとってささやかな楽しみだった。いつも優しく、いつも譲ってくれた姉が、なぜウィリアムを奪ったのか。考えれば考えるほど、怒りが込み上げてくる。
「令嬢らしくないなんて、知ったことじゃないわ。」
アンナは心の中で毒づき、さらに強く床を踏み鳴らした。ヒールの音が館に響き渡り、使用人たちが顔を見合わせ、怯えた様子で下がっていく。アンナはそれを見て、ますます気分が良くなった。
だが、その満足感も一瞬のことだ。レノーラがリュートを手に、歌を始めようとしていた。彼女がターナー伯爵家に現れるのは、決まって雨の日。今日もまた、恐ろしい歌を歌うつもりなのだろう。アンナは唇を噛み、胸のざわめきを抑えようとした。
広間の入り口にウィリアムの姿が見えた。
「そうだ!今日はウィリアムが来る日だったわ!」
アンナの心が一瞬明るくなる。
彼の優しい笑顔、落ち着いた物腰、整った顔立ち。侯爵家の跡取りであるウィリアムは、アンナの婚約者だ。彼との婚約は、アンナの誇りだった。
彼女は駆け寄ろうとしたが、ウィリアムの視線が彼女を素通りし、ジェーンに向けられた。アンナの動きが止まる。ウィリアムはジェーンに微笑みかけ、何かを囁いた。ジェーンの頬が赤らみ、彼女もまた穏やかな笑みを返す。二人の親しげな様子に、アンナの胸に怒りが燃え上がった。
「ウィリアム、どうして私を無視するの!?」
アンナは叫んだが、ウィリアムはジェーンと話し続けていた。
いつもなら、母がジェーンを咎め、アンナを擁護してくれるはずなのに、今日の母は遠くで刺繍をしながら、ただ穏やかに微笑んでいる。アンナの苛立ちは頂点に達した。
「母様まで! なんでジェーンを叱らないのよ!」
アンナは叫び、広間を飛び出した。
階段を駆け上がり、勢いよく自室の扉を開けた。バン、という音が廊下に響き、背後でジェーンが小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。
アンナは振り返らず、扉を閉めて部屋に飛び込んだ。ジェーンの怯えた顔を思い出すと、仕返しが成功した満足感が胸を満たした。だが、それも一瞬のこと。ウィリアムの冷たい態度が、アンナの心を締め付ける。
「婚約者を無視するなんて、何様のつもりよ!」
彼女は部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。雨音がますます激しくなり、館を包む不気味な空気が濃くなる。アンナは目を閉じ、胸のざわめきを抑えようとした。だが、頭の中にはウィリアムの冷たい視線、ジェーンの裏切り、そしてレノーラの不気味な歌声ばかりが響いていた。
耳を澄ませばレノーラの歌声が、遠くから聞こえてくる。不気味な旋律が館に響き、アンナの胸に冷たい恐怖が広がった。あの女がすべてを狂わせたのだ。ジェーンの裏切りも、ウィリアムの冷たさも、母の変わった態度も、すべてレノーラのせい。アンナはそう信じていた。
あの女はきっと、居もしない幽霊をでっち上げて皆を騙しているのだ。きっとそうだ。
彼女の美貌と歌声で、ウィリアムの心まで奪おうとしている。アンナの嫉妬は、抑えきれなかった。
「ジェーンのこと、絶対に許さない。」
とアンナは呟いた。
「ウィリアムは私のものなのに。」
雨は止む気配を見せず、館は静かだが不気味な空気に包まれていた。彼女の怒りと嫉妬が、この館をさらに深い闇へと引きずり込もうとしていることを、その時のアンナは知らなかった。