私はヒロインにはならない。
「おお、マリアベル! そなたはこの良き国の聖女となるだろう!」
司祭が気持ちよさそうに手を広げてうっとりと語る。
「そなたの金色の髪、紫色の瞳、そして手にしたものを輝かせる黄金の能力! これぞまさに、聖女の頂点に立てる力!」
つるりんとした頭が陽の光を反射して眩しい。
マリアベル・ワインスターは美しい顔をぎゅっとしかめた。
誰にも見られなかったのは、全員が頭を下げて「聖女様〜」などとおいおいと感動しているからだ。
言っておくが、マリアベルは聖女ではない。偶然金色の髪に生まれ、偶然紫色の目をしていて、偶然物を手に取った瞬間に光がきらっと反射しやがるだけだ。
マリアベルはそっと立ち上がった。
司祭に頭に載せられた花冠を床に置き、ぐるぐる巻きつけられた白い布を肩から落とす。
そうして、息を吸い込んだ。
「皆様、私の名前を呼んでくださいませ!」
大きな声で続ける。
「母なる女神が、私を呼んでおられます! さあ皆様も!」
「なんと!」
司祭が感動したように手を握って目を瞑る。
「さあ、皆のもの! 心を込めて名前を呼びなさい! マリアベル! マリアベル!」
マリアベル〜と叫ぶ気持ち悪い奴らを見た彼女は、履かせられていた鎖付きの靴を脱いだ。
抜け殻を残して、すたこらさっさと逃げ出す。
ここ一年ほどこの国に捕まっていたおかげで、逃走経路はシミュレーション済みだ。
裸足であちこちの部屋に身を隠しながら、衛兵の隙をついて城を抜け出す。
誰も追いかけてこないのは、まだ名前を呼びながら頭を下げているからだろう。
「あほらし」
マリアベルは美しい顔に似合わぬ顔で吐き捨てた。
取り敢えず、頭に布をかけて人目を避けるように森の方へ向かう。
◯
「綺麗なお嬢さん──こんなところでどうしたのかな?」
しかし、森に逃げ込んで5時間後に捕まった。
聖女大好きな国からはもうとうに出た。とういうことは、こいつは隣国の男だろう。
マリアベルは無愛想な顔で白馬に乗った王子らしき男から顔を背けた。
「お気になさらず」
「ふっ。無理だよ……無理だね……僕は一度あった女の子を放置したりできないんだ。幼少の頃、魔女に呪いを」
「あ、そういうのいいんで」
「……ん?」
「では私はこれで」
そう言うと、マリアベルはダッシュした。
ぽかんとしていた男は、しかしすぐにマッハで追ってくる。馬の蹄の音が森に響き、ついでに「王子〜、王子〜、どちらにおいでですか〜」なんていう情けない声が聞こえてきた。
「クソ。やっぱりそうか」
マリアベルは呟くと、枝を掴んでせかせかと木を登る。しばらくすると、真下を白馬が通っていった。その鬼気迫る姿はどう見ても狩りをするケダモノにしか見えない。
どうやら本当に、出会った女をお茶に誘わないといけないという馬鹿らしい呪いにかかっているらしい。
マリアベルは更に木を登る。しなる木にも怯えない彼女は、すべてが見渡せる高さまで登ると、小さな湖を見つけ、にやりと笑う。
「よし。今日はあそこで野宿かな」
そう言うと、王子が森から出ていくのをしかと見届けてからそっと地上に降りたのだった。
◯
「夜の湖なんて危険だぞ」
湖で水浴びをして、ぷはっと水面に顔を出した瞬間、やたら顔のいい男がそう言った。
マリアベルは「げえ」という顔で男を見る。
女にそんな顔をされたのは初めてらしい。目を丸くする男に向かって、マリアベルは「ほっといて」と睨む。
「……あ、な、なんだ。どうした」
「あんたこそ狼狽えて何なのよ。向こう行って。上がれないんだけど」
「いや、実は俺は」
「身の上話は結構です」
「実はこの国に住む魔女に誘拐されて……逃げ出してきたところなんだ」
「聞いてないんだけど。そんで向こう向いてって言ってるんだけど」
「助けてくれないか」
「なんで?」
わけがわからない。
こちとら湖に入ったままの無力な女だ。マリアベルは「こりゃやばい」と言わんばかりに勢いよく泳ぎ始めた。
逃げる。
後ろから男が追ってきた。
「お、俺は実は隣国の王子で……!」
「あーあー、聞こえなーーーい!!!」
「大声を出さないでくれ。ま、魔女が」
「魔女さーーん、ここですよーーー!!!!」
マリアベルが大声を出すと、刹那に突風が吹く。
湖の中心に、魔女は鍋蓋に乗って降り立った。
男を見下ろす。
「逃げたな……許さん……」
「ひっ!!」
「お前が巻き上げた私の金を返すまでは絶対に逃さんぞ!」
マリアベルは「自業自得じゃん」と思いながら、とぷんと潜った。
痴情のもつれに巻き込まれたくなんぞない。
◯
「人間の娘──私に何の用だ」
長い青い髪に、見るからに尖った耳の男がじろりとマリアベルを見る。
湖に潜っていると洞窟があり、通過するつもりが足をずるずると引きずり込まれて、なぜかこうなっている。
「お前、名前は」
「知らない人に名前を言っちゃいけないとわかったので言いません」
「賢いな」
うむ、と頷く。その周囲の魚たちが「素敵〜、竜王様〜」とぱくぱくと口を動かす。
マリアベルはげんなりとした。
私は何も聞いていない。
湖の中なのにどうして息ができて話すことができるのかも、なんか明らかに人間じゃない男が目の前でくつろいでいるのも、その周りに魚が泳いでいるのも、素っ裸だったはずなのに、花嫁のような衣装を着せられていることも、何もかもが幻だ。
「さて、美しくない女」
「えっ」
「なんだ。自分が美しいと思っているのか」
「あなたは違うんですね?!」
マリアベルは感動したように立ち上がった。男は怪訝そうに見上げ「頭が高いぞ」と注意してくれるので、嬉しさのあまりにマリアベルはその場でガッツポーズをする。
「おい」
「あ、すみません!」
「お前は私の運命の番ではない。さっさと出ていってくれるか」
「ぜひ! 喜んで! 出口はどちら?」
「知らん」
「は?」
マリアベルはぽかんとする。
「私は知らん」
いいから探すのよ!!
と、マリアベルは男を掴んで立ち上がらせた。
イソギンチャクの裏や、水瓶の中、寝室らしいでっかい貝の下も、いつか来る人間の花嫁のためのダンスホールとやらも見た後で、魚たちの食事場の隣にある明らかな井戸っぽい排水管が目に入る。
「……これどこに繋がってるの」
「知らぬな。おい、誰か」
呼ばれて魚がやってくる。彼女いわく、これは不用品を外に捨てるためのものらしい。
男と顔を見合わせる。
「これか」
「これだな。入れるのか?」
「行けそう」
マリアベルは足をかけ、男にぐっと手を握ってみせた。
男は真似てぐっと手を握る。
「達者でな」
「そっちもね、竜王。お嫁さん早く来るといいね」
「ああ。彼女が逃げないよう、これは塞いでおく」
「監禁系の男はよほど優しくないと嫌われるよ」
「……肝に銘じた」
じゃね、とマリアベルは中に入る。
すとん、と足の感覚がなくなる中で、最後に竜王の声を聞いた。
「詰まらないように流しておくぞ。あと海のものにもお前を頼んでおく」
「え?」
「ではな」
その言葉を合図に、マリアベルは怒涛の水流に流されて流されて──ぽんっと海の中に出たのだった。
◯
「あなたは……もしかして人魚?」
げほげほと海水を履きながら砂浜に打ち上げあられて息も絶え絶えの自分をどうしてそう言えるのかわからない。
マリアベルはぜえぜえと息をしながら、壮絶な顔で男を睨み上げた。
確かに人魚っぽいかもしれない。
竜王に着せられたままだった服は、かなり水を吸った。死ぬかと思った。溺れたことなどなかったというのに。けど不思議と、身体は波打ち際に押し上げられていたのだ。誰のおかげかはマリアベルは考えたくなかった。
「金色の髪……人魚だ……」
「ゲホッ、ハアハア」
「声まで素敵だ! なんてことだ! 信じられない!」
死にかけの女を見て感動している男のほうが「信じられない」だ。マリアベルはよろよろと立ち上がろうとしたが、男にぐっと足を掴まれた。
「人魚……人魚……高く売れるぞ! みんなー! 来てくれー!」
「うっわ、クズかよ!!」
マリアベルは足を思い切り上げて顔を蹴り上げる。腹が立ったので、砂も投げつけて逃げた。
濡れたドレスが重い。
竜王はいい奴だったが、これはナシだ。本当にナシだ。
マリアベルは走った。
途中途中で、追ってくる男たちが「え?!」だの「うわあああ」だの「う、海に引きずられていくう」など叫んでいたが、気にしなかった。
逃げるしかない。
自分の人生からは、全力で前を見て逃げるのみ、だ。
◯
「絶対的ヒロイン?」
マリアベルを見下ろして言う青年は、不思議そうに聞いていた。
大きく頷く。
「そう。生まれたときに近所のばあちゃんが私を見てそう言ったんだって」
「……近所の、ばあちゃん」
青年──セオは、短い髪に日に焼けた姿で、甲板で座って繰り返した。
無口で精悍な顔をした、地味な普通の顔立ちの同年代の青年だ。
人魚狩りに遭ったマリアベルが息も絶え絶えになりながら大きな貨物船に乗り込んで隠れていたところを見つけた彼は、怪訝な顔でマリアベルを見下ろした。
その顔は、どうしてか希望の星のように輝いて見えた。
マリアベルの直感は正しかった。
男に追われていて隠れたのだと簡単に事情を説明すると、服をくれ、髪を隠す帽子をくれ、男装をさせてくれたのだ。
おかげで、ようやくのびのびと青空の下で寛げている。
「セオ、近所のばあちゃんをなめちゃだめだよ。なんでも知ってるんだから。子供の秘密基地から傷に効く薬草、拗れに拗れて今は何もなかったように装ってる人の人間関係まで……」
「それは大事だな」
セオが頷く。
マリアベルは深く、それはもう深く頷き返した。
「ばあちゃんの"ひょんな拍子にヒロインになる出会いが来るだろう!"って予言をさ、私も両親も、そんな馬鹿な〜って思ってたんだけどね、私が十五歳になった頃かな。角を曲がってぶつかった相手が商人の息子……から始まって、躓いて転んで果実を落として拾ってくれた相手が身を隠して街に繰り出した貴族の跡継ぎ──などなど、思い出すのが嫌になるほど、重い肩書の人とどうでもいいことで出会うのよ。もう嫌だって引きこもってたら……見舞いに来た友達の中に王子の知り合いがいて、何でか知らないけど会ったこともない王子から求婚。これが十六歳ね」
「……大変だったな」
「両親は王子のほうが安全安心だって私を説得して送り出したの」
「……ん?」
「ところが、馬車の中で聞く”婚約者に相応しい教育を”って厳しそうな使用人が言うわけ。やってられっか、って逃げたんだよね。森を抜けて船に忍び込んで、あちこちに」
「……」
「で、一年前にとうとう捕まったの。えーと、知ってる?」
若干引いているセオに、マリアベルは「聖女様大好き国」の名前を言った。
「聖女が生まれてくる国だろう」
「そうそう。そこでは私がなんでか聖女様って事になって監禁。でも、崇められて、自由にダラダラ過ごせるならいいかなあとも思ったんだけど」
「?」
「なんと私を聖女ナンバーワンの座に置こうとしだしたのよ。さあ大変。女同士の泥沼バトルの始まり始まり。で」
「逃げた……?」
「そう。昨日から女にお茶に誘わないと死ぬ王子と、女を金蔓にして報いを受けた王子と、湖の底で花嫁を待つ竜王に会って──まあその人はいい人で海に逃がしてもらったら、人魚だと誤解されて売り飛ばされそうになって、今ここ」
マリアベルは船の床を指さした。
セオの表情は硬い。
「……い、一日で?」
「うん。さすがに疲れた」
マリアベルはどたっと甲板に大の字に寝た。
目を薄っすらと閉じる。
「努力したり、相手に尽くしたりすれば楽に暮らせたのかもしれないけど、全部嫌だと思ったから全力で逃げてきた」
「嫌だったのか」
「私はヒロインにはなりたくないの」
マリアベルは視線を感じ、セオを見つめた。
何も起きないし、求婚もしてこない。
自分を「ヒロイン」として扱わず、一人の人間として接してくれている。
それがとてつもなく嬉しかった。
なんて素敵な出会いなんだろう。私にもようやく友人ができるのかもしれない。
マリアベルを見たセオは、少し笑うと空を見つめた。ついでというように、マリアベルのズレた帽子のつばをくいっと引っ張り、顔を隠してくれる。
「日に焼けるぞ」
「……ありがと」
久しぶりに穏やかな時間を感じながら、マリアベルは目を閉じ、心のままに口にする。
「私をヒロインにしない人、いないかな。たとえば、自分の肩書に疑問を感じて旅に出ちゃうような、そういう人。三男くらいで自分の存在意義に葛藤してて、婚約相手にもふられちゃって──孤独に浸って一人で我慢してるタイプの人がいいなあ。そういう人なら支えになりたいって思えるんだけど」
「……」
「最初に求婚してくれたシーアの王子様? って人もさぁ……一度も会わずに求婚してくるんだもん。無理だよねー」
「……シーアの、王子……?」
「うん。知ってるの?」
「いや。知らない。ところで、君の名は?」
真面目に尋ねてきたセオに、マリアベルは答える。
「マリアベル・ワインスター。シーアの没落貴族の末裔よ」
「……」
「セオ?」
不自然な沈黙にマリアベルが起き上がろうとすると、セオは「気にするな」と小さく呟いた。
「そう?」
マリアベルは言われたように気にせず、船の揺れを楽しむように鼻歌を歌う。
その声に呼応するように空が晴れ渡る。
マリアベルは知らない。
このあと天気は一度も崩れずに、この船が自分の生まれた国であるシーアに着くことを。
そして隣で頭を抱えているのが、まさに三男で自分の存在意義を疑問に感じて傷心の旅に出た──最初にマリアベルに求婚してきたシーアの王子であることを。
それでも、船の行く先は明るく晴れやかだった。
読んでくださり、ありがとうございます!