人魚の水槽1
人魚の水槽前に置かれた、テーブルと椅子とヘッドフォン。
ヘッドフォンは水槽に居る人魚の声を通し、その歌を聞いた者を廃人にする。
深夜にだけ開くこの水族館は、観客を楽しませるその裏でもう一つ、人間を安楽死させる手伝いを担っていた。
初めて聞かされた時は驚いた。安楽死が法的に許されていることは知っていたけど、こうも身近なところにそのシステムがあったなんて。
まさか自分が人魚の担当になるとも思っていなかった。
「おはようメリー、今日もよろしく」
水槽越しに声をかけると、メリーがそばによってきて柔らかく微笑む。
端正な顔立ちに、深い青色の瞳。透き通るような金色の髪。光に反射して色をかえる鱗。
僕が恋愛感情を持ち合わせていたら、一目惚れでもしていただろうか。
手を振ると、メリーは同じように手を振りかえしてくれる。
人間ほどの知能を持っていないことが、彼女の救いでは無いだろうか。
毎日訪ねてくる何人もの人間を廃人に変えていること。この過ごしやすくて安全な狭い水槽で一生を過ごさなければならないこと。彼女は何も知らない。
僕は深く耳栓を刺して、彼女の水槽の上へと移動する。
餌の時間だ。
嬉々として上がってきたメリーに、バケツの中の肉を渡す。
同意を得た廃人を加工した肉だ。肉はメリーの血肉となり、骨は取り除いて遺族の元へ送られる。
見た目とは裏腹の野生的な食いっぷりは、最初こそ恐れたものの、今ではすっかり癒しの光景だ。慣れは恐ろしい。
メリーは僕と目が合うと、無邪気に笑う。
「おいしい?それは良かった」
耳栓で聞こえていなくても、なんとく彼女が伝えたいことはわかる。
6年間彼女をずっと世話してきたけど、同僚はみんな鬱になって消えていった。
彼女の無邪気さは、彼らには毒だった。
餌の片付けをしてまた水槽の前に戻ると、いつも通り上司から連絡が入る。
今日は3名。彼女の歌を聞くらしい。
50代ほどの男性が2人、かなり年配の女性が1人。
僕は部屋の入り口で挨拶をして、3人を席に誘導し、各自好きなタイミングでヘッドフォンを装着するよう促す。
初めは目の前の人魚に目を奪われていた3人だったが、少しの雑談の後、1人、また1人とヘッドフォンを装着した。
メリーの歌は、いつでも彼らを見捨てることは無い。
3人はまるで糸の切れた人形のように、その精神を静かに手放した。
メリーはピクリとも動かない3人をみて、不思議そうな顔をしたが、僕と目があって微笑む。そしてまた、すぐにまた歌を始めた。
彼女にとって席に座る人間たちは歌を聞いてくれる客で、僕に引き摺られながら去っていく廃人たちは・・・何に見えているのだろう。
彼女はいつも引き摺られていく廃人に、優しい聖母のような眼差しを向ける。無邪気な彼女とは思えない大人の表情をする。
廃人を運び終わったら、休憩時間だ。
僕は耳栓を深く耳の奥に埋め直して、歌い続ける彼女に目を向ける。
先ほどまで客がいた席に腰掛け、ヘッドフォンを少し遠ざけて、サンドウィッチの包みを開けて食べる。
人魚の歌は、それはそれは美しいものだそうだ。
涙を流して聞いている客を見たことがある。
彼女の歌を聞けば、僕も涙を流すだろうか。それとも、その前に廃人になってしまうんだろうか。
彼女は僕の休憩時間の終わりまで歌い続ける。
僕に聴いてほしいのか、それとも、明日の客のための練習か。
きっと僕は、休憩時間が終わったらいつも通り彼女に嘘を吐く。
「今日も上手だったよ、お客さんすごく喜んでた」
まるで彼女の歌を聴いていたみたいに。
もう何百年も前の話だ。どうせ誰も覚えちゃいないさ。人魚が実在したかどうかなんて。




