桜色のブルーベル
季節外れの桜モチーフの小説ですが最後まで読んでいただけたら嬉しいです!!
春なのに少し暑い桜並木の下、特に何も考えず散歩していたが、足はいつもと同じ場所を目指している。なんなく、やることがなかったから指先を眺めていると、小さな桜色が視界に入る。
顔を上げるがさぁっ、と柔らかく涼しい風が吹いて少しきつく目をつむると、柔らかく温かい笑い声が聞こえて目を開いた。
そこには桜がそのまま妖精になったような女性がいた。別にその人は桜色の髪を持っているわけでも、羽が生えているわけでもない。ただ女性は明るい茶色の髪を風に揺らされている。そして桜を見上げ、柔らかく微笑んでいてその姿に思わず
「きれい……妖精…みたい」
つぶやいた。
女性はこちらを見て驚いたように目を見開いたがすぐに、口元に笑みを浮かべた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
挨拶を返すと女性は嬉しそうに、更に口元の笑みを深めた。そこで、あることに気が付き思わず一歩後退した。
女性の体の向こうに、風に踊らされた花弁と薄い青空が見えた。
もっとわかりやすく言うと、
女性の体の向こうが、透けて見えた。
俺があからさまに動揺しているのに気が付いたのか、女性は少し眉を下げ困ったように笑った。
「私、人間じゃないんだ。妖精なの」
最初はさっきの自分のつぶやきを、からかわれているのかと思った。でも、実際に女性の体は透けているし、人間じゃないかもしれない。でも、やはりさっき言ってしまった妖精というのは、あくまで例えだ。実際に彼女が妖精だと思っていたわけじゃない。
しばらく信じることができなかったけれど、頭がだんだん落ち着いてきたからかはわからないが、なんとなく目の前にいる女性が妖精…とは言わなくても、人間ではないかもしれないと思った。
「本当に、あなたは…妖精?」
そう問うと、女性は少し不満気にコクリと小さく頷いた。
「そう、妖精。人間に憧れて…人間になれなかった、妖精」
哀しみがこもった言い回しに、ふと懐かしさを感じた。けれどなぜそんなことを感じたかはわからなくて、少し首を傾げた。
そんな仕草に目の前の女性は疑問に思っていると感じたのか、
「私もよくわからないや」
風に簡単に飛ばされそうなつぶやきが耳に届いた。
それは、嫌に胸を締め付けた。嫌に胸をざわつかせた。ひどく耳障りなノイズのようにも聞こえた。
気まずい沈黙がこの場に落ちたが、すぐに女性が口を開いた。
「ねぇ、あなたの名前は?」
いたずらっ子のような笑いを浮かべた女性に、同じ人が浮かべる笑みでもこんなにも感じ方がわかるのかと、聞かれたことを無視して考え込んでしまう形になった。すぐに我に返り、慌てて女性の顔を見た。
「あっ…えっと、川神晴佳で、す」
「晴佳…?やっぱり」
小さく名前を呼ばれた気がしたが、ほとんど聞き取れず、女性自身も気にした様子が無いようだったから、聞こえなかったことにした。
「あぇっと…、妖精さん」
「…なあに?」
「あなたの名前は何ですか?」
ただ、静かな空気に居心地が悪くなり、思わず同じことを質問した。けれどすぐに妖精に名前があるのかと思って、内心慌てていると、
「いつか」
澄んだ声が、俺の鼓膜を撫でた。最初は、何かを話し始めるのかと思った。一向に話し始めない女性を、俺は目を見開いて凝視した。
それが彼女の名前だと気がついたからだ。
「私は唯都佳。いつか人間になりたいと願った、桜の妖精」
困ったように、少しふざけたように、悲しそうに唯都佳さんは――
あれ、この人、自分の名前を『唯都佳』って…言った?
聞き覚えのある名前に首を傾げた。そして、あの子と同じ名前の人もいるのか、と驚く。あの子は珍しい名前だったから、もう聞く事のないと思っていた名前。大好きだった響きが懐かしくて、口元が少しほころぶ。
けれど、この人はあの子とは違う。あの子じゃないのはわかっているから、少し寂しくも思った。もう、あの子に会うことは―
「ねえ、晴佳?聞いてる?」
唯都佳の問いかけに、一度思考が止まる。名前を聞いたのは俺なのにそれを聞いて無反応になってしまっていることに気がついた。
弾かれるように顔をあげると、また、唯都佳を見て疑問を感じた。
なんだかさっきに比べ、向こうの景色がはっきり見えるような気がする。
疑問を口に出そうと口を開いたときに、唯都佳がそれに被せるように俺に言った。それと同時に柔らかく風が吹いて、唯都佳の髪を揺らし、桜の花びらが舞った。
「ねぇ、風に飛ばされた桜って、落とさず捕まえると願い事が叶うって知ってる?」
知ってる。
声に出さずに、というか驚きで声が出なかったから頷いた。あの子も同じことを言っていた。なんでこんなにあの子を思い出すんだろう。不思議だ。
唯都佳は小さく手を伸ばして、宙を舞う花びらを捕まえた。何かを願うようにそっと自身の手で花びらを包んで口元に寄せた。小さく唇を動かしただけだから、何を言っているのか分からなかったのだけれど。
なんとなく、願いを聞いちゃいけないような気がした。でも好奇心に負けて、
「何を願ったんですか?」
聞いてしまった。やはり少し悲しそうに、けれど花がほころぶように微笑んだ。
「私を忘れた、大切な人と、もう一度…笑い合うことが、一緒にいることができたらなって。できることなら恋が、したいなぁって」
ギュッと胸が詰まった。少し恥ずかしそうに、とても嬉しそうに教えてくれた彼女のその願いは、手を伸ばせばすぐ近くにあるように感じたが、また果てしなく遠くにあるとも感じた。
唯都佳のその表情にまた、もう会えない好きだったあの子を思い出す。
「晴佳は?ほら!桜捕まえて!願い事!」
そう声をかけられて、反射で右手を伸ばすと、
ふわり
桜の花びらがタイミングよく落ちてきた。
俺は、何を願えるかな…。
…あ。
「もう、会えない、会えなくなった、大好きだった唯都佳に…もう一度、会いたい」
ふとよぎった考えがそのまま願いとして零れる。涙が喉に絡んで言葉が詰まった。思い出は、昔になればなるほど美化されて…心を、余計に苦しめる。思わず捕まえた桜を握りしめた。
目の前にいる唯都佳さんが驚いたように目を見開いて、大粒の涙が頬を流れて地面に染み込んだ。
「あ、ごめんなさい…?えっと、今言った唯都佳は、小さい頃の友達で…。その子が病気になって、もう、会えなくなっちゃったから…」
嫌な気持ちにさせる気はなかった。そう続けようとしたが、
「知ってる。知ってるよ。覚えていたの?晴佳」
「え、なん」
泣きそうな声で遮られた。
なんで知ってるの?と続けようと、けれど言葉は出てこなかった。唯都佳の顔が、小さい頃何度も見た、大好きだったあの子に重なった。鼻の奥がツンとして、心臓がバクバクと音を立てた。
「唯都佳?唯都佳なの?あなたは…?」
あとはもう声にならなかった。
「…ううん。私、は…もうあなたの知ってる唯都佳じゃない」
心臓が引きちぎれたかと思った。違うのはわかってたはずなのに、何を期待していたんだろう。そう考えて、自分が馬鹿らしく思えたが、それを嘲笑うように涙がこぼれた。
「っ、ごめんなさい。人違いなのに、こんな、泣かれて迷惑ですよね。すいませ…」
「でも、私は、あなたの言う唯都佳なの。覚えててくれたの?こんな、私を」
「…ぇ?」
声を絞り出せただけでも褒めてほしい。それが何を意味するのかは、分からなくて、しばらくまばたきを繰り返した。その言葉がどういう意味を含んでいるかなんて、分からなかった。
けれどそんなことはどうでもよく、気づけば唯都佳の方に駆け出して抱きついた。
「唯都佳。唯都佳、会いたかった。会いたかったよ!もう、死んじゃってたのかと思ってた」
唯都佳は驚いたように目を見開いた。その瞳が、どうして?と聞いてきているような気がして、言葉を続けた。
「唯都佳が、病気で、引っ越ししたあと、母さんに、もう…唯都佳には会えないって言われて。ずっと、そうなんだって…思ってた」
でも、本当は違ったの?
それは声に出さずに、彼女の目を見つめた。納得したようにうなずく彼女に違和感を感じる。
「それ、私が頼んだの。もう、こんな私を晴佳に会わせたく、なかったから」
「っは…?」
ちゃんと伝わってたんだ、と続けながら哀しそうに目を伏せる唯都佳に、まばたきを繰り返して応えることしかできなかった。その度に涙がポロポロこぼれる。
会いたくない、じゃなくて会わせたくないという言い回しも気になったが、それよりもあの子と目の前の彼女が、同じ人だというのがとても嬉しくて何も考えられなかった。
「さっき、私は人間じゃないって言ったでしょう?」
そういえばそんな事を言っていた。
――っ
そうだ、唯都佳の体は透けていているんだ。すっかり忘れていたけれど、そのことを思い出してなんでそんな事が起きているのかとパニックになりかけた。
「晴佳、聞いたことある?透明人間症候群」
聞いたことはあった。数年前から話題になった精神的なもので引き起こされるというものだった気がする。
小さく頷くと、唯都佳は切なげに目を細めて口元を笑うように、弧に歪めた。けれどそれは笑顔とは全く似て非なるものだった。
「私は、透明人間症候群なの。ほら、今はなんでかそこまで進んでないんだけどね。でも、だから私はもう、あなたの知ってる唯都佳じゃないの。半透明の…妖精だから。こんな私をあなたに見せたくなかったの」
唯都佳は透けた右腕を見せてきて、喚く幼子に対して諭すような口調で続けた。
「私、引っ越すちょっと前に発覚して、大人になるのは難しいって言われてたの」
「え?」
「不思議でしょ?私が大人になれてるの」
こっちに思考する時間を与える気がないのか唯都佳は、言葉を止めなかった。
「私は、特別なんだって。他の『透明人間』と違って」
透明人間の部分を吐き捨てるように、憎しみを込めたように、けれど哀しそうに、依然唇を弧に歪めたままそう言った。
「待って、待って唯都佳。どういこと?」
「あぁ、そっか。晴佳は知らないもんね。透明人間症候群を発症するきっかけ」
思わず息を止めた。自分が知らなかった唯都佳を知るようで、わずかに恐怖を感じた。だが、唯都佳は知ってほしそうに自分に話してくるから、静かに
「教えてくれる?」
問うことしかできなかった。それに対して、唯都佳はわずかにうつむいて表情を隠した。
「透明人間症候群は、精神からくるものなんだって。発症した人はみんな共通して『消えたい』と強く願ったことがあるんだって」
「……」
「だから、その願いが具現化されちゃって、本当に消え始めちゃうんだって…。本当は消えたいなんてその場しのぎの言葉なのに。皮肉だよ、本当に」
透明人間症候群の発症するきっかけがそうなら、唯都佳は…?俺がそばにいたとき、そんな素振りまったくなかったからって、気づけなかった俺自身を恨む。
「唯都佳」
思わず彼女の名前を口にする。名前を呼ばれたことに気づいて、顔を上げた。その瞳はわずかに潤んでいるようで、声をかけたが続きを飲み込んでしまう。
「なあに」
「唯都佳、唯都佳はいつ…消えたいなんて思ってたの?」
唯都佳は眉を寄せた。小さく、なぜか安堵のようなため息をつくと、柔らかく微笑んだ。
「中2のときに、私いじめられてたの」
「え…」
「クラスの中心的な女子になんでか目をつけられちゃって、それでね」
「も、もういい!それが分かれば十分…だから」
困ったように眉尻を下げ、続きを話そうとするから、慌ててそれを制した。何を言えばいいのか分からなくて、視線を彷徨わせる。
ふと、唯都佳の頬が薄い桜色に染まる。
「っ…!?っえ?うっそ、何?なんで、なんで急に?」
唯都佳が突然戸惑ったような、焦ったような、悲鳴のような声を上げた。自分の透けた手を見つめて。
しばらく状況が理解できなかった。
「ぇ…?」
ただ間抜けな声を間抜けに空いた口からこぼすことしかできなかった。
なんで、いきなり…?知っている限りの、あまり知ってもいないが、透明人間症候群の症状は緩やかにしか進まないとしか聞いたことがない。
なのに、さっきまではっきりとしていた唯都佳の体は、なんで今はぼんやりとしているの?
「嫌!いやぁ!!なんで!?どうして?今まで止まってたじゃん!!どうして晴佳と会えたのに!なんで今なの!?」
自分の体を抱きしめるように、自分の腕を掴み地面に向かって叫んだ。半透明の白い頬を、透明な涙が流れ、灰色のコンクリートを黒く染めた。
自分は、ただその彼女の姿を眺めることしかできなかった。だって、どうしたらいいのかわからない。
「嫌…なんで、おかしいってば…」
消え入るような声で、体がどんどんと透けていく唯都佳に、無意識で彼女に一歩近づいた。
近づいたのに気がついたのか、下を向いていた顔を上げ、瞳を驚きに染めた。
「は、る―」
抱きしめた唯都佳の感触は、想像していた感触とは違って、ちゃんと人を抱きしめている感触がある。
「唯都佳…ごめん」
最初は、少し恥ずかしそうに身じろいでいたが、抵抗を諦めたのか肩に顔を埋めてきた。
「晴佳…。私、私まだ消えたくない」
「うん…」
「まだ一緒にいたいよぉ」
それはいつかに一度『消えたい』と願った少女の悲痛な叫びに聴こえた。
自分はただそれを黙って聞いていることしかできなかった。
「晴佳、晴佳…?」
「ここにいるよ、大丈夫」
何も考えていていない言葉ばかり、口から勝手に溢れていく。
わかってる。この状況が大丈夫じゃないことくらい。でも、そう言って唯都佳の…いや、自分の心をごまかすことしかできなかった。
ずっと抱きしめている唯都佳の体が、じわじわと透明になって消えていっているのが分かる。なのに、何もできることがないのをわかっているからか、ただそれを冷静に受け止めることしかできない。
まばたきをするたびに唯都佳が消えていくのが分かる。
「晴佳、晴佳!私、消えたくない!嫌だ!」
その時強い風が吹いた。桜の花びらが何枚も飛び散り始め、唯都佳の叫びが形になっているようで、息苦しくなった。
「まだ消えたくない!願いの一つくらい、叶えてくれたっていいじゃん!!」
「唯都佳!」
「晴佳!私を、私を助け―」
一層強い風が吹き、桜の花びらが頬に当たった。
もう、腕の中に唯都佳はいなかった。
残っているのは、強く抱きしめている感触と、鼓膜にこびりついた彼女の悲鳴と、
どうしようもないほどの絶望だった。
唯都佳が消えてから数分も経たないうちに、足は勝手に自宅に向かった。消えてしまったことに対して、何も思わなかったわけではない。でも、これはすべて夢だったのではないかと思ってしまっているからだ。
だから、家に帰って寝てしまえば今日の事は全部なかったことになって、唯都佳は透明人間症候群でもなんでもなく、普通の女性として、またあの桜の木の下で出会えるはず…。
なんてのは、ただの妄想でしかない。こうで良かったらいいなっていう理想だ。
未だ実家ぐらしの身だけれど、学生の頃に比べたらガランとした無機質な自分の部屋は、今朝に比べどこか冷たい雰囲気を感じた。
ベッドに腰掛けて、ふと自分の右手を広げてみれば、さっき捕まえた桜の花びらがあった。少しふにゃっとして縁の色が桜色から茶色のようになっていた。
学生の時から残っている勉強机に目を向け、自分に言い聞かせる。
「唯都佳は、まだ生きてる。ただ見えなくなっただけだ」
自分しかいない部屋で何かが動く気配がした。驚いてそっちを見るが誰もいなくて気のせいだと思いかける。
「唯都佳…?」
誰もいないし、ましてや唯都佳がいるわけないのに、なぜか彼女の名前を口にした。
―カタッ
音のした方を見ると、写真立てがあった。飾られているのは小さい頃の、俺と唯都佳の写真だ。
―カタカタッ
ここにいるよ。とでも言いたそうに。
「唯都佳?」
名前を呼べば呼ぶほど、虚しさが込み上げてきて哀しくなってきた。けれど、彼女はすぐそこにいる気がしてならなかった。
勉強机の上に閉じたままにしておいていた日記がひとりでに開く。
横においていたペンもひとりでに動き始めた。
『大好き 愛してる
唯都佳』
「…っ」
一瞬、目の錯覚かと思った。けれど、小さい頃に見た唯都佳の字に酷似したそれは、他ならぬ唯都佳のもので、涙がこぼれてノートに丸い染みを作った。
どうしたら、彼女を助けられるんだろう。
そう考えている間も、ペンは動きを止めなかった。
『晴佳は、私のこと どう思ってる?』
どう…、一瞬考えたが答えはすぐに出る。だって、ずっと考えていたことだ。
「俺も、大好き。唯都佳にずっと会いたかった…だか、ら嬉しかったのに。なのに、なんで…!」
せっかく会えたのに、消えてしまった唯都佳に対して苛立ちをぶつける。唯都佳はただ不運にも透明人間症候群に巻き込まれてしまっただけなのに。彼女に非はないのに、大人になったはずの俺は、ただ子供のように八つ当たりをしてしまう。
ふっと唯都佳の気配を横に感じた。
変だな。
「ふはっ」
ずっとそう感じていたはずなのに、今更そんなことを思って笑えてくる。
なんだかわかった気がした。唯都佳が今まで消えなかった理由。消えてしまった理由。
「唯都佳、ねえ。聞こえてる?」
俺の声に反応するようにペンが、ノートの上をすべった。
『聴こえてる。どうしたの』
「俺、唯都佳が消えなかった理由、消えた理由わかったかもしれないんだ」
ペンがノートの上を転がった。驚いて取り落としたという表現があっているのかもしれない。
「だから、唯都佳が消えないために。ちゃんと聴いててね」
『なにをするの』
焦ったような筆跡が見えたが、気づかないふりをした。
「俺はまだ唯都佳と一緒にいたい。だけど、唯都佳は…もういいの?俺と会えたからもう満足なの?もう俺と会えなくなっても、平気だっていうの?俺は絶対に嫌だね。久しぶりに会えて、すっごくきれいになった唯都佳と隣で笑っていたい。といかもう忘れたの?」
今は聞こえない唯都佳の返事を少し待った。答えは何も聞こえなかったけれど、聞こえたことにした。
「さっき言ってた、桜の願い事。自分で言うのも恥ずかしいけど、もう一度…笑い合って一緒にいたいんでしょ?できることなら恋が、したいとも」
恋がしたいなんて、我ながら恥ずかしくて顔が熱くなるのがわかる。その願いの相手は俺だ。少し照れくさいけれど、少しどころではないけれど、その願いをかなえてあげれば、きっと…。
唯都佳がもう二度と、消えたいなんて思わないように。むしろ、消えたくないって思わせるために。
湧き上がる羞恥心を無理やり抑え込み、見えない唯都佳に向けて言葉を探す。
「俺の願いは、叶ったから。だから、今度は、唯都佳の願いを叶える番」
『晴佳はいいの?』
遠慮がちな筆跡でも、その真意は読み取れる。きっと唯都佳は、願いには俺が大きく関わっていて、叶えるということは少なからず俺に迷惑がかかってしまう、というのを言いたいのだろう。
唯都佳は少しも俺の言いたいことがわかっていない。
だったら、分からせるだけだ。
「唯都佳は消えたままでいいと思ってるの?違うでしょ。そんなわけないでしょ?願いを叶えるんだから」
話すうちに、本当にこれでいいのかと不安が募る。けれど、やらないよりはマシだ。
「俺は唯都佳のことを一時も忘れたことなんてない。だから笑い合うことだってできるし、一緒にいることだってできる。唯都佳が本当に望むなら…」
“できることなら恋が、したいなぁって”
彼女が恥ずかしそうにはにかみながら、教えてくれた願い事。頭の中で何度も繰り返される。
「できることなら恋が、したい」
見えない唯都佳が驚く気配がした。気のせいだろうか。わずかに輪郭が見える気がする。少し風が吹くだけで消えてしまいそうな儚い輪郭だ。けれど希望が見えた。
「違うでしょ。唯都佳」
「なにが、ちがうの」
耳を澄ましていてよかった。そうしてないと絶対に聞き取れないほど小さな声。
「恋がしたい、じゃないでしょ」
微かな輪郭に一歩近づく。ゆっくりと。慎重に。少しの振動でも消えてしまいそうなのだから。
「恋人、に…なりたい、でしょ」
声が震える。震えないように意識したが、結局震えてしまったので無意味だった。
けれど、情けなく震えた声にも意味はあった。
「唯都佳…?」
僅かな輪郭がはっきりと描かれ始め、ゆっくりと唯都佳の形を作り出した。けれど、唯都佳はその事に気づいていないのか、瞳が濡れたままだ。まるで涙だけは透明なようで、否透明なのだ。
涙が透明だということもわからないくらいに俺は、唯都佳が元に戻って嬉しかった。きっと俺の頬にも透明の涙が流れている。
「恋人に、なっていいの?」
こぼれ続ける涙を気にもとめず、ただ俺のことをまっすぐ見つめてくる。
「当たり前だよ。俺が言ったんだから。…あ、けど」
「けど?」
さっきまで消えてしまっていた唯都佳に言うことではないかもしれない。けれど、もう二度と、こんなことは起こらないでほしいから。
「もう、二度と。二度と消えないでくれるなら」
息を吸い込む音が聞こえた。
「もう、もう二度と消えたくない」
唯都佳は満開の桜のような笑顔を咲かせ、やっと涙を拭い始めた。
「待って、やっぱりそういうのじゃなくて…」
どういうこと?と、言いたげな瞳を俺に向けてくる。
「絶対俺が、唯都佳に消えたいだなんて思わせないから」
だから、と続けようとしたが、恥ずかしくて消えかける。唯都佳の目もまっすぐに見つめられなくて、下を向いてしまう。ゆっくりと息を吸って、吐いてを繰り返す。何度も繰り返すうち、恥ずかしさが落ち着いて唯都佳の目を見つめ直す。
「だから、ずっと俺のそばにいてくれない…くれませんか」
なれない敬語と、なれるわけのない告白にぎこちない喋り方になってしまう。
けれど唯都佳は気にした様子もなく、嬉しそうに笑って俺の手を取ってくれた。
「もう、二度と消えないよ。晴佳が一緒にいてくれるから」
静かに見つめ合い、互いの存在を改めて意識して、そっと顔を寄せる。
幸せは透明で目に見えないけれど、お互いの顔は幸せに満ちていて、窓の外を見れば、桜の妖精が踊るように、桜の花びらがひらひらと舞っている。
《透明人間症候群》
消えたいと強く願ったときに必ずではないが発症する。明確な治療法は確立されておらず、症状は緩やかに進行し、およそ2〜3年程度で例外なく命を奪う。正確には命を奪うことはないが、存在を観測することができなくなってしまうため、事実上の『死』という扱いになる。
例外がないとされていたが、唯都佳の場合、消えたいと強く願うも、それ以上に離れてしまった晴佳に会いたいからまだ消えたくないという思いが強かった。そのために、症状の進行はゆるやか、または止まっていた。しかし大人になって晴佳に会えたことにより、『やっと会えたから、もう私は消えてもいい』と考える。そのため、止まっていた透明化が止まっていた分だけ一気に進行しそのまま消えてしまった。その後透明人間になったあとに、また姿を取り戻せたのは晴佳の言葉により『消えたくない』という思いを強めることができたから。
こんな感じの説明で補足できましたかね(苦笑)個人的に大切な思い出を含ませていただいた内容になっているので、少し拙い部分が出てしまったりしているかもしれませんが最後まで読んでいただきありがとうございます!