悪役令嬢のメイド ~破滅フラグを折るのもメイドの務めです~
「アンネリーゼ・スノウドロップ――君を学園、ひいては王国から追放する!」
魔法学園の大講堂。
ここでは、貴族の子である学園の生徒たちが多く集まり、華やかなパーティを開いていた。
そんな中、凛然とした声が響き渡った。
「もちろん婚約も解消だ! 荷物をまとめて即刻出ていけ!」
声の主は、ルイス・ウォルコット。
銀髪にスカイブルーの瞳を持つ少年だった。涼し気な目元に筋の通った鼻。声を上げずとも目を引く容姿を持つ、公爵家の嫡男だった。
「ルイス様、どういうことでしょう?」
名指しされたアンネリーゼは、理性的に問いかけた。
亜麻色の波打つ髪と翡翠色の瞳が特徴で、冷淡に感じられるほど美しい面立ちをしていた。
「どうしたもこうしたもありません」
答えたのは、ルイスの隣にいた少女イヴだった。さりげなくルイスに腕を絡め、立場の違いを言外に告げていた。
「アンネリーゼさんのような、誰とでも寝るようなお股の緩い方はルイス様に相応しくありません」
「そうだ。誰とでも寝る尻軽女のメス豚だったとはな! 騙されるところだった」
ルイスが吐き捨てるように言うと、その横でクスっとイヴが口元だけで笑う。
――これら主に起こっている婚約破棄騒動を、アンネリーゼのメイド、ニコは傍観するしかなかったが、彼女を一番知っているのは自分であると自負していた。
「アンネリーゼ様は、そのようなお方ではありません! いきなり何をおっしゃるのですか!」
「使用人。君の出番ではない。すっこんでろ」
優雅な時間が流れるはずが、いつの間にかその場にいた全員の視線を集めていた。
ニコは、ルイスの隣でうすら笑っている女が元凶なのだとすぐに理解した。
股が緩いのはそちらのほうだろう。
だが、アンネリーゼ本人は周囲の目も突きつけられた婚約破棄も気にした様子はない。
「……愚かな」
ただ、そうぽつりとつぶやくだけだった。
ここで言い争っても見苦しく思われると察したのだろう。
小さく息をついて、踵を返し颯爽とヒールを鳴らして去っていった。
ニコも主のあとを追って大講堂をあとにする。
ニコは言われたことに従うアンネリーゼを手伝い荷物をまとめると、二人で迎えの馬車に乗り込んだ。
「アンネ、大丈夫……?」
「大丈夫よ。殿下があんな平民女に騙されるとは思いもよらなかったけれど、体しか取り柄がない『させ子』に引っかかる程度に優秀なお方は、私にはもったいないわ」
ニコの心配は杞憂に終わった。舌鋒もいつも通りで強がっている様子もない。
だが、屋敷までの道中、アンネリーゼは謎の体調不良に襲われ、命を落とす。
パーティで口にした物に毒が仕込まれていたことは明らかだった――。
これは悪夢なのだとニコは思い込もうとした。
明日になれば、いつものようにアンネリーゼとともに学園に通い、なんでもない一日を過ごすのだ。
しかし同時に、苦しむ親友の表情が目蓋の裏に焼きついて離れない。
目をつむれば、すぐに蘇ってしまう。
泣いて泣いて、涙も枯れ果て、妄想で現実を誤魔化すことしかできなかった。
ニコが泣き疲れて眠ると、遠い昔のどこかの夢を見た。
日本という国での暮らし。
その暮らしの中でハマったゲームがあった。
『ファンタズマガーデン』という魔法学園を舞台にした乙女ゲームで、気に入ったキャラを育て、一緒に戦うこともデートすることもできる、ソシャゲのひとつ。
時間を忘れて熱中した楽しかった記憶……。
ガチャで目当てのキャラが出ずに頭を抱えた記憶……。
仕事で稼いだお金でたくさん課金した記憶……。
様々なことを夢の中で思い出し――。
――そして、目が覚めた。
「……」
目の前に見えるのは、よく知った天井。使用人室の質素な木製の古い天井だった。
周囲を見ても、昨日と同じベッドに家具。窓の外も見知ったものだった。
「ここって……『ファンタズマガーデン』の中……?」
理解すると、知っているはずの景色がやたらと新鮮に感じた。
今自分は、ニコというメイドになっている。
本編にもサブストーリーにも登場せず、名前すらない人物だ。
そしてアンネリーゼは、ゲーム内では悪役の女子であり、物語が進めば理不尽とも強引とも言える展開で破滅するキャラクターだった。
それが、ニコの主人であり親友だった。
あれは、アンネリーゼ退場のイベントだったのだ。
決められたこととはいえ、やはり納得できない。
感情はアナログなもの。ゲームの世界だと理解しても親友を亡くした喪失感は簡単に癒すことはできなかった。
本来なら、今頃支度をして朝の屋敷の掃除をはじめる時間……。そういったメイドとしてのお勤めがあるのに、今日ばかりは身も心も重い。
大きなため息をついてニコがベッドで膝を抱えていると、部屋の扉がノックされた。
ゲーム内のイベントとはいえ、親友の死を目の当たりにしたショックは大きく、今日は誰とも会いたくないし話したくない。
居留守を使うことにして黙っていると、扉が開けられた。
「いるじゃない。返事、しなさいよ」
出入口に立っていたのはアンネリーゼだった。
整っている顔は怪訝そうに曇り、亜麻色をした自慢の髪の毛を耳にかける。翡翠色の瞳はまっすぐニコに向けられており、ニコが何も言わないでいると、小首をかしげた。その拍子に髪の毛がさらりと横に流れる。
「あ、アンネ?」
「返事。居留守を使うつもりだったの?」
「ああ、ええ……?」
ぱちぱち、と瞬きを繰り返すニコ。
馬車の車内で苦しみ、亡くなったはずの彼女が、いつもの様子で部屋の前にいるのだ。
ここがゲームだと知っていてもさすがに理解が追いつかなかった。
「今日は、早起きして学園の図書館で勉強をすると言ったでしょう。昨日の帰りに言ったはずよ。昨日のことも覚えてられないのかしら」
ニコの失態を詰るときと同じ口調で、彼女は言うが、今ではそれすら愛おしい。
「主人に起こされるメイドなんて、あなたが初よ」
「寝ていたわけじゃ」
「寝巻じゃない」
「そうなのだけど……生きていたの?」
「生きていたって、なんの話よ」
「私の見間違いか何かで記憶がぐちゃぐちゃに……? でもあれはイベントだし……?」
「わけのわからないこと言ってないで、準備してちょうだい。馬車が外で待っているわ――あなたの支度ができるのをね」
正直よくわからない事態だったが、アンネリーゼがこうしていつものように悪態をついている。普段なら言い返しているところだが、親友がこうしてまた自分の前に現れたことに感激して、ニコは目がうるんだ。
「アンネ――!」
立ち上がって飛びつこうとしたが、両手を突き出されて拒否された。
「何、何、いきなり」
「アンネが生きているのが、嬉しくって」
「またわけのわからないことを」
辟易するようなアンネリーゼのその表情は、ニコに覚えがあるもので間違いない。なので偽物でもなんでもなく、本物のアンネリーゼだった。
どん、とアンネリーゼはニコを突き飛ばす。
「着替えて。学園に行くわよ。テストが近いのだから」
「はーい」
ぱたん、と扉が締まり、ニコは綻んだ表情のまま使用人服に着替えていく。
「良かった。アンネが生きていて」
ご機嫌に手を動かしていると、ふと、アンネリーゼのセリフを思い出した。
「テストが近い……図書館で勉強……」
知っている。
同じやりとりを以前した。
学園からの帰り道の途中――。
『テストが近いから明日は早起きして学園の図書館で勉強するわ。ニコもついてくるでしょう? それなら、朝のお勤めは明日に限り免除するようにお父様に伝えておくから安心してちょうだい。サボりたいからついて行くって言ったら怒るわよ?』
過日の何気ない会話だった。
その翌日、馬車の御者がいつもの執事ではなく庭師のおじいちゃんだったせいで道を間違え、到着が大幅に遅れてアンネリーゼがムスっとしてしまったのだ。
引っかかりを覚えつつも頭の隅に追いやり、ニコは着替え終えると革張りの鞄を手にして部屋をあとにする。
早歩きで進む廊下からは、馬車が止まっている正面玄関が見える。
御者は、例のおじいちゃんだった。
「……まさか」
たまたまだろうか。
違和感がまた少し膨らみ、待っていたアンネリーゼと合流すると、チクりと文句を言われる。
「あなたを待っていたら早起きが無駄になるわ」
「ごめんね」
「まあいいわ。集中すればいいだけだし」
思ったことをつい言ってしまうのが彼女の性分であり、謝るとそこでスッパリと気分を入れ替えてくれるのも、彼女の性分だった。
「えっと、今日は執事のロブソンさんじゃないんだ……?」
「ロブソンは、今日は所用で屋敷を離れているわ。庭師の彼でも馬車の運転は問題ないからってロブソンが頼んだのよ」
「……そう」
馬車に乗り込むとゆっくり車輪が回り始める。あの日は確か、とニコは記憶を掘り起こす。
『今回も私が成績一位を獲るわ』
と、テストへの意気込みをアンネリーゼは語った。
地頭がよく、それにあぐらをかくことなく勉強を頑張る彼女は、宣言通りそのテストも一位という結果に終わる。
「今回も私が成績一位を獲るわ」
思い出したばかりのセリフが隣から聞こえてきて、ニコは耳を疑った。そして交差点に差し掛かると、馬車がゆっくりと曲がっていく。
「あ――道!」
右に行かないといけないはずが、馬車が左に曲がってしまった。
「馬車が左に……」
疑いを持っていたが、もう間違いない。
毒殺されたはずのアンネリーゼが生きていて、勉強するために早起きして学園に向かい、馬車が道を間違えた。
あの日起きた何気ない出来事をすべて踏襲している。
「間違いない。約三か月前に時間が戻っている」
見慣れない道を走っていることにアンネリーゼも気がついた。
「あ。この道、違うわよ!」
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「道が違うわ。この道、遠回りになってしまうわ」
「ややや。これは申し訳ない!」
「もう」
アンネリーゼは、ふんと苛立ち交じりのため息をついて、腕をゆるく組み、椅子の背にもたれた。
ニコにはどうしてこうなっているのか、さっぱり理解できなかった。
かつて日本でOLとして暮らしていたのに、気づけば好きなゲームの中でいつの間にか生活していた。しかもモブですらないメイドとなって。
かと思えば、アンネリーゼの婚約破棄イベントから数か月時間が遡っている。
「時間が惜しいからこの中でやるわ」
鞄からテキストと筆記用具を取り出し、ガタガタ、と揺れる車内でアンネリーゼは勉強をはじめた。文句は言うが、起きた問題には常に前向きで、いい意味でお嬢様らしくない。
だからこんなふうに仲良くなれたのだろう、とニコは思う。
ニコとしての人生は、幼い頃からこれまで、屋敷のメイドとして育てられてきた。
同い年のアンネリーゼの遊び相手を務めることが多々あり、それ以外は、掃除に洗濯、料理に庭の手入れ……メイド見習いとして働く日々だった。
現在は「見習い」が取れて、屋敷で必要な家事や雑務はすべて完璧にこなせるようになったが、幼いころは失敗することもあり、他の執事やメイドに叱られていた。
そんなとき、アンネリーゼは「何を目くじらを立てているの。些細なことだと思うけれど」とニコを何度も庇ってくれたのだ。
「『ファンタズマガーデン』を知っている私なら」
約三か月後。悪役としてアンネリーゼは根も葉もない噂を流され、この世界からいなくなってしまう。
このままでは、きっとあのイベントが繰り返される――。
「ぶつぶつと何をさっきから言っているの。主人の勉強を邪魔するのがあなたの仕事なのかしら」
「――アンネ!」
「ぴゃあ!? ん、ななな、何っ!? 急に大きい声を出さないで」
「私があなたを助ける……!」
「だったら、すぐ隣で大声出すのをやめてくれるかしら」
耳がキーンってなったわ、とアンネリーゼは嫌そうな顔をした。
事実を語っても理解されるとは到底思えない。
なのでニコは、アンネリーゼの両手を自分の手で包み込み、うんと目に力を込めてうなずく。 アンネリーゼは眉間に皺を作って訝っているが、構わなかった。
こうして、ニコの目標は決まった。
ここがゲームの世界というのなら、親友を救うために破滅フラグをすべて叩き折ってやろう。
王立魔法学園ノーブルガーデン。
生徒の大半が貴族の子弟であり、通えない生徒は学園にほど近い寮で生活している。
アンネリーゼは通える距離に自宅があるため馬車通いしているが、寮生活している生徒のほうが大半だった。
ノーブルガーデンは、勉強や実戦能力を成長させるだけではなく、魔法を発展させるための研究施設なども園内に備わっており、学園だけでなく研究機関としての側面も持ち合わせていた。
そんな学園にアンネリーゼとニコは今日も登校する。
「私がもっと早く注意していればよかった」
学園までの道を間違えるのをニコは知っていた。
だが、確認する必要があったのだ。本当にあの日にループして戻ってきてしまったのか。
「あなたのせいではないわ。登校時刻はいつも通りだけれど、遠回りした馬車の中で勉強がはかどったわ。怪我の功名ってやつね」
はかどるはずがないだろう、とニコは思ったが、アンネリーゼなりの気遣いを無碍にするようなことはしたくなかったので何も言わないでおいた。
前回の今日を思い返してみると、やはり馬車は遠回りして早く学園に着くはずが通常通りの登校時刻になってしまった。
アンネリーゼや他の人物の発言に細かい違いはあれど、今のところあの日をなぞっている。
何かを変えなければ、アンネリーゼはまた同じ結末を辿ってしまう――。
ゲーム『ファンタズマガーデン』は、勉強しか取り柄のないガリ勉で平民出身の主人公イヴが、学園で貴族の息子たちと出会って戦ったりデートしたりしながら絆を深めていくゲームである。
恋愛ゲームが主であるが、パーティを組んで学園の内外で戦うこともあるので、育成ゲームとしても楽しめるものだった。
アンネリーゼは、主人公イヴのライバルとして登場する。
身分も学園の成績もすべてイヴの上をいくアンネリーゼは、嫌なお嬢様としてイヴを煽ったり焚きつけたりする役回りで、高慢で思ったことをすぐに口にするデリカシーの無いキャラクターだった。ニコの中の「私」も当初好感を持ってなかった。
彼女の破滅のあらすじはこうだった。
主人公が親密になった男子は、既にアンネリーゼと婚約関係にあり、主人公が彼女の悪事を暴き、断罪するという流れだ。
主人公目線では、婚約はアンネリーゼの口車に乗せられた結果であるため、プレイヤーのヘイトが集まる設定になっていた。
その後、アンネリーゼの悪事は暴かれ、いくつかの方法で物語から退場する。
……というのが、ゲーム上のアンネリーゼである。
だがゲームを好きになり、何週もプレイしていくうちに、アンネリーゼはそんなに悪くないのでは? と思うようになっていった。罪に対して仕打ちのバランスが合っていないとも思うようになった。
学園の授業中のことだった。
隣の席にいるアンネリーゼが、人差し指を立てる。
「申し訳ありません、お嬢様」
ニコは小声で謝って前を向いた。
第三者の目がある場所では、敬語を使うようにしていた。
生徒は貴族が大半なので、お付きの従者やメイド、執事が生徒一人に対し一人以上ついており、こんなふうにして同じ教室内で授業を受けることができた。
ニコはノートに相関図を書いていく。
そもそも、アンネリーゼと婚約関係である男子(ゲーム上は、主人公が最も好感度の高いキャラ)は、アンネリーゼとの関係があるのだから、浮気をすべきではない。
前回の流れでは、破滅のきっかけを作っているのは男子のほうで、アンネリーゼ自身ではないのだ。
そして次に主人公のイヴは、完全に婚約者を略奪しているので、やはりアンネリーゼに非はない――アンネリーゼの味方としてイベントを俯瞰すると、そうとしか思えなかった。
それでも、悪く見えないようになっているのが主人公ということなのだろう。
ニコは、主人公イヴと書いたところを楕円で囲い、バツを上から書き加える。
「……」
ニコの視線の先には、イヴがいた。
勉強だけが取り柄で容姿は設定上平々凡々。改めて見ると、平々凡々なんてことはなく、普通に可愛らしい感じの子だった。
アンネリーゼが由緒正しい大輪の花とすれば、イヴは路傍の名もない花である。
前回、「きっかけの男子」はルイス・ウォルコットだった。これまで色んな事が前回と同じように、今回もまた彼が「きっかけの男子」なのだろう。
であれば、彼をアンネリーゼから遠ざければいい。
通常なら婚約破棄される流れだが、浮気の証拠か何かを掴んで、関係をやめさせればいい。
アンネリーゼは彼が異性として好きというわけではないし、婚約破棄されても清々としたくらいだったので、証拠さえあれば思い通りの展開にできるはずだ。
授業が終わると、イヴのそばに例の男子、ルイスが近寄っていく。
育ちが良さそうな王子様然とした整った顔立ちは、眼鏡をかけてもきっと似合うのだろう。
銀の髪の毛は短く、前髪が片方の目に少しかかっている。
成績もアンネリーゼに負けず劣らず優秀な彼は、制服もきちっと着こなしていた。着崩す生徒が多いので珍しいのだが、とてもよく似合っている。
ニコの中の「私」が最初に好きになったキャラで、ゲームをはじめるきっかけになりやすい爽やか優等生イケメンだ。
課金とロマンスの思い出があるが、今は要注意人物。
アンネリーゼと婚約していながら、イヴの体に夢中の浮気野郎なのだ。
そう思うと、温和な目元も涼し気な眉も、何もかも憎たらしく思えてくるから不思議だ。
その深い青い瞳とイヴの目が合った。
それを見て、ニコはピンときた。
何かやるな、と女の勘が働くと、イヴが席を立つ。ルイスがその席の横を通り過ぎようとした瞬間、引き出しに紙片のようなものを入れた。かなりさりげなく。
注意していなければ絶対に気づかなかった。
半目のニコは去っていくかつての推しキャラの背を見つめる。
「……慣れてる」
はじめてやるような手つきではなかった。
あんな女慣れしまくっているキャラだったのか、とげんなりしてしまう。好きな顔だが。
ニコは周囲の目に気をつけながら、イヴの席に座る。
「ええっとー、貸した教科書、返してもらわないと――」
適当な嘘をつきながら引き出しに手を入れると、指先に紙の感触があった。
これだ。
さっと握り込んでポケットに突っ込んだ。
「あ、ここ、イヴさんの席だった。失礼しました」
と、棒読みで言って元の席に戻った。
ちらちら、と周囲を確認しながら、紙片を机の下で確認してみる。
『学園が終わったら裏庭で待っていてほしい。二人きりで街に出かけよう』
放課後制服デートの誘いだった。
「……!」
オフィシャルな関係であれば、執事やメイドが付き添うのが当然だった。
ルイスとアンネリーゼのこれまでの会食は、ニコもあちら側の執事やメイドも同席の上で行われていたのだ。
二人きり、というのは、秘密の関係であることを示す大きなキーワードである。
「ニコ、行くわよ」
次の授業のため、アンネリーゼが席を立ちニコを促す。
ふとニコは、今ルイスが浮気していることを知ったら、アンネリーゼはどういう反応をするだろうかと想像してみた。
ニコは教室を出ていき、アンネリーゼの後ろに控えて廊下を歩く。
「アンネリーゼ様、友人の友人の婚約者の男性が、どうやら平民女と浮気をしているようなのです」
「あら、そう」
とくに興味なしといった様子だった。
アンネリーゼは、興味があることはとことん突き詰めるタイプだが、興味がない相手や人物や事柄に関しては、とんでもなく無関心だった。
「も、もし、アンネリーゼ様がその立場だったら……どうなさいますか?」
「そうね……」
綺麗な人差し指を顎に添えて、ううんと数瞬考えると、やがて口を開けた。
「浮気相手が私より優秀であれば納得できるわ。もしそうでないなら、間抜けと婚約が解消できることを素直に喜ぶかしら」
「ううん、このお嬢様ったら……」
つい素が出てしまうニコだった。
アンネリーゼの性格上『優秀であれば』とわざわざ言うのは、そんなやつそうはいないだろうという自信の現れであり、実際アンネリーゼは優秀である。
そして、それが理解できない間抜けとは関係を続けたくない、というニコなりの解釈だった。
「そんな輩がもしいれば、馬車に轢かれて死ねばいいのよ」
ニコもそれは同感だった。
そしてルイスは『そんな輩』である。
「アンネリーゼ様、今日の放課後に何かご予定はおありでしょうか?」
呼び方も、アンネではなくアンネリーゼ様と呼ぶようにしていた。
「今日の放課後? いいえ。これといってないわ。自習するつもりでいるけれど、それが何か?」
「いえ。なんでもありません」
小首をかしげたアンネリーゼだったが、とくに追求することはなかった。
放課後。
ニコは、紙片にあった待ち合わせ場所にやってきていた。
「ルイス様。ここにイヴさんは来ません。アンネリーゼ様とご婚約していらっしゃる身で、イヴさんと何をなさるおつもりだったのでしょう? こんな紙をこっそりと渡して……。どういうご関係なのか、ご説明いただけますか?」
努めて声を低く出し、眉の間にも力を入れて、剣呑な雰囲気を作り出すニコ。
見えやすいように紙片を開き、彼がなんと言うかを想像する。
噛まずに言えるか声に出して練習してみたが、推しを直視しながらとなると、難しいように思えた。
「来ないな……ルイス」
待ち合わせ場所にルイスはまだやってこない。
ルイスは浮気相手のイヴに嘘を吹き込まれ、それを信じた結果、アンネリーゼは破滅する。
イヴとの関係を知る者が現れ、浮気をやめるように言えば、シナリオが大きく変化する可能性がある。
その点が前回と大きく違う。
婚約した相手とそのまま結ばれる、なんの面白味もないストーリーだが、普通はそうなのだ。
ルイスにイヴとの浮気関係を色んな人にバラすと脅せば、彼はイヴとの関係を断つだろう。
これでアンネリーゼの破滅フラグは立たない。
彼女は今、学園の図書館で自習しているところで、しばらく席を外すとニコは伝えてここにやってきていた。
アンネリーゼに事と次第を説明してもよかったが、口ではああ言っても、実際そうだとわかれば彼女は怒るし傷つくし辛い思いもするだろう。
だから、水面下で自分が処理してしまえばいい、とニコは考えていた。
「……」
だが、待ってはみたものの、ルイスはなかなか現れない。
そうしていくうちに、ゆっくりと夕日が傾いていき、空が茜色と藍色のグラデーションになっていた。
まさか、と嫌な予感がする。
「え……嘘……来ないのっ!?」
ナンデ!? とパニックになるニコ。
何パターンか考えていたが、さすがにこれは想定していなかった。
誘っておいて、なぜ姿を見せないのか。
「なんで……? おかしいな……」
裏庭はここしかないし、イヴはそもそも誘われていることを知らない。彼女は今日クラスの当番で放課後は花瓶の水を替えていて――。
はっ、と何かに気づいて、ニコは駆けだした。
シナリオにもし強制力のようなものが存在するとしたら――。
アンネリーゼの結末がフラッシュバックしてニコは泣きそうになる。
震える膝を必死に動かしながら急いで教室に向かった。
中はイヴどころか誰もいない。
花瓶はすべてあるから、水を取り替えに行っているわけではなさそうだ。
職業病のようなもので、ニコは花瓶の水をつい確認してしまうのがクセだった。
水の温度がぬるい。放課後替えていたらもっと冷たくていい。
つまり、水を替えてないのだ。
「サボったな?」
真面目で勉強だけが取り柄っていう設定だったのに。
現実とゲームは違うらしい。
どこに行ったのだろう、と窓から外を見ると、ルイスのウォルコット家の馬車に向かって男女の生徒が歩いているのが見えた。
ルイスとイヴだ。
手を繋いでいる。
シナリオの強制力――。
きっと少々の変化を加えても、既定のイベントは発生してしまうのだ。
あのあと、ルイスはイヴに紙片を受け取ったかどうか確認したに違いない。
そのとき改めてルイスは放課後デートに誘ったのだろう。
「よくもまあ、人目があるところであんな堂々と……!」
これまでのことが積もり積もって、腹が立ってきた。
アンネリーゼにバレても誤魔化せる、と思ってそうなのもムカつく。
このままでは、二人は馬車で街に向かって浮気デートをする。
ニコは大急ぎで外に飛び出した。
「あの――っ!」
お腹から声を出し、まだ離れているルイスとイヴに聞こえるように言うと、ねっとり絡んでいた手がぱっと離れ、二人の足が止まった。
「お二人は、これからどちらへ……?」
息を切らしながら駆け寄って尋ねると、ルイスは爽やかな笑みを浮かべて言う。
「イヴを女子寮まで送ってあげようと思って。ね?」
「はい。殿下のご厚意に甘えさせていただこうと」
二人が目を合わせてうっすらと微笑む。
目線だけで別のことをしゃべっているのが見ただけでわかる。
その通じ合っている雰囲気に吐き気がする……。
「……ルイス様は、アンネリーゼ様とご婚約関係にあるはずです。どういうご関係なのか、はっきりとおっしゃってください」
証拠としてニコは例の紙片を出した。
「イヴさんを今日の放課後、デートにお誘いされていますよね?」
余裕があったルイスの表情が、ここに来てようやく曇る。
ニコが紙片を握り潰したことに気づいたらしく、ルイスの視線が、敵を見るかのように尖ったものに変わった。
「そんな紙切れ程度では、誰が誰を誘っているかなんてわからないだろう」
「私は見たんです。ルイス様がこっそりこの手紙をイヴさんの机の引き出しに入れるところを。アンネリーゼ様には、なんと申し開きなさるおつもりですか」
「あとで彼女には誤解がないように言っておくよ。君は下がってくれ。イヴを送らなくちゃいけないからね」
まだ誤魔化せるつもりでいるらしい。
「これ以上詮索するなら、こちらもスノウドロップ家にメイドの素行について悪い報告をしなくちゃならなくなる。…………わかるね?」
国有数の公爵家を後ろ盾にした脅しだった。
浮気しているルイスが悪い。
一〇〇%、間違いなく。
だが、公爵家の息子というのは後ろ盾が大きい。
些細なことでもニコ程度なら他家であっても即クビにできるくらいの権力がある。
だが立ち向かわなくては、アンネリーゼを救うことはできない。
ぎゅっと手を握り、思わず目に力がこもった。
「――だったらなんですか! 私のクビ程度で親友が破滅から救われるのなら安いものでしょうっ!」
「メイド、おまえの名前はなんだ! それが望みなら父に言ってスノウドロップ家のメイドを辞めさせてやる!」
「ルイス様、この子はニコという尻軽の金魚のフンみたいなメイドです」
ルイスに腕を絡めて横からこそっと言うイヴ。
あの日のパーティの光景が脳裏に蘇る。
ニコは頭に血がのぼって、どうにでもなれという気分でグッと握った拳を力を入れたまま開いた。
「ヤなところもあるけど、努力家で前向きなあの子を侮辱するのは絶対に許さない!」
手の平を振りかざそうとしたとき、すっと人影が端から現れる。
亜麻色の髪の毛が靡き、その香りが鼻先を通り過ぎたとき、バヂンッ、と強烈な音が響いた。
「ニコに嫌味を言っていいのは、わたくしだけよ。平民女」
アンネリーゼがイヴの頬をぶっていた。
突然の事態にイヴは真っ赤になった頬を押さえ、目を白黒させている。ルイスも目を泳がせ口をあんぐりと開けていた。
「ごめんなさい。よくない虫がいたから、つい」
悪びれる様子もないアンネリーゼは、嫌な虫を潰したかのように目を細め、手の平をふっと吹いた。
「アンネリーゼ様……どうしてここに」
「ぎゃあぎゃあ、と喚く声が図書館まで聞こえていたわ。勉強に集中できないのよ。様子を見に来たら、席を外すと言って図書館から出て行ったきりのあなたが、ルイス様とイヴさんを相手に何か言い合いをしているし、気にするなというほうが無理よ」
ほんの少し乱れた髪の毛をさらりと背中に流すアンネリーゼ。
「ルイス様、よろしいかしら」
「な、なんだよ」
「話は聞こえていました。ニコはメイドではあるけれど、わたくしの親友です。誰に何を言われようとも彼女は辞めさせません」
アンネリーゼの背中は実に頼もしく映った。
はっきりと親友だと明言してくれたことも嬉しかった。
「聞こえていたかもしてませんが――」
ニコは、これまでの経緯をアンネリーゼに説明すると、彼女はとくに驚きもしなかった。
「あら、そう」
「アンネリーゼ、君がいながら僕がそんなことをするわけないじゃないか。このドラメイドの戯言を信じるのか?」
「もちろん。婚約者の親友をドラ呼ばわりする貴方よりは、ね」
短く唸り声をあげたルイスを、イヴは不信感がこもった目で見つめていた。
「ルイス様……あんな女とはすぐに別れるって言っていたじゃないですかっ。婚約もなかったことにするって! いつになったらそうなさるのですかっ」
唇を震わせ涙声で訴えるイヴは、もうアンネリーゼにぶたれたことなどどうでもよさそうだった。
「イヴ、いいか。よく聞くんだ――」
「最低です。私はやっぱり体だけが目当てで……」
泣き出しそうなイヴに、ニコがこそっと言った。
「はい、そうですよ」
「ニコ」
アンネリーゼが窘めるように言うが、ニコは反省するつもりはなく小さく肩をすくめた。
本音は、この二人もっとめちゃくちゃになればいいのに、だった。
この浮気に関して、どちらが悪いのかはわからないが、イヴの様子からして関係を持ちかけたのはルイスのほうだったようだ。
「今日は失礼します……」
さめざめと泣き出したイヴが歩き出すと、ルイスが手を掴んだ。
「待――」
その瞬間、バチンッ、と火花が散りそうな凄まじい音がこだました。
イヴがルイスにビンタをしたのだ。
その痛烈さは、間近で見ていたアンネリーゼとニコが目を背けるほどだった。
頬に手形がついたルイスは尻もちをつき、歩き出したイヴを呆然と見送っていた。
「イヴ……、違うんだ、イヴ!」
やれやれ、とアンネリーゼは首を振った。
「一人の女性も愛せない男など、高が知れているわね」
「おっしゃる通りかと」
「帰りましょう」
サラっと髪の毛を弾いたアンネリーゼは、思い出したかのように口を開けた。
「ああ、そうそう、ルイス様」
「な、何?」
前回のパーティでは勇ましく婚約解消を突きつけていたルイスが、下手に出るようなヘラっとした笑みを浮かべた。
「婚約解消の件は、スノウドロップ家から正式に通達があるでしょう」
ルイスの顔がひきつった。
貴族は、体裁を何よりも重んじる。
婚約を解消された側は、何か理由があるとして周囲に見られ、家名に傷がつく。
要は、非常に不名誉で不格好なことだった。
アンネリーゼは、ニコが持っていた紙片をつまみ、ルイスに見せる。
「これを持っていって父に説明すれば、納得もするでしょう。……アンネリーゼ・スノウドロップは、あまり安くはなくってよ」
アンネリーゼがヒールを鳴らし颯爽と歩き出すと、ニコもその後ろに従った。
ブルルルヒヒィィン、とけたたましい馬の鳴き声がすると、ドゴッと鈍い音が聞こえる。
二人が物音に振り返ると、暴走馬車にルイスが轢かれて大騒ぎが起きていた。
結果的に婚約は解消される運びになったが、原因が前回と大きく違う。
それに今回はされる側ではなく、する側。
加えてイヴとの関係も破綻したことおかげで、アンネリーゼの運命は大きく変わった。
この事件が学園内に伝わるのは早かった。
男女ともに人気が高かったルイスは、浮気が原因でスノウドロップ家との婚約が解消され、 爽やか優等生のイメージは地に落ちた。
プライドをへし折られ体裁を保てなくなったルイスは、事件の一か月後、事故の傷が癒えるのを待たずして自主退学した。
その浮気相手がイヴであることも周知の事実であり、婚約者がいることを知りながら関係を持つような軽い女として学園では認知されるようになり、体目当てのナンパが増えたという。
その扱いに耐えられなくなった彼女もまた、学園をやめることになった。
ルイスに啖呵を切ったニコはというと、辞めさせられるのでは、とかすかに怯えていたが、そんなことはなく、つつがなく日々を送ることができた。
ルイス、イヴ退学のシナリオは存在しない。
イヴがルイスをビンタする展開ももちろんない。
あの紙片を握りつぶしたこと、ニコが馬車に乗りかる二人を止めたことでズレが生じていき、シナリオからの脱却に成功したのだ。
「お嬢様――」
魔法学園の大講堂。
学園の生徒であり貴族の子が多くが集まり、華やかなパーティが開かれている。
そんな中、一人の黒髪の少年がアンネリーゼの前で手を差し出していた。
「一曲いかがでしょう。僕と踊っていただけませんか」
うんうん、とニコが平和な成り行きを見守っていると、アンネリーゼが振り返った。
「ニコ、あなたによ」
「え、私? ですか?」
「メイドのお嬢様、お名前を聞かせていただけないでしょうか」
「ニコです。……え? なんで私??」
ここは『ファンタズマガーデン』。
ゲームの中の登場人物たちが魔法学園に通い、今日も青春を謳歌している――。