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The Chalice.

 連れて来られたのは、豪奢なベッドのある部屋だった。これだけ広ければ、冬にいくら暖房を入れても寒いのではないか。王様の寝室と言われても疑わない。扉の表側には剣を佩いた兵士がいた。


 凝ったデザインで動きにくそうなドレスを着た女性と、王子といった装いの少年がベッドの横に座っている。

 怖い、と思った。人間の彼らが、ではなく、ベッドに横たわっている、命に群がっているもの。


 剥き出しの悪意を凝縮したような、目を背けたくなるなにか。五感でない別のものが、カリナに訴えた。あれは害だ、と。


 フェリシッシムスが頭を下げたので、それに倣う。


「そちらが」


 王妃の声は泣き枯らした直後のように割れていた。それでも毅然とした姿を保っている。


「はい。聖女のカリナさまでございます」


 平然も装えない少女に、王子がきりりと丸みのとれない目を向けた。


「聖女カリナさま、父上を頼みます」


「は……」


 はい、と言ったつもりだが自分がなにをするべきなのか知らない。


「聖女さま、陛下はこの世界の魔をひとり請け負い、その身を危険に晒してらっしゃいます。聖女さまには陛下の魔症を祓っていただきたい」


 フェリシッシムスがコップを手にした。神に誓いを立てたときに突然出てきたものだ。形としてはゴブレットなのだろうが、オリーブの枝を(かたど)った取手がついている。そっとカリナの手に乗せた。想像よりも軽い。なにより、飲み物を飲むにしては小さかった。たかだかショットグラス程度。


「その聖杯(チャリス)が導いてくださいます」

 

 聖杯を持てば、彼の示すことが理解できた。

 足下の、もっとずうっと下。地面よりも深く世界の中心近いそこに、なにかあるーー変な感覚だった。糸が、カリナの持つ杯から先に繋がっているような。息を吹きかけたら切れそうなほど細いほそい糸。それを辿って、目が潰れそうに眩しい塊から銀の光を引き上げる。


「おおっ」


 ボーイソプラノが聞こえて、目を開けると聖杯から銀の光が溢れていた。


「陛下のお身体にその癒しを捧げてください」


 この銀の水を飲ませろというのだろうか。

 王妃が少し体を動かして、陛下の眠るベッドに近づきやすいようにしてくれる。

 あのおぞましいものに向かわなければならない。

 

 フェリシッシムスがカリナの背に手を置いて、ほんの少しの力を込めた。途方に暮れた顔をしていたのだろう、安心させようと笑い皺を深くして、寄り添いともに歩く。


 ベッドを覗き込み息を呑んだが、唇を噛んで悲鳴を抑えた。黒い靄に覆われた男の肌は灰色で、ぴくりともしない体は生きていると思えず恐怖を覚えた。手が震えて数滴の銀色が跳ねてしまう。落ちた先のシーツに濡れた跡はない。


 フェリシッシムスの手が聖杯を握るカリナの手に添えられて、ゆっくりと傾けられる。恐れ多くも陛下の、そのご尊顔の上にびしゃびしゃとかけるように。

 これが本物の水だったならカリナはしょっぴかれていたのだろうな、と後からになって背筋を凍らせる。


 実際は何の音もなく、ただ靄が蒸発していくだけ。聖水を垂れ流しにしたまま、陛下の全身にかかるように手を、杯を動かしていく。


 不思議なことに、見た目の容量以上のものが聖杯から流れ出ていた。そしてカリナが手を離すと、ぴたりと流れは止まった。聖杯はフェリシッシムスによって丁寧に袋に仕舞われ、カリナの腰帯に口紐が結ばれる。持っていろということか。


 魔症から解放された陛下は痩せ細ってはいるが、まだ若い健康な肌をした男性だった。


「じきにお目覚めになるでしょう」


 フェリシッシムスが深く頭を下げるので、カリナも真似をする。

 王妃が、人間らしくほうっと息をついた。


「聖女カリナさま。教皇フェリシッシムス。よくぞ……よくぞ陛下の魔症を浄化してくれた。ひとまずの感謝を述べる。また改めて会う席を設けよう」


「もったいなきお言葉でございます。陛下、殿下にはお心安く過ごされますよう。御前を失礼いたします」


 早く家族水入らずで過ごさせてやろうということなのだろう、そそくさと退室した。


「お疲れでしょうが、もう一仕事頼めますかな? 先ほどと同じことをしていただくだけです」


 フェリシッシムスはカリナに伺う。

 緊迫した空気で肩は凝ったが、疲労を感じるには頭がまだふわふわしていた。カリナはできます、と答えた。


 一面の芝生には一片の欠損もなく、完璧な調和が保たれていた。行けと言われても足が踏み出せないくらい。ここはプライベート・ガーデンとやらでは。教皇に促されて彼が先に芝生を歩いたので、その後についていく。


 中庭にぽつんと置かれた様子は、学校で見た百葉箱を思い出した。

 天井は雨よけなのかまっさらな板だったが、側面には装飾に透かし模様がみっちりと彫られており、引っ掻いてどこか欠けてもそうそうわからないだろうな、としみじみ見つめた。箱の下は噴水の土台のように輪の壁になっていて、湿気もなく乾燥している。


 箱を開けると、ワイングラスサイズの聖杯があった。フェリシッシムスがにこりとして、カリナはそれに両手を触れる。


 持ち運びの杯とは違い、ここの聖杯と地中との道を繋げると、カリナが手を離してもそこから聖水は溢れたままだった。それこそ噴水の永久運動のように豊かに銀色が波打つ。さながらミニチュアの滝だった。


 羽ばたく音に仰ぎ見ると、鳩が降りてくる。慣れた様子でカリナとフェリシッシムスを無視し、できたばかりの銀の水たまりで水浴びを始めた。


 観音開きを全開にして、聖水が流れ出すその色彩があってはじめてこの庭は芸術として完成する。それがよくわかった。


The Chalice.

(聖杯)

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